3-4 「絶望」という名の花

「あれ、練習は?」

 声をかけてきた樹を無視し、梓は店内を大股で歩き抜けていき、二階の樹の部屋への階段を駆けあがっていった。ギターを放り出し、床に大の字になって寝転んだ。悔し涙があふれてくる。梓は右腕で目を覆った。我慢してきた感情が声となっておしあげてくる。梓は、はたっと起き上がり、ギターを引き寄せた。泣き声を聞かれまいと梓はギターをめちゃくちゃにかき鳴らし、声をあげて泣いた。

 せっかく文化祭のステージ目指してがんばってきた努力がすべて水の泡と消えてしまったことへの悔しさ、悲しさ、そう仕向けた吉元たちへの怒り。感情が渦のようにのたうち回った。

 吉元たちと顧問に腹が立つのは当然として、梓は静佳にも怒りを感じていた。どうして、黙ってしまうのか。吉元たちから受けてきたいじめをなぜ告発しないのか。静佳は言った、「言うだけ無駄だよ。大人は面倒くさいことは嫌いなんだ」と。そんなことはないと言いたかった梓だが、顧問の態度からすると静佳の言う通りだと思わざるを得なかった。

 泣き疲れ、寝転がっていると樹が階段をのぼってきた。その足音を聞きつけ、梓は起き上がり、頬をぬぐった。涙はすっかり乾いてしまっていた。

 紫色の花を手に、樹が部屋にやってきた。膝をかかえている梓の隣に腰を下ろし、樹はしばらくの間、梓に寄り添っていた。

「どうしたって聞かないの?」

「話したいなら聞くよ」

 梓は樹の脇におかれた花に目をやった。紫色の大振りな花だ。

「その花は?」

「シャクヤク」

「きれいな花だね。……もしかして言霊の花?」

「そう」

「誰の、何ていう言霊?」

「梓の怒りの言霊」

 怒りを表すには美しすぎるというのが梓の率直な第一印象だった。花びらが何枚も重なった大振りの花付きは豪華絢爛なドレスのようなイメージで怒りとは程遠い。

「軽音学部を辞めたんだ」

 樹は驚いた表情をしてみせたが、「どうして」とは聞かなかった。梓も「どうして」の部分を話す気にはまだなれないでいた。

「音楽をやめるわけでは、ないんだね?」

「音楽をやめることはできないよ」

 立華の言葉を思い出しながら梓は言った。

「ねえ、いっくん」と梓は樹に呼びかけた。

「どうして、言葉が伝わらない時があるの?」

 顧問とのやり取りをしているうちに抱いた疑問を梓は樹に問いかけた。

「それはね、相手が聞く耳をもっていないからだよ」

「聞く耳?」

「そう。話を聞こうとする意思がない相手に言葉は伝わらない」

 樹の言葉は梓の腑に落ちた。顧問は、梓の話を聞いているようで聞いていなかった。聞くつもりがはじめからなかったのだろう。静佳の「言うだけ無駄」というセリフの深意もようやくわかったような気がした。言っても無駄なら初めから言わない。そうして人は言葉を失っていく。

「実はさ、今日、軽音学部の顧問と揉めたんだ。それでやめることになった」

 梓は、飲酒喫煙の疑いをかけられた件を樹に話して聞かせた。

「軽音学部で飲酒喫煙って」

 樹はクスクスと笑った。

「笑いごとじゃないって」と梓が怒っても樹はしばらくの間、笑い続けていた。

「ごめん、ごめん。だって、ロックバンドといえば酒、煙草という古臭いイメージをもってきたなあと思って」

「僕らがそんなことをするはずがないって言ったけど、聞いてもらえなかった」

「それで梓は怒っていたんだ」

「そう。まあ、他にもいろいろと……」

 静佳に対しても腹を立てていたと梓は思い出していた。静佳は、顧問や吉元に対して怒りを感じていただろうかとふと梓は疑問に思った。

「怒りの感情をきちんと言葉にすることはとても大事なことなんだよ」

 樹がシャクヤクの花にそっと手をそえた。

「喜怒哀楽のうち、『喜』や『楽』はわりと簡単に口に出来る。『哀』は難しいけれど、悲しい物語や歌はたくさん存在する。『怒』、怒りはどうだろうね。腹立ちまぎれにだったり、八つ当たりになってしまったりして、怒りの感情をきちんと言葉に出来る人は案外と少ないと思うんだ。自分の感情だと自分さえ我慢すれば、とぐっとこらえてしまったりしてね」

 梓は「あっ」と声をあげた。

「なに?」

「自分さえ我慢すればって、それ、静佳だ」

「梓の友達の、言葉が口に出来ないって子だね?」

「うん」

 静佳が釈明もせずに飲酒喫煙の濡れ衣をかぶった話をすると、樹は「それはいけない」と顔を曇らせた。

「感情を言葉にせずにうちにためこんでいるといつか押しつぶされてしまう。特に『哀』と『怒』の感情は気をつけないと。言葉にしないでいると彼らは自分の内でまざりあってしまい、何が何の感情だかわからなくなってしまうんだ」

 樹はそう言い、宙を掻いた。樹の手には言霊の花が握られていた。

「何ていう花?」

 梓は樹の手元をのぞきこんだ。黄色いタンポポのような花がそこにはあった。

「カレンデュラ。キンセンカともいう。『絶望、孤独、悲観』の花だ」

「静佳が生んだ?」

「多分ね」

「こんなにきれいな花なのに」

 梓は樹の手からカレンデュラの花を受け取った。太陽の光のように明るい色をした花だというのに「絶望」とは、人も言霊も外見ではないのだろう。

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