3-8 加速するカウントダウン

 佐藤先輩――。

 思考が追い付かない、里奈の手を掴んでいた人物は、僕と同じ高校に通う天文部の三年生佐藤だった。どうしてここに佐藤が居る。どうして里奈に話しかけている。どうして里奈の手を掴んでいる!


「あ、あいつは……確か夕方、直斗君に絡んできた」

「佐藤……どうしてアイツがこんなところに」

「近所に住んでいたのか?」

「わかりません!」


 わからない、里奈は佐藤を嫌っていた。けれどどうしてさっきは仲良く話していた。あれは僕の前だけの演技だったと言うのか。

 いや違う!

 それならば里奈の手を強引に掴んだりしない。目の前で起こる光景に、僕は胸の奥底から湧き上がる何かに感情が支配された。いつの間にか僕はその場を駆けだした。依然として里奈のカウントダウンは変わらない。けれどそんな事は関係ない。

 彼女を守る。守らなきゃいけない!

 

「お、おい! 直斗君!」


 僕は田沼の制止も聞かず里奈と佐藤に駆け寄る。目の前には変わらず里奈の手を掴み離さない佐藤。里奈は僕の大切な彼女だ。その彼女が危険な目に遭っている。ただ指をくわえて見ていられる程、僕は人間出来ちゃいない。


「佐藤!」


 僕は叫ぶ、奴の名前を。

 その声の反応し、僕の方を向く佐藤と里奈。佐藤は目を大きく見開き、僕の名前を言った。


「直斗くん⁉」

「お、織部⁉ てめえ何でこんな場所に!」

「それはこっちのセリフだ!」


 僕は佐藤と里奈の元に駆け寄り、二人の間に割って入る。そして僕は里奈の前に立ち両手を広げた。


「な、直斗くん!」

「お、織部ェ……!」


 僕は里奈をチラリと横目で見る、里奈は掴まれた手を押さえていた。それ以外に何かされた様子はない。しかし相当強く掴まれていたのか、里奈の顔から血の気は引き唇も震え、怯えた表情で僕の肩越しに佐藤を見つめていた。


「織部……まさかお前がこんなところに現れるとはな……。くっそ、せっかくの計画が台無しだぜ」


 それはどういうことだ。まさか最初から里奈に乱暴をする目的で偶然を装い里奈に近づいたと言うのか。


「計画? 何の計画だ」

「お前には関係ねえ! そこをどけ織部!」


 次の瞬間、佐藤が拳を振り上げ僕に殴りかかってくる、僕は咄嗟に両手で顔を守る。しかし所詮素人の防御、佐藤の右拳は僕の両手をすり抜け頬を捉えた。

 頬に激しい痛みが走る。人に殴られるってこんなに痛いものだったのか。殴られた衝撃と佐藤への恐怖から足が震え、危うくバランスを崩しそうになる。

 佐藤は『へっ』と吐き出すようにセリフを吐き。左拳を振り上げた。奴の左拳が僕の顔面を捉える。鼻に激しい痛みが走る。僕はたまらず佐藤に背を向けて身を縮こまらせらせる。

 鼻への打撃、今まで味わったことのない程の痛みが鼻から顔一面にかけて走る。


「直斗くん!」

「口ほどにねえな! 織部!」


 佐藤はそういうと手を伸ばし里奈の腕を掴んだ。


「や、やめろ!」

「もやしは黙ってろ!」


 次の瞬間、再び僕を激しい痛みが襲う。一瞬何をされたかのか全く理解出来なかった。それはまるで顔が無くなったかと勘違いさせる程痛み、それが佐藤に蹴られた事とわかるまでしばらく時間を要した。

 僕はバランスを崩し、激しく痛む顔をおさえる。鼻をこっぴどく打ち付けられ目を開いておくことが出来ず両目から涙を流す。知らなかった、鼻を殴られるとここまで人間身動きが取れなくなるとは。

 以前テレビ催涙ガスを犯人に浴びせるシーンを見た事がある。大袈裟だと思っていたが、なるほどこれは反撃どころの騒ぎではない。相手を無力化するには絶好の手段だと身をもって知った。

