第11話


 いま聞こえてくるはずのないその声に、リコリスは一瞬で凍りついた。振り返ることもできず、笑顔のマリーナを見つめることしかできない。


 だが、いま後ろに誰がいるのかなんて、考えなくてもリコリスにはわかっていた。


(ど、どうしてここにヒューゴが……?)


 肩に手を置かれた瞬間、リコリスの体がビクッと大きく跳ねる。

 背後からリコリスの顔を覗き込んできたヒューゴはそれを見ておかしそうに笑った。五年ぶりに見た、あの明るいヒューゴの笑い方だった。


「そんなに驚くことないだろ?」

「ひゅ、ひゅーご……どうして……」

「マリーナに頼んだんだ。お前が俺を避けるから」

「…………」


 リコリスが毎日のようにマリーナの家を訪れているのは、重苦しい雰囲気の屋敷にいたくないからであり、リコリスに会いにくるロベルトとヒューゴから逃げたいからでもあった。


(だって、どうすればいいのかわからないんだもの……)


 リコリスは俯いて、ヒューゴから目を逸らす。

 どっちがいい?なんて突然聞かれても困る。家同士のことなのに、リコリスたちが勝手に決められることじゃない。


 確かに昔はヒューゴのことが好きだった。

 しかし、いまとなってはもう五年もまともに会話をしていない相手だ。

 それになにより、今のリコリスの婚約者はロベルトで、リコリスはロベルトのことが嫌いじゃなかった。


(……ううん、ロベルトが嫌いじゃないとかそんなんじゃなくて、私──……)


 俯いたまま動こうとしないリコリスを見て、マリーナが肩をすくめる。


「リコリス、黙っていても仕方ないじゃない。ロベルトとヒューゴ、どちらと結婚するか決めて、一日でも早くあの家を出た方が身のためよ」

「そんなこと言われても……」

「とにかく、ヒューゴとふたりで話しあってみたらいいじゃない。せっかく来てくれたんだから。もちろん、あとでロベルトともね。私はここで待ってるから、ふたりで家の庭でも散歩してきたら?」


 ペラペラと勝手なことばかり言うマリーナをリコリスは睨んだが、マリーナは涼しい表情で紅茶を飲んでいた。

 それを恨めしく思いつつ、リコリスは緩慢な動きで席を立った。

 リコリスが顔を上げてヒューゴと目を合わせると、ヒューゴは唇の端を吊り上げて満足げに笑う。


「行くぞ、リコリス」

「ヒュ、ヒューゴっ?」


 突然手を掴まれ、少し強引に腕をひかれた。目を丸くしたリコリスはそのままヒューゴに連れられて、マリーナの家の庭へと向かうことになる。

 リコリスが振り返ると、にっこりと笑ったマリーナがひらひらと手を振っており、リコリスは涙目でマリーナを睨んだ。






「こうやってふたりで話すのは久しぶりだな。……昔は当たり前だったのに」

「そうね……」


 庭を歩きながら、ヒューゴとリコリスはぽつぽつと言葉を交わす。

 ヒューゴは平然としているが、リコリスはずっと俯きがちだった。五年ぶりになにを話したらいいのかわからないし、こうやってヒューゴとふたりきりでいることをロベルトに知られてしまったらと思うと怖かった。


 ふと、マリーナの家の庭に立つ大きな木の前で、ヒューゴは立ち止まる。

 それに合わせてリコリスも足を止めた。そして、ちらりとヒューゴの方を見る。


 ヒューゴの金色の目が、まっすぐにリコリスを見ていた。穏やかで、それでいて真剣な瞳だった。


「リコリス」

「……はい」

「単刀直入に言う。俺と結婚してほしい」


 想定していた言葉のはずなのに、リコリスの心臓がどくんと大きく跳ねた。

 まだ昔の恋心が残っていたのか、それともただ怖いからなのかは、リコリス自身にもわからない。


 リコリスが口をつぐんでいると、ヒューゴはさらに言葉を重ねる。


「……あの日のこと、ずっと後悔してた。お前が俺のために『自分がロベルトと結婚したいと言った』って嘘をついたのをわかってたのに、なにも言えずお前を諦めた」

「ヒューゴ……」


 意外な言葉にリコリスは軽く息を呑む。

 あれは、ヒューゴが父親に責められないためについた嘘だった。

 でも、ヒューゴがその嘘に気付いていることは、リコリスも知らなかった。


 あの日、背を向けて去っていったヒューゴの姿を思い出すと胸が切なくなる。


 大好きなひとだった。

 自分をあの悪夢みたいな家から連れ出してくれる王子様だと信じていた。


 懐かしさにリコリスは目を伏せる。

 ──けれど、リコリスの瞼の裏に浮かぶのはヒューゴの顔ではなかった。


 意を決して、リコリスは瞼を上げる。

 そして、今度はリコリスがまっすぐにヒューゴを見つめた。


「ヒューゴ、私、あなたのことが好きだった。結婚して、ずっと傍にいてほしいくらい、好きだった」

「……過去形なんだな」


 ヒューゴは肩をすくめて苦笑いした。

 もしかすると、彼は最初からリコリスの答えなどわかっていたのかもしれない。

 リコリスは僅かに頬を緩める。


「ずっと、ロベルトがマーガレットのことを好きなんじゃないかって怖かった……あの日、ロベルトがマーガレットを拒んでくれて、本当にうれしかった……」

「……仲の悪い妹に自分と同じプレゼントを送るような男でも? しかも、お前にひとこと言えばお前が不安にならずに済んだこともわからない馬鹿な男だぞ」

「……悪気はないのよ」


 昔から、ロベルトは本ばかり読んでいる男の子だった。

 マーガレットはそんなロベルトを退屈だと言ったが、リコリスは彼と過ごす時間がそれほど不快ではなかった。

 ロベルトが淡々と話す面白い本の内容を聞きながら刺繍をしたり、お菓子を食べたり──彼と過ごすそんな穏やかな時間がリコリスは好きだったのだ。


 地獄みたいな人生の中で、確かにロベルトの存在はリコリスの救いだった。

 過去のヒューゴの存在と同じように。


「納得いかないな……俺の方が絶対良い男なのに」


 ヒューゴは悔しそうに呟く。

 しかし、それ以上は強く食い下がる気もないようで、ふっと小さく嘆息した。


「あの日、諦めなければなにか変わってたのかもな……いや、いまさらなに言ったところでたらればか……」

「…………」


 あの日、自分が絶対にヒューゴと結婚したいと言っていれば──……リコリスもそう思ったことは何度もあった。


 けれど、そうはならなかった。できなかった。

 結局あのときのリコリスとヒューゴはまだ子どもで、お互いのすべてを投げ出してまで愛し合える力も覚悟もなかった。


 そうして五年の月日がたち、気付けばリコリスはロベルトに恋をしていた。

 実らなかった恋の傷を時間をかけて癒しながら、ゆっくりと、静かに、あの変わり者の不器用な少年と恋に落ちた。

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