第16話
◇◆◇◆◇
リコリスがフリーデル侯爵家で暮らすようになってから一ヶ月後、リコリスとロベルトは結婚式を挙げた。
その際、招待していないはずのリコリスの両親とマーガレットが教会に乗り込んできたが、すぐに衛兵に捕まって外に摘み出されていた。
結婚式からもう一年が経つが、あれ以来ウィンター伯爵家の面々とは顔を合わせていない。どこでなにをしているのかも、リコリスには興味がなかった。
──リコリスにはもう新しい家族がいるから。
「来週はとうとうコリー夫人とのお茶会ね……あのひとマナーにうるさいから苦手だわ……」
「そんなこと言っちゃダメよ。悪いひとじゃないんだから」
マリーナの言葉に苦笑しながら、リコリスはさくさくのクッキーをかじる。
リコリスが結婚してからも、マリーナとの友情は続いている。というより、死ぬまで彼女とだけは友人な気がした。
「わかってるわよ。悪いひとじゃないから、私たちみたいな小娘にも声をかけてくれるんだものね」
言いながら、マリーナは紅茶を飲む。
そして一息ついた後、ちらりと意味ありげにリコリスを見た。
「なに?」
「……あの話、聞いた?」
「あの話?」
「あなたの
リコリスははて?と首を傾げる。
「なにかあったの?」
「領地と爵位を手放すそうよ」
「まあ」
「借金まみれでとうとう手が回らなくなったみたいね。遠い親戚が代わりに領地を引き継ぐそうよ」
「そう。大変ね」
淡々と言って、リコリスは優雅に紅茶を飲む。
その様子を見て、マリーナはおかしそうにくすくすと笑う。
「まるで他人事ね」
「ええ。他人ですもの」
顔を見合わせて、リコリスとマリーナは幼い少女のように笑い合った。
あのつらかった十八年間が嘘のように、リコリスは幸せだった。
いや、あの十八年間があったからこそ、いまがこんなにも幸せに思えるのかもしれない。
「──リコリス」
リコリスがマリーナと笑い合っていると、ふいに耳慣れた声が聞こえてきた。
その愛しいひとの声にリコリスは立ち上がり、笑顔で振り返る。
「ロベルト、おかえりなさい。今日は早いのね」
「ああ、ただいま。たまたま仕事が少し早く終わったんだ」
歩み寄ってきたロベルトがリコリスを抱き寄せて頬にキスをする。いつもは唇にされるが、さすがに妻の友人の前では控えたらしい。
「マリーナ、来てたんだな。ゆっくりしていってくれ」
「お気遣いありがとう、ロベルト。でも、ちょうどそろそろ帰ろうと思ってたところなの」
気を利かせたのか、マリーナはそう言って本当に自身の家へと帰っていった。
マリーナを見送った後、リコリスとロベルトは自室でゆっくりと過ごす。
「ロベルト、これを見て」
「これは……」
リコリスが手渡したものを見て、ロベルトは意外そうな顔をした。
紫の瞳がちらりと真意を窺うようにリコリスを見る。
「昔、俺が君にあげた絵本だ」
「正確には、あなたがくれた絵本と同じ絵本ってだけよ。あれは、マーガレットに取られてしまったから……今日マリーナと買い物に行った先でたまたま見つけて、懐かしくて買ってしまったの」
幼い頃からロベルトは小難しい本ばかりを読んでいたが、リコリスが彼をもてなした何度目かに、ロベルトが絵本を持ってきてくれたことがあった。
絵本といっても小さな子どもが見る用ではなくて、ロベルトらしい小難しい絵本だ。
その絵本をロベルトと一緒に読んだリコリスは、絵本の内容にいたく感動した。絵の色彩が鮮やかで、ストーリーも胸にくるものがあった。
素敵な絵本ね、とリコリスが笑顔で言うと、ロベルトは躊躇なく「あげる」といってその絵本をリコリスにプレゼントしてくれた。驚いたが、宝物をもらえたようで、リコリスはとてもうれしかった。
けれど、結局その絵本はマーガレットに見つかり、奪われた。ロベルトの相手をリコリスに押し付けてきたくせに『ロベルトは私の婚約者になるかもしれないひとなのよ!』と癇癪を起こしたのだ。
リコリスは懐かしい目をしながら、ロベルトが手に持つ絵本の表紙を指で優しく撫でる。
「私たちの子どもが生まれて大きくなったら、この絵本を読んであげましょう」
「それはいいな」
頷くと、ロベルトは口元を緩めて微笑む。
結婚してから、ロベルトは昔よりも表情豊かになった。ロベルトの両親は、リコリスのおかげだといってくれる。
リコリスは夫の美しい顔を見上げ、眩しいものを見るように目を細める。
「ロベルト」
「ん?」
「……私を妻にしてくれてありがとう」
「こっちの台詞だ。俺の妻になってくれてありがとう」
囁いたロベルトがリコリスを抱き寄せ、優しく口付ける。
リコリスもロベルトに身を寄せ、うっとりと瞼を落とした。
もうなにも奪われないし、二度と奪わせない。
この幸せが永遠に続きますように──と、リコリスは愛しいロベルトの腕の中で静かに祈った。
【完】
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