書籍化記念SS①


 結婚してから数ヶ月後のふたりの話。



  ◇◆◇◆◇



「レモンケーキは好きか?」

「え?」


 その問いかけは唐突だった。

 リコリスは目をぱちりと瞬かせ、向かいの席に座るロベルトを見つめる。


(レモンケーキ……?)


 別に、レモンの話をしていたわけでも、ケーキの話をしていたわけでもない。強いて言うなら「今日もいい天気ね」と軽い雑談を交わしていただけだった。

 にもかかわらず、なぜロベルトは突然レモンケーキが好きかどうかなんて訊いてきたのか──リコリスは小首を傾げる。


 とはいえ、ロベルトの話がなんの脈絡もないことなんてよくあることだった。

 リコリスは戸惑いつつも小さく笑みを浮かべて答える。


「ええ、好きよ」

「そうか。じゃあ、今から作ってくる」

「えっ?」


 呆気に取られたリコリスをよそに、立ち上がったロベルトはすたすたと部屋を出ていく。

 数秒後、固まっていたリコリスも慌ててロベルトの後を追いかけた。






「ロ、ロベルトっ? 今から作ってくるって……」

「そう時間はかからないから、リコリスは部屋で待っていてくれ。焼き上がったら持っていく」

「いえ、そんな……あの、あなたって料理ができるの……?」

「いや。だが、レモンケーキだけは作れる」


(な、なぜ?)


 お菓子作りだけはできるというひとは聞いたことがあるが、レモンケーキだけ作れるひとなんて聞いたことがない。あまりにも限定的すぎる。

 しかも、ロベルトは生まれながらの侯爵令息だ。貴族の子どもで、さらに男であるロベルトが料理をするなんて──絶縁した母がこの場にいたら、きっと『はしたない』と眉をひそめただろう。

