第2章 午後四時のライヴ

2-1 他人の言葉

 バッバッバッバッンッ!

 音楽室のドアが強く叩きつけられた。ガラス窓がビリビリと震え、引き戸のドアがガタガタと鳴る。ドアの向こうから「うっせー」という怒鳴り声が飛んできた。

「うっせーのはどっちだよ!」

 響が怒鳴り返した。ドアの外からの反応はなかった。「うっせー」と言いっぱなしで声の主はとっくに去って行ってしまったようだ。

「あいつらの方がよっぽど耳障りでうるさいんだけど」

 響が忌々し気にドアを睨みつけた。小柄な響だが、両足を大きく開き、腰に手を当てた姿は仁王像のような迫力だ。その大きな瞳も神々しくも力強い視線を放っている。

 静佳が軽音部に入部して以来、音楽室で練習していると、吉元たちが「うるさい」と文句を言ってくるようになった。

 吉元の文句は不協和音のようなもので、練習中にはおなじみの音になりつつある。防音設備の整っている音楽室で練習しているのだし、放課後は軽音部のバンドが音を出しているとわかっているのだから、うるさいと思うのなら音楽室へ来なければいい。わざわざ三階にある音楽室までやってきて、「うるさい」と投げつけていく言葉の方が梓たちにとってはよほど「騒音」だ。

「毎回毎回、『うっせー』しか言わないのなー。語彙力がなさすぎる」

 響が呆れていると、

「ううん、あるよ。『うざ』『だっせー』『きもっ』『へたくそ』」

 と鈴が茶目っ気たっぷりに引き継いだ。指を一本ずつ折りながら

「『うっせー』を入れて五種類の単語を使いまわしてる」

「少なっ! そして全部みじかっ! ウサギのウンコかっての」

「ウサギのウンコって!」

 丸いコロコロしたものが吉元の口から飛び出してくる様子を想像して、梓は噴き出してしまった。梓の大きな笑い声につられて鈴が、続いて響も笑いだし、静佳までもが声を出して笑い転げた。練習中には楽器以外の音を出さないというバンド独自のルールで私語さえ慎む音楽室に軽やかな笑い声が響き渡る。

「不思議だよね。静佳、笑ったり、歌ったりする時には声が出るのに、しゃべるのはダメってのはさ」

 鈴がくるりとスティックをまわす。

「声帯機能に問題はないんだよね? 何で言葉だけがしゃべれないのか、原因はわからないの?」

 梓の問いに静佳は首を横に振って否定してみせた。

《医者にみてもらったけど、わからないって。声そのものは出るから、心理的なストレスのせいで言葉がしゃべれなくなっているんじゃないかっていう話だよ》

「心理的っていうのは、心が言葉を出させないようにしているってこと?」

《カウンセラーが言うにはそうらしい》

「何もしゃべりたくないって心が黙り込んでいるのか。何でそうなったの? 急に? 何かきっかけがあったりする?」

 梓の畳みかけるような質問攻めに、静佳が目をぱちくりとさせて戸惑っていた。響の大きな瞳がきっと梓を睨み、鈴の細い目が梓を牽制していた。

「ごめん。僕が無神経だった。個人的なことだもんね。話したくないよね」

《話したくないんじゃなくて、話せないんだ。これだって言える原因が誰にも専門家にすらわからないから》

 静佳が笑顔を浮かべてくれたおかげで梓は響と鈴からも許してもらえた。

《一年前、母さんが死んだんだ。身近な人の死が強いストレスになっているんじゃないかっていう話だよ。よくあるらしいんだ。ショックな出来事があったせいで心がダメージを受けて体が機能しなくなることって》

 静佳の話を梓たち三人は神妙な面持ちで「読んで」いた。スマホを使っての静佳とのコミュニケーションも最近では慣れてきた。今では息をするように当たり前の動作で静佳のスマホを見る。

「なおるの?」

 梓はおそるおそる尋ねてみた。

《わからない。何かがきっかけでなおるかもしれないし、一生、このままかもしれない》

 標準フォントの文字だけでは静佳の気持ちはわかりかねた。焦っているのか、悲観しているのか、諦めてしまっているのか。梓はスマホのスクリーンから顔をあげ、静佳の目をみた。作り笑顔のその目の奥に不安が揺らいでみえた。

「心は手術できないし、薬はききそうにもないしねえ」

 響がふうっとため息をもらした。

「心が原因なら、気の持ちようでどうにかなるかもしれないんだよね? 気長に待とうよ。焦るのはよくない気がするなあ」

 細長い手足が叩き出す鈴のドラムは腹の底にずんと響くのに、あっけらかんと言い放つ言葉は空気を軽く明るくさせる。

「歌は歌えるんだよね。歌詞だって言葉なのに、よくわからないね」

 不思議だなあと思ったその考えを梓は口にしていた。

《歌詞は他人の言葉だから》

「他人の言葉?」

 梓はオウム返しに尋ねた。

《誰かが発した言葉で、僕の言葉じゃない》

「ってことは――」

 響が自分のスマホを取りだし、静佳の顔の目の前に突き出した。

「読んでみて」

「響、『読んでみて』ってむちゃくちゃ言うなよ。静佳は歌以外では言葉を口に出来ないんだよ?」

「梓は引っ込んでな。さ、静佳、読んでみてよ」

 梓は響に簡単にいなされてしまった。静佳の方は響の勢いに気圧されるようにしてスマホの文字を追い始めた。目は文字を追いながら、静佳の唇が少しずつ動き始めた。

「『現地時間で――』

 静佳はサッカーの国際試合のニュースをすらすらと読み上げた。

「え? どういうこと? 歌以外では言葉がしゃべれないんじゃなかった?」

 梓や鈴、静佳自身が驚いている中、響だけがやっぱりなと得意げな表情を浮かべている。

「それじゃ、次。これ」

 スポーツニュース記事はよどみなく読み上げた静佳だったが、今度は口がぴくりとも動かなくなった。

「何で?」

 梓は響のスマホを横からのぞきこんだ。スクリーンには「うっせーのはお前だ、吉元」とあった。

「やっぱり。静佳が口に出来ないのは言葉じゃない。静佳自身の気持ちとか考えだよ」

 静佳は凍りついた表情を浮かべてみせるだけで肯定も否定もしなかった。

「ニュースとか歌詞だとかはさ、静佳の気持ちがこもっていないから、言葉として声に出せるんだよ。でも、吉元がうるさいっていうのは静佳自身の考えだから、とたんに声が出なくなるんだ」

「なるほどね。響、カウンセラーみたい」

 スティックの先を拍手するように叩き合わせ、鈴は感心していた。響は腰に手を当て、小さな背をそらせて悦に入っていた。

「まあね。吉元にむかついていたのは私もだから」

「なぁんだ、響もむかついていたから、静佳もむかついていると思った当てずっぽうだったんだ」

 鈴の尊敬のまなざしがたちまちのうちに薄れていく。

「自分の気持ちを言おうとすると何で声が出なくなるんだろうね」

 梓は素朴な疑問を抱いた。

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