5-9 あと一歩

 職員棟から現れた彼女の頭上に忌まわしきオレンジ色の表示がみえた。

 先程までみえていた『99:99』の点滅は終わり、カウントダウンがスタートしている。しかも尋常ではない速度でタイマーがゼロに近づく。

 焦る僕をあざ笑うかのように、突風が僕らを襲った。


「きゃ!」


 里奈が突風にあおられ、小さな悲鳴を上げた。残りのカウントダウンがどんどん加速する『12:00』……『11:00』……『10:00』……。ものの一秒足らずで十時間を切った。まずい、彼女の元に急がなければ。そう思った僕は思いっきり地面を蹴った。しかし世界がスローモーションのように周囲の景色が、彼女の身体が、僕の身体がゆっくりと動く。

 一歩踏み出すものの、一向に彼女の元に辿り着かない。走馬灯とはこういう事象なのだろうか。ゆっくりと動く世界に妙に数多が冴えわたる。いまなら銃弾でも掴めそうな勢いだ。

 しかしそのスローモーションの世界で予想を上回る速度で動く物体があった。

 突風であおられ、それは激しくガタガタと震える。支えていたロープが弾け飛び空中を舞った。これが新たに生まれた―――。


 巨大な寄せ書きがゆっくりと彼女の目の前に迫る。


 ――彼女の外的要因。


「里奈ああああ!」


 僕は叫ぶ、力の限り声をあげ、自分を鼓舞し全身の筋肉という筋肉に力を込める。恐ろしくゆっくりと動く僕の身体。それでも僕は諦めない。絶対に彼女を助けるんだ!

 彼女目掛け勢いよく走る。

 あと三歩、ダメだ、まだ届かない。


 あと二歩、手を伸ばす。


 あと一歩、もう少しだ。僕は彼女の抱きかかえ地面を激しく蹴り上げた。彼女の柔らかな感触を感じつつも僕はその場を離れる。


 地面が揺れる程の激しい衝撃と共に、校舎とグラウンドに大きな音が周囲に響いた。


 ……。

 …………。

 ………………。

 僕は恐る恐る目を開く。


「り、里奈……」


 グラウンドに出来た水たまりに倒れた僕ら。里奈を押し倒すような結果になってしまったが、それは仕方ない、彼女の無事が最優先だ。


「なおと……」


 良かった、泥に塗れたが、里奈は無事だ。

 僕は安堵のため息を吐き、後ろを振り返る。そこには先程まで建っていた巨大な寄せ書きは、風にあおられ倒れ壊れていた。正直、こんなことが起こるとは思ってもみなかった。まさか里奈のカウントダウンが動き出し、こんな形で訪れようとは……。


 しかしまだ驚きは終わっていない。僕は我が目を疑った。

 里奈の頭上には、またあのカウントダウンが点滅状態に戻っていたのだ。オレンジ色のデジタル表示『99:99』の数字。まだ終わっていないというのか。

 くっそ……。頭の整理が追い付かない。早く田沼と井上の二人と合流して現状を伝えたい。


 僕は平静を装い里奈に声をかける。


「り、里奈、良かった」

「直斗、なにが起きたの……」


 僕は立ち上がり改めて崩れ落ちた寄せ書きに視線を送る。

 地面には巨大な木造の板が横たわっている。危なかった、間一髪とはこの事か。あと一歩遅かったら、この木製の板に押しつぶされていたかもしれない。

 高さ五メートルもある大きさ、こんなものに身体が押しつぶされていたら、軽い怪我で済むはずがない。もし当たり所が悪ければ……。そう考えると僕は背筋が凍った。

 まさかこれが里奈の新しい外的要因になるとは思ってもみなかった。


「風でロープが切れて寄せ書きが倒れて来たんだ」

「……」


 視線を里奈に戻す。水溜りに飛び込んだせいで里奈も僕も泥に塗れてしまった。僕は両手や足を、里奈は背中が泥だらけだ。さすがにこのままでは電車に乗る事も出来ないし、何より身体が冷えて風邪をひいてしまうかもしれない。