 かくいうリコリスも、料理はできない……というか、したことがなかった。

 だからといってレモンケーキが作れるらしいロベルトに嫌悪感を抱いたりはしないが、お菓子作りをするロベルトなんてリコリスは想像もできない。


 そうこうしているうちにロベルトは屋敷の厨房へとたどり着き、彼は無言でその中へと入っていった。

 厨房にいた使用人たちの視線が集まる中、リコリスは身を縮こまらせながらロベルトの後に続く。


「少し借りるぞ」

「……はい」


 一番古株に見える年配のコックにロベルトが一声かけると、コックはムスッとした顔で低く頷いた。

 リコリスはおろおろとする。


「ロ、ロベルト、仕事の邪魔なんじゃないかしら?」

「昔はよく来てたし、問題ない。それに、ロブは昔からずっとあんな顔だ」


 厨房の一角を陣取ったロベルトは飄々と食材を用意していく。

 小麦粉、砂糖、卵、バター、そしてレモン。

 あらかた材料が揃うと、ロベルトは腕まくりをした。いつも通りの無表情だが、どうやらやる気満々のようだ。


「……ロベルト、本当に作れるの?」

「ああ。君は見ててくれ」


 そう言って、ロベルトははかりで材料の重さを量っていく。その手際は確かに手慣れているように見えた。

 ロベルトがボールにバターと砂糖を入れて混ぜはじめると、先ほどのコック──ロブがロベルトの前にトンっと音を立ててなにかを置いた。白い粉の入った大きめの瓶だ。


「膨らまし粉を忘れてる」

「ありがとう」

「あと、ちゃんと粉は振るいながら入れるんですよ」

「ああ、わかってる」


 ロベルトとの会話を淡々と終えると、ロブはフンと鼻を鳴らし離れていく。

 気難しそうだが、悪いひとではないようだ。


 黙々とレモンケーキ作りを進めるロベルトの手元を覗き込みながら、リコリスはおずおずと口を開く。


「本当に作れるみたいね……」

「これだけは作れる。母上が父上のために昔はよく作ってたからな」

「お義母様が?」

「ああ。父上の好物で、結婚前からよく作っていたらしい。子どもの頃はよく母上が作っているところを傍で見てたから、俺も自然と覚えた」


 混ぜ合わせた生地を型に流し込んで、その上に輪切りにした薄いレモンを数枚並べていく。

 おそらく、後は焼くだけだ。

 リコリスはふわりと顔を綻ばせる。


「なんだか素敵ね」

「そうか?」

「ええ。あなたのお母様がお父様に作ってあげてたものを、今はあなたが私に作ってくれてるんだもの。特別な贈りものをもらえるみたいで、すごくうれしいわ」

「言われてみれば、確かにそうかもしれない」


 僅かに頬を緩めたロベルトが、生地を流し込んだケーキ型を石窯に入れる。そして、ふぅーと軽く息を吐いた。


「あとは焼き上がるまで、部屋で待とう」

「ええ」


 リコリスとロベルトは手を繋いで厨房から出ていく。

 ふたりの後ろ姿を見送った厨房の使用人たちは「坊ちゃんのあんなに楽しそうな顔、はじめて見たかもしれないわね」と笑いあっていた。






「でも、どうして突然レモンケーキを作ろうと思ったの?」


 部屋に戻ったリコリスはソファに腰掛けながら向かいのロベルトに尋ねた。

 ロベルトはちらりとリコリスの左上あたりを見てから言う。


「君の髪飾りの花を見ていたら、レモンケーキのことを思い出して、君に食べさせたいと思ったんだ」

「髪飾りの花?」


 リコリスは自身の髪に手をやる。

 確かに今日のリコリスは、髪に黄色い生花を挿していた。今朝、庭を散歩していたときに庭師の老人が「綺麗に咲いたから」とくれたものだ。


(なるほど……つまり、黄色い花→黄色→レモン→レモンケーキっていう連想ゲームだったわけね)


 言われなければ誰も気付けないだろう。

 リコリスはふふっと笑った。


「そう。庭師さんにもらったのが黄色い花でよかったわ」

「ああ。俺はレモンケーキ以外作れないからな」


 なぜか胸を張って言うロベルトに、リコリスはころころと声を上げて笑う。

 周囲からは遠巻きにされるらしい彼の変わった性格が、リコリスは昔から嫌いじゃないのだ。


 それからふたりが取りとめのない会話を楽しんでいると、不意に扉がノックされた。

 ティートローリーを押しながら入ってきたのは、いつも食事を運んでくれる侍女だ。

 彼女はにっこりと笑って口を開く。


「ケーキが焼き上がりましたので、紅茶と一緒にお持ちしました」

「もうできたのか?」


 リコリスとロベルトは顔を見合わせる。

 会話を楽しんでいる間に、想像以上に時間がたっていたらしい。

 侍女はゆったりとした動きで、リコリスたちの元にレモンケーキと紅茶を運ぶ。


「まあ……!」


 テーブルに置かれたレモンケーキを目にしたリコリスの口から、思わず感嘆の声がもれた。

 カットされたレモンケーキの断面は綺麗な黄色で、バターとレモンの美味しそうな匂いがリコリスの鼻をくすぐった。

 おまけに、皿にはふわっとした生クリームまで添えられている。まるでお店で食べるケーキのようだ。

 リコリスが目を輝かせていると、ロベルトはうれしそうに笑う。


「さあ、温かいうちに」

「ええ!」


 リコリスはフォークを手に取り、一口サイズにカットしたレモンケーキを口へと運んだ。

 まずは生クリームを付けず、そのまま頂くことにする。


(……お、美味しいっ!!)


 口をもぐもぐと動かしながら、リコリスはうっとりと目を細めた。美味しすぎて、ほっぺたが落ちそうだ。


 まだ温かいレモンケーキはふわふわで、甘くて、レモンの酸味がいいアクセントになっている。見た目だけじゃなく、味もお店で食べるケーキのようだった。


「どうだ?」

「とっても美味しいわ!」

「それはよかった」


 ロベルトは満足そうに頷いて、彼もレモンケーキを食べはじめる。久しぶりに食べると確かに美味いな、と彼は懐かしそうな顔をしていた。

 美味しい美味しいと言いながら、リコリスはぱくぱくとレモンケーキを食べ進めていく。そのまま食べても美味しいが、甘さ控えめの生クリームを付けて食べてもすごく美味しかった。


「おかわりもありますよ」

「……お願いします」


 あっという間にレモンケーキを食べ終わってしまったリコリスを見て、侍女が笑顔で声をかけてくれた。

 ほんのりと顔を赤くしたリコリスがおかわりをお願いすると、侍女は新しいお皿にまたレモンケーキを盛り付けてくれる。

 恥ずかしがるリコリスを見て、ロベルトがくすりと笑う。


「気に入ってくれたようでよかった。どんどん食べてくれ」

「ええ……でも、美味しくて食べすぎてしまいそう……」

「食べすぎたっていいさ。君は細すぎるくらいだ」


 確かにリコリスは小柄で華奢な方だが、でもこのあと夕食も食べるのにケーキを何個も食べてしまうのは明らかに食べ過ぎだろう。

 でも──


「……じゃあ、お言葉に甘えて」


 ケーキの甘い誘惑に負けたリコリスは、新しいケーキを再び口へと運んだ。頬に手を当てながらその美味しさにうっとりとする。


「君がこんなに喜んでくれるなんて、俺もうれしいよ」


 美味しそうにケーキを頬張るリコリスを見つめて、ロベルトは幸せそうに微笑んだ。


 この日から、ロベルトはリコリスに手作りお菓子を振る舞うのにハマり、リコリスはロベルトのお菓子を連日のように食べなければならない甘すぎる日々がはじまることになるのだが──それはまた別のお話。

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