 鼻呼吸が出来ず口を開けると鼻血が口の中に入り込んできた、口の中に鉄くぎを噛んだ時のような味が広がる。僕は口にたまる血を吐き出し、大きく息を吸い込む。しかし一向に痛みは治まらず僕の思考は停止寸前だった。


「沢口、こっちにこい!」

「何をするの! やめて! 直斗くん!」


 奇しくも佐藤の声が僕を現実に引き戻した。里奈をどこかに連れて行こうというのか。そうはさせない、僕は痛みを我慢し両目を開く。

 視線の先には里奈の腕を掴み後ろ手にしている佐藤がいた。


「く、くっそぉ……」

「そこで寝てろ!」


 次の瞬間、また佐藤は僕を蹴る。ちょうどお腹のあたりに佐藤の蹴りは命中した。鼻や頬だけではなく今度は腹まで激痛が走る。半端なく痛い。あまりの痛みでまた呼吸がままならなくなる。僕は苦しさのあまり地面に両手をついた。

 喧嘩とは無縁の僕の人生、勿論人に殴られる事も無縁だった。僕は何故こんな痛い思いをしているんだ。僕は普通に生きたいだけなのに。どうして僕の邪魔をするんだ。


「直斗くん!」

「うるせえ!」

「い、痛い! 離して!」


 里奈の声が聞こえる、憎らしい佐藤の声も聞こえる。身体を動かしたい、里奈を助けたい。けれど少しでも動くと鼻とお腹に針のような痛みが走る。どうやら痛みは二種類あるらしい。継続的に続くジンジンとする痛みとグサッと走る針を刺されたような強烈な痛み。どちらも半端なく痛い、前者はある程度耐えられた。しかし後者は身体の自由を奪うに十分すぎる痛みだと言えた。


「やめ……ろ……」


 僕は痛みに耐えながら顔を上げる。その瞬間、僕は痛みを忘れるほどの衝撃を目撃する。里奈の頭上にあるカウントダウンが物凄い速さで進んでいく。

 先ほどまで一秒一秒刻んでいたデジタル表示のカウントダウンが激しく波打っていた!


『24:00』……『23:00』……『22:00』……。


 何が起こっていると言うのだ、僕は目を見開く。カウントダウンが早まっている⁉


『21:00』……『20:00』……『19:00』……。


 一体どういう事だ、どうしてこんな事が起こっている。僕は痛みも忘れそのカウントダウンを凝視した。

 まさかこれは、佐藤が里奈を――。


 次の瞬間、佐藤がとんでもない行動を起こす。

 佐藤は来ていたジャージの前のジッパーを下ろし、それを取り出した。それは銀色に輝き雲間に差し込んだ月明りに照らされギランと光る。刃渡り三十センチもあろうか思われるほどの長く幅の広い出刃包丁だった。

 その瞬間、僕は悟った。


「そ、そうか……お前が……佐藤、お前が外的要因――」

「何をわけわかんねえ事を言ってやがる!」

「いや! 離して!」


 その時、小さな黒い影が佐藤を襲った。


「うお!」


 その小さな黒い影は牙を向き出し佐藤の腕に噛みついた。それは里奈が連れていた犬、ミニチュアダックスフンドのショコラ。その子が佐藤に襲い掛かったのだ。

 ショコラは小さな身体をブンブンとよじらせ佐藤の左腕に食らいつく、その痛みで佐藤は悲鳴を上げた。


「ぬあああ! この! クソ犬が!」


 佐藤は左腕を大きく振り上げショコラを振り払う、空中に投げ出されたショコラはクルリと体制を整え地面に着地し、グルルルと威嚇した。それと同時に大きな人影が佐藤と僕の前に立ちはだかる。佐藤が人影に向かって驚きの声をあげた。


「な、何だお前は!」

「た、田沼さん!」


 里奈が田沼の名前を呼ぶ、田沼が僕と佐藤の間に立っていた。そして田沼は躊躇なく拳を振り上げ、佐藤の顔面めがけ思いっきり拳を振り下ろした。


「ぐあ!」


 佐藤が小さく悲鳴を上げた、田沼の放った一撃は見事佐藤の顔面を捉え佐藤が怯む、その一瞬の隙をついて里奈は佐藤から離れた。そして里奈の無事を確認した田沼は佐藤に再び向き合った。


