陸
月を背景に白獣が天を翔けていた。風を追い越し、光をかいくぐり、白き残像は山々を通りすぎて、やがて地上に降り立つ。見上げるほどの高層ビルが林立する都市の中心地だった。淡い闇のなか、白い外壁が一際目立つ病院の療養所だ。
「間違いない。あの方が、僕の愛する人です」
窓から部屋のなかへと視線を滑らせる。最低限の調度しかない小ぢんまりとした部屋には、初老の女性がいた。彼女には、ずっと探し求めていたあの面影があった。
迷魂はふわりと浮いて窓に近づく。そのようすを遠くから眺めているだけでいると、唐突にばっとふり向かれた。獣特有の鋭い虹彩に捉えられ、一瞬ひやりとする。
「鬼使いさんも、行きましょう」
え、と声を上げる暇もなかった。力強く腕を引かれ、頭にさっと手をかざされる。と思えば、毛の生えた指先が器用に何かをとった。いつのまにかくっついていたのか、それは小さな茉莉花だった。
「ほら、ここに」
導かれるまま窓辺に近づき、花を置く。隣には大輪の月下美人もあった。これ以上は、もういいだろう。動悸が早くなるのを感じながら顔を上げれば、閃光のように迸った光が目を焼いた。
魂からぶわりと光があふれ出し、やがてその輪郭は糸のようにほつれてゆく。最初は力強く、徐々に弱くなって。青白い光芒が引いた後には、小さな光の球のようなものだけが残された。
初めて見る光景に息をすることも忘れていた。俗に言う成仏というものなのだろう、と遅れて思い至る。ひとり取り残されていると手のひらに光の球が収まる。よく見ればそれは球根だった。土に埋めれば立派な花を咲かせるだろう、塊茎だ。
白みつつある東の空で役目を終えた鬼使いだけがたたずんでいる。そろそろ刻限だ。最後に、再び病室の方を振り向いた。ちょうど、あのひとが窓辺に置かれた花々に目を丸くしていたところだった。
「あら、こんなところに……」
彼女は視線を窓の外に向けた。しかし、そこにはすでに満月はない。昇りかけた陽の光だけが顔を出している。
◆ ◇ ◆
冥土の土を掘るのは初めてだった。しかし花を植えることには慣れていたので、さほど時間はかからなかった。てきぱきと球根を植え、土を被せる。すると時間を早送りしているかのように、すぐに芽が出て花が咲いた。真っ赤な、真っ赤な彼岸花だ。
どこか超然としたようすで花園を眺めていると、ふと煙のにおいがしてふり返った。
「范」
「初仕事は無事に終えられたかい?」
そこには長煙管をくわえ、紫煙を吐く女がいた。相変わらず気配を感じさせない、と密かに思う。
「畜生のくせに、随分と意志の強い魂だったじゃないか」
「いつから気づいていたのですか」
「あんたは勝手に決めつけていたんだ」
未練晴らしを望むのは人間だけだと思ったかい?
一言からかってから、またいつものようにいたずらな笑みを浮かべる。
「……やはり、あの依頼書は、あなたが」
正直、一発殴ってやりたい気分だった。しかし范の次の言葉がやけにしみじみとしていたので、その衝動も引っこんでしまった。
「あたしがまだ現役だったときに、あんたを助けられなかったからねえ。あれからあんた、ずっとひとりで待ち続けていて……気がかりだったんだ」
勝手なことを、と思うが口には出さない。たしかに待つことを選んだせいで苦しい思いをしてきたこともあったが、それは自分のためなのだから仕方がなかった。此度の仕事で己の決心がよりはっきりとした。
「ところで、今後はどうする? あたしの権限で、あんたを昇格させてやってもいいんだよ」
今度の笑みは単なるいたずらではなく、慈愛に似たものも含んでいた。しかし、それで己の決意が覆ることはない。
「私は、あのひとをこの場所で待つと、決めたのですから。それまでは、この忘川河で守り人としての使命を果たしましょう」
おやおや、と范はまた微笑んだ。あんたらしいね、と残してくるりと背を向けられる。何か他に言われるものだと思っていたが、ただそれだけだった。煙をくゆらせ手をひらひらとさせながら、その姿は冥土の闇へと消えてゆく。
常夜の空を見上げれば、星はまだ降り注いでいた。そこら一体に赤い花の絨毯を作る彼岸花園へ。
悲願は実り、花と化す。死者の国に生え出るこの花は、単なる彼岸花などではない。
那由多の果てに晴らされた迷魂の未練を、死後まで映し続ける悲願の花なのだ。
忘川河の守り人 白玖黎 @Baijiuli1212
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