第12話


 あの日、リコリスの初恋は終わった。

 悲しくて苦しい終わり方だった。

 それでも、こうしてまたヒューゴと昔みたいに話せたことを、リコリスは純粋にうれしく思う。


「ヒューゴ」

「……なんだ?」

「幸せになってね」


 ヒューゴは目を見張った後、肩を落としてため息を吐く。


「……リコリス、お前は酷い女だ」

「そうかしら……?」

「ああ。……だが、お前はそのくらいがちょうどいいのかもしれない」


 ヒューゴは笑った。

 それから、打って変わって真剣な顔でリコリスを見る。


「リコリス、ウィンター伯爵家はもう終わりだ。俺の家はともかく、フリーデル侯爵家に見放されたのは痛いだろう。フリーデル侯爵家の後ろ盾のおかげでいままで生活できていたようなものだからな。爵位を没収されることはなくても、今後は実質没落貴族として生きていくしかないだろう」


 リコリスはこくりと小さく頷いた。


 ロベルトが幼い頃、マーガレットにあれほどの仕打ちを受けたのに、なぜフリーデル侯爵家が繋がりを持ったままでいてくれたのか──その答えは、『自宅でも無口なロベルトがそのことを黙っていたから』という単純なものだった。

 しかし、今回の騒動でフリーデル侯爵家は今までのマーガレットの侮辱的な言動を知り、怒りを通り越して呆れてしまったらしい。


 仕事においても、社交界においても、ウィンター伯爵家はフリーデル侯爵家の威光を頼っていた。それを失うのは、ウィンター伯爵家にとって当然相当の痛手である。

 父はなんとかロベルトの父に追い縋ろうとしているらしいが、現状まったく相手にされていないようだった。


 ウィンター伯爵家の評判は、いまや地の底まで落ちている。無礼者を嫌う貴族たちからは遠巻きにされ、醜聞を楽しむ貴族たちからは嘲笑の的になっている状態だ。

 領地の管理と仕事をするためだけに外に出て、あとは屋敷に閉じこもっていれば、ギリギリ貴族としての体面は保たれるのかもしれない。お茶会やパーティーが大好きな母とマーガレットが、そんな生活に耐えられるのかはわからないが。


「リコリス、マリーナの言うとおり、お前は一日でも早くあの家を出た方がいい。甘さは捨てろ。お前が今まであの家族になにをされたのか忘れるな」

「…………でも、お父様は……」

「あのひとがお前になにかしてくれたことがあったのか? なにもしてくれなかっただろう? あのひとはお前が母親とマーガレットに苦しめられてるのを知ってたはずなのに、


 その言葉に、リコリスはハッとさせられた。

 父だけは、悪いひとではないのだと思っていた。娘たちに平等だった。守ったり、助けたりはしてくれなかったが、リコリスに優しかった。


 ──けれど、もしかしたら逆だったのかもしれない。


 父は優しかったが、リコリスを守ることも、助けることもしてはくれなかった。

 どうでもよかったからか。面倒くさかったからか。

 わからない。わからないが、リコリスが十八年間ずっとあの家で苦しんできたことが答えのような気がした。


(……あんなひとたち、家族なんかじゃないわ。大っ嫌い……)


 そう心の中で吐き捨てると、途端に霧が晴れたようにリコリスの胸の内はすっきりした。

 そもそも本当はもうずっと前からわかっていたのだ。が、血のつながっているだけの他人だと。


「もうウィンター伯爵家の悪評は広まっている。お前が家を出て縁を切ったところで、責める人間はそういないだろう」

「ヒューゴ……」

「早くロベルトと話してこい。そして、ロベルトに伝えろ。『リコリスを幸せにできなかったら許さない』ってな」


 そう言って、ヒューゴは少し寂しげに微笑んだ。

 リコリスはなにかを言おうとして、けれど結局なにも言わず小さく頷く。

 たとえどれほど言葉を尽くしても、リコリスはヒューゴを満足させる言葉を与えることだけはできない。


 ヒューゴ・テランドはリコリスの初恋のひとだった。そしていまは、それ以上でも以下でもない。


 ふたりで芝生の上に行儀悪く寝転んで笑いあった日の太陽の眩しさと、草花の匂いをいまでも覚えている。


 でも、もうあの日々に戻ることはない。

 戻りたいと思ってはいけないのだ。


「さよなら、リコリス」

「……さよなら、ヒューゴ」


 別れの挨拶をして、ヒューゴは静かに去っていく。

 彼はこの言葉を告げるために、リコリスの元を訪れていたのかもしれない。いや、尻込みするリコリスの背中を押すために……だろうか。


 ヒューゴは振り返らなかったし、リコリスもその背中を追いかけたりはしなかった。

 遠ざかっていく背中は少し寂しげで、でもあの日と違い、随分とすっきりしているようにも見えた。








「リコリス! よかった、帰ってきてくれたんだな!」

「リコリス! 待ってたのよ!」


 マリーナの屋敷から帰ったリコリスを、少し焦った表情の父と母が出迎えた。


「ロベルトが来てるの。早く行って話をしてちょうだい」

「はい」


 リコリスは淡々と言って、早足でロベルトの待つ客室へと向かう。

 その間も、なぜか父と母はリコリスの隣を並んで歩き、母に至ってはぶつくさと愚痴を言っていた。


「フリーデル侯爵も頑な方で、どれだけ謝罪しても許していただけなくて……今まで仲良くしていた貴族たちも手のひらを返したように冷たくて……本当に薄情な人たちだわ。マーガレットもずっと部屋にこもったままで、なんてかわいそうなのかしら……」

「かわいそうだと? あの子が諸悪の根源だろう! お前があの子を甘やかさなければこんなことにはならなかったかもしれないのに!」

「甘やかしてなんかいないわ! 大切に育てただけよ!」


 リコリスは口論する両親を無視して歩き続けた。

 そして、客室が近づいたあたりで立ち止まり、無表情で両親を見据える。


「ここまでで結構です。これ以上近付くと、あなた方の声がロベルトに聞こえてしまいますから。これ以上恥をかきたくはないでしょう?」


 リコリスの言葉に口論をぴたりと止めた両親は面食らったような顔をした。

 今まで従順だったリコリスの冷ややかな言葉に目を白黒させながら、おずおずと頷く。


「……そ、そうだな。じゃあ、リコリス、あとは頼んだぞ」

「ウィンター伯爵家の命運はあなたにかかってるんですからね」


 両親の言葉にリコリスは眉を顰める。


「……なんの話ですか?」

「だから、あなたがロベルトを説得するのよ。ウィンター伯爵家を助けてくださいって。ロベルトはあなたが好きなんだから、あなたのお願いならきっと聞いてくれるわ」

「お前には大変な思いをさせてすまないが、もうそれしかない。どうか、私たちを助けると思って……」


 両親の目は涙ぐんでいるように見えた。

 しかし、リコリスは冷ややかに両親を見つめ返す。


「なぜ私がそんなことをしなければならないんですか?」

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