「いま、警察を呼んだ。もう観念するんだな」


 僕の前に立ちはだかる大人はそう言った。僕を何度も失望させた何人もの大人、けれどその中にいた一人の大人が僕と里奈を守ってくれている。

 こんな状況にもかかわらず僕はその姿を見て、田沼をカッコイイと思ってしまった。


「くそぉお! このじじいが!」


 しかしそんな思考は一瞬にして遮られた。追い詰められた佐藤は口から涎を垂らしながら、左手にあった包丁を突き出した。その刃は無情にも田沼の腹部に刺さった。田沼は自分の身体に起こった事が信じられないという表情を浮かべ包丁を握りしめ、その場にしゃがみ込み身を縮こまらせせた。


「このじじいがいけなんだ! お前もだ織部! みんな殺してやる!」

「田沼さん!」


 僕は叫ぶ。殴られた痛みを忘れ僕は感情を爆発させる。

 僕は佐藤の足に飛び掛かった。鼻血も流れているし腹部だって針を突き刺されたように痛い。でも痛がるなんて後だ、今はこいつを止めらければならない。

 そうしなければ里奈のカウントダウンは止まらないし、残った僕や田沼さんだってどうなるか分からない。

 この男の凶行を今止めなきゃいけなんだ!


 佐藤に飛び掛かった僕は、残った力を振り絞り佐藤の体制を崩す。地面に倒れた佐藤に僕は馬乗りになった。そして両手の拳で佐藤を殴りつけた。


「ぐ!」


 僕の拳が佐藤に命中し奴が一瞬怯んだ。しかし佐藤は口から涎を流し、目をギラつかせている。これではまだ足りない。まだこいつを止められない。そう思った僕は続けざまに拳を振り下ろした。


「よくも田沼さんを!」


 最初は佐藤も僕に反撃を試みるも、武器を失い馬乗りになられた状態では分が悪い。僕もありったけの力を込めて佐藤を離さない。僕は何度も拳を振り上げ佐藤の顔面に振り下ろす。佐藤の顔がみるみる膨れ上がる。

 それでも僕は拳を振り下ろす事をやめない。やっと見つけたんだ。やっと出会えたんだ。信じられる大人と大切な人に。

 それを奪おうとする者を、僕は絶対に許せない。


「直斗くん!」


 何度繰り返しただろうか。僕は無心で佐藤を殴りつけていた。それを破ったのは里奈の声だった。我に返った僕は里奈に視線を向ける。

 涙でぐしゃぐしゃになった里奈がそこに居た。


 一方の僕も鼻血と涙で視界がぼやける。息も絶え絶えで僕は振り上げた拳をゆっくりと下ろした。

 佐藤の顔はつぶれたトマトのように鮮血に染まり、もう抵抗をやめていた。一瞬死んだかと思ったが、血だらけの口からヒューヒューと音がする、辛うじて息をしているようだ。

 僕はゆっくりと立ち上がると里奈が僕に抱きついてきた。


「直斗くん! 直斗くん!」


 僕も無言のまま、里奈を抱き返す。緊張と沸き上がった感情の糸が解れ僕は地面に膝をついた。


「直斗くん! 大丈夫⁉」

「あはは……さすがにクタクタです」


 僕はハッとなり慌てて里奈のカウントダウンを確認する。

 『11:00』そこで時間は停止していた。


「あ、あ、あ……」


 僕は再び里奈を抱きしめる。


「良かった……。本当に良かった……」


 僕は涙を流す、それは殴られたからではない。僕は里奈の頬に両手を里奈の顔を見つめる。鼻水と鼻血、そして涙でぐしゃぐしゃになった僕の顔はさぞ見苦しかっただろう。

 しかし里奈は大きな瞳に涙を浮かべ、僕の唇に優しくキスをした。


「ありがとう、直斗くん」


 里奈がそういった次の瞬間、彼女の頭上にあった停止したカウントダウンのデジタル表示が薄くなっていく。


「あ、あ、ああ! 里奈、里奈!」


 そして僕の目の前で里奈のカウントダウンが消えた。

 僕は生まれたての赤ん坊のように、全力で彼女の名前を叫んだ。嬉しかった。夜の住宅地の中にある公園で起きる凶行、その被害者となるはずである里奈を見事救えたのだ。

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