 幸いなことに文化祭の開催中は、体操服を用意するようにと、学校側から指示があったため、教室に戻れば着替える事が出来る。恐らく里奈も同じように置き体操服をしているだろう。


「おい! 大丈夫か⁉」


 寄せ書きが崩れた事で周りには生徒の人だかり、そして職員室から駆け付けた教師たちが僕らに声をかけてきた。僕が事情を説明すると、無事でよかったと皆が胸を撫で下ろした。


 その後、僕らは一旦に教室に戻り教室に置いてあった体操服に着替えて、正門で待ち合わせすることにした。着替えた彼女と合流するものの会話は無く、彼女は決して僕の目をみようとしなかった。

 先ほどの一件で僕の話が真実だとわかってくれたか?

 いやそんな楽観視は出来ない。寄せ書きが倒れる直前に見せたあの里奈の目、あの目は色んな大人が僕を見てした冷笑と哀れみが入り混じった目だ。それを思い出し胸が締め付けられる思いが蘇る。里奈、そんな目で僕を見ないでくれ。僕はただ君を守りたいだけなんだ。

 この状態で田沼と合流するのは難しそうだ。そう考えた僕は、田沼にメールを送る。


『ごめんなさい、里奈を家まで送ってきます。理由は後で話します』


 田沼からの返信は無かった。

 電車に乗り彼女の最寄り駅についても、彼女は終始無言だった。本当ならばいつもと違う体操服姿の彼女を見られて嬉しいはずなのだが、いまはそういう考えも浮かばない。僕も彼女もお互いが直視出来ず、ただ黙って並んで歩いた。

 そんなとき急に里奈が立ち止まる。


「……送ってくれてありがとう」

「えっ」


 僕は顔をあげて目の前の景色を確認する。そこは里奈の家の前。俯いて歩いていたため、彼女の家に着いていたのに全く、それに気づく事が出来なかった。

 彼女は短く挨拶を済ませると玄関の扉を開け、家の中へ入っていった。


 なんと声をかければ良かったのだろうか。

 ほら僕の言った通りだろ、いま君の寿命がみえたとでも言えば良かったか?

 それでまたそんな目で僕を見るのか?

 僕はそう自問を繰り返す、けれど自答出来なかった。そんなのは恐ろしくて出来るはずがない。結局なんの答えも得られぬまま、僕は田沼に電話をかけた。


『もしもし』

「……直斗です、さっきはごめんなさい」

『声が暗いなー。何があったんだ?』

「それは、後で話します。いまどちらにいますか?」

『う・し・ろ』


 振り返ると薄暗い街灯に照らされた道路の脇に、白い軽自動車が止まっていた。あれは田沼の自家用車だ。どうやら僕はそれも気づかずに通り過ぎていたらしい。運転席を見ると田沼が通話をしながら電子タバコをふかしていた。

 僕は通話を切り軽く頭を下げた、そして車に近づき助手席のドアを開けて中に入る。車内には電子タバコ特有の匂いが充満していたが、田沼が吸っている銘柄が少しフルーティーな香りなのだろう、井上の車ほど嫌な感じはしない。僕は助手席のシートに身体を預け大きくため息をついた。


「おいおい、いきなりため息から入るとはご挨拶だな」

「……すいません。ちょっと色々あり過ぎて」

「ふむ、文化祭の疲れじゃなさそうだな。んじゃ君の家で話せるか?」


 田沼はそう言うとシートベルトをつけて、車のエンジンをかけた。僕も無言でシートベルトをつけ、再びシートに身体を預ける。車に乗ると子供が眠る理由がわかる気がする。小刻みに震える車内が実に心地よい。

 田沼が運転する車が動き出し、近所の公園のそばを通り過ぎる。僕は助手席の窓の外を茫然と見つめていた。

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