1-12 最後のピース

「森川!」

 呼び止めても静佳の足は止まらない。逃がすかと梓はすぐさま後を追った。

 音楽室のある三階から二階に降りる階段の踊り場で梓は静佳に追いついた。追いつくなり、静佳の細い腕を強くつかんだ。肩で息をしながら、静佳は梓の手をふりほどこうとした。

「何で逃げるんだよ?! ボーカルになってもいいって言ってくれたじゃんか。みんなに紹介するつもりで音楽室に来てもらったのにさ」

 梓につかまれていない方の左腕で静佳は器用にスマホを取りだした。震える指先がスクリーンの上をすべる。

《ごめん。気が変わった》

「そうか、って、僕が簡単に諦めるとでも思う?」

 梓の勢いに圧倒され、静佳はびくりと体を震わせた。

《でも、他の人が》

「話、聞こえてた?」

 静佳が小さくうなずいた。

「反対してたわけじゃない。森川が歌えることを知らないから、え?って思っただけだって。森川の歌を聞いたら、ボーカルになってくれって絶対に言う。僕が保証する」

《でも、僕みたいな人間が》

 その先から静佳の指が動かなくなった。言葉を口に出して言えない静佳だが、文字にすら出来ないでいる。スマホもいまやすっかり沈黙してしまった。

 僕みたいな「口のきけない」人間が歌うだなんて、とでも静佳は言いたかったのだろう。言葉を口に出来ない静佳の特殊な状況にこの時ばかりは感謝せざるを得なかった。思ってもいないことであっても、口にしてしまったり文字に書き残してしまった言葉に時に人は囚われてしまうからだ。

「森川『みたいな』歌える人間は歌うべきだと僕は思うよ」

 梓はじっと静佳を見据えた。言葉として外へ出ることの出来ない思いが突き動かしてでもいるのか、唇がわなないている。

「なあ、森川。声が出せないのに歌は歌えるってどうやってわかったんだ? 歌ってみたからだよね? なんで歌ってみたのさ? 歌おうと思ったからだろ? それは歌いたいという気持ちがあったからなんだよね。森川、歌いたいんじゃないの?」

 梓はつかんでいた手を離した。静佳の腕がだらりと下がった。逃げだす力は尽きてしまったようだった。

「森川、人はなりたい自分になっていいんだよ。歌いたいと思っているなら歌っていいんだ。他の人がどう思うとかまうことない。響や鈴がどう思うとね。でも、僕はあの二人も森川にボーカルになってもらいたいと言うと確信してる。森川の歌声を聞いたらね。でも、聞かせないと話にならない。歌声を聞かせずに逃げてしまうのはあの二人に失礼だと思わない? せめて歌声を聞かせてあげようよ。そのうえで、響や鈴が嫌だっていうんなら、僕も諦める。森川だって諦めがつくだろ?」

 梓は先に立って歩き始めた。三階の廊下まで階段を上りきってしまってから、後ろを振り返った。静佳は踊り場で立ち止まったままだった。だが、その体は三階にむかう階段を向いている。

「来いよ、音楽室はすぐそこだ」

 梓は一人、音楽室へと戻った。


「梓ひとり? ボーカル候補の生徒は?」

 鈴がスティックをくるりと回した。

「逃げられたってとこだろうね。本当は歌えないんじゃないの? 梓、何かのトリックで歌えるって騙されたんじゃないの?」

 響が疑いの眼差しを投げてよこした。

「トリックなんかじゃないよ。ちゃんと本人が歌ってた。響も鈴ももうすぐその歌声を聞ける」

「ずいぶん自信ま……」

 シっと梓は口の前に人差し指を立て、響を制した。澄ました耳に足音が聞こえた。足音は音楽室にむかってきている。

 開けっ放しの音楽室のドアの前に静佳がやってきた。

「来てくれると思ってた。紹介するよ、ドラムの土門鈴とベースの馬場響。響、鈴、僕と同じクラスの森川静佳くん。さっきも話した通り、僕からうちのバンドのボーカルにならないかって誘った。いろいろ思うところはあるかもしれないけど、とにかく、歌だけは聞いて欲しんだ」

 梓に紹介され、静佳が腰を折って挨拶をした。

「さっそくだけど、なんか歌ってくれる?」

 机の上に腰をおろし、梓は観客を決め込んだ。不安げな眼差しを送ってくる静佳にむかって自信を持てと無言で呼びかける。

 気持ちを落ち着かせるように静佳が大きく息を吸い込んだ。すうと吐き出した息と共に歌声がその口をついてでた。

 歌は「フィールド・オブ・サウンド」の「風の街」。

 古い歌だが、清涼飲料水のコマーシャルソングに起用されたことをきっかけに再び脚光を浴び、あらゆるメディアを通し、いろいろな場所で流れている。あまりにも耳にするものだから、梓も響、鈴も曲を覚えてしまった。

 望んでいた物が何かは手にして初めてわかる。静佳の歌声を初めて聞いた時、これだと梓は興奮した。頭の中だけで、ああでもうない、こうでもないと考えるだけで輪郭のはっきりしなかった物が静佳の歌声という形あるものとなり、梓の手の中に落ちてきた。

 これだ、これ。初めて聞いた時と同じく静佳の歌声は体中の血を沸き立たせた。たまらず梓はギターを手に取った。覚えてしまった「風の街」のコードを弾き始める。

 静佳の歌声はいいだろうと言わんばかりに響と鈴を見やる。響は両腕を組み、鈴は頭の後ろで腕を組み、ドラムセットの背後でふんぞりかえっている。身構えていながら響の組んだ腕の指先が動いている。鈴は鈴で、膝から下がリズムを刻んでいる。

「んっもうっ!」

 最初に鈴が屈した。スティックを握り直し、ドラムにむかって叩き下ろす。背が高く、長い手足からくりだされるリズムは細い体のどこにそんな力があるのかと思わせるほどパワフルだ。腰までの長い黒髪を振り乱し、鈴は一心不乱にリズムを刻む。普段は長い前髪で隠れて見えない細い目が鋭い光を放ち、響に「来い」と誘う。

「ったく!」

 響がひったくるようにしてベースを手に取った。ベースとは頭一つ分ほどしか背の高さが変わらない小柄な響がベースを抱えると一見ぎこちない。だが、腕を大きく振り上げてベースを弾く姿はさまになる。

 ドラムにベース、リズムの土台が整った。その上に梓のギターと静佳の歌声が乗る。声も楽器だ。静佳の歌声を聴いているとそう思わずにはいられない。静佳は静佳という声の楽器の優れた奏者だ。よくコントロールのきいた音の出し方、出す音の柔らかさ、音域、音量……それらは、響の勢いがありながらもソフトなベース音、鈴の狂ったようにパワフルでいてかつ正確なリズムを刻むドラム、梓の繊細なギター音とぴたりと調和した。静佳の歌声はバンドが探していた最後のピースだった。

(いい歌声だろ)

 音で響と鈴と会話する。

(ボーカルは彼で決まり!)

 鈴のドラムと響のベースの音がそう言っていた。

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