1-10 嘘

《昨日、母の日だったんだ》

「ああ、そうだったか……」

 父の視線がリビングへと向けられた。昼間の日当たりのいい場所に母の写真が飾られている。静佳が生まれるよりずっと前の母の写真だ。母の写真はすべて失われてしまったため、写真は母の実家から譲り受けた。ゴッホの「星月夜」の巨大ポスターの前で黄色いレインコートを着た母が糸杉にむかって手をのばし、ジャンプしている写真だ。二十歳ぐらいの時の写真で、たまたま通りかかった美術館の前で撮影したのだという。

「あの花はお前か?」

 父がカンパニュラの花に気づいた。

《母の日だから、花を贈ろうと思って》

「母の日といえばカーネーションじゃないのか?」

《そうらしいけど、きれいな花だったから》

「そうだな。お母さんもきっと喜んでいるよ」

《お母さん、気に入ってくれるかな?》

「どんな花でも、お前からもらえるなら、お母さん、嬉しいと思ってるだろうよ」

 母が欲しいものは花ではないだろう。母には謝らなくてはならない。言わなくてはならない言葉がある。言葉には言霊が宿るという。あの世にいってしまった母に気持ちを伝えるには、霊という字を持つ言霊の力を借りるしかない。だが、その言葉を今は口に出すことが出来ないでいる。出来たところで、死んでしまった母は戻ってこない。後悔の念と言葉とは、自責の重荷から自分を解放するだけの自己満足でしかない。罪を償うには、母に謝るには、自分から母のもとへ向かうしかないのだろうか……。

《僕は生きていていいの?》

「当たり前だ」

 間髪入れずに父の返事があった。

 母が自分を助けようとさえしなければと責めるなという父の思いやりだ。父は静佳の犯した罪の重さを知らない。静佳のしたことを知っても父はゆるしてくれるだろうか。母はゆるしてくれているだろうか。静佳自身は決して自分をゆるすことはできない。

 いっそすべてを父に打ち明けてしまおうかという衝動に駆られた。真実を知ったら父は激高するだろう。だが、ゆるさないと怒鳴られ、罰せられる方が秘密を抱え続けるよりよほどましだ。罰せられたなら、罪の償いが出来る。しかし、静佳を罰する権利を持つのは母だけだ。母でなければならない。父に罰せられたところで、それは父に新たな苦しみを負わせるだけなのだ。母を悲しませ、そのうえ父にまで苦しみを与えるとは考えるだけでも心苦しい。やはり犯した罪は一生自分ひとりで背負っていかなくてはならないのだ……。

「そういえば、お前、スマホはどうした?」

 父が、静佳がスマホではなくタブレットを使っているとようやく気付いた。

《学校に忘れてきた》

「気をつけなさい。スマホはお前にとっては命綱のようなものなんだから。肌身離さずに持っていて、絶対に目を離してはいけないよ」

《うん、気をつける》

 父はまたいつもの仏頂面に戻ってしまった。

 バラエティ番組の出演者による笑い声だけがむなしく響く。

「学校に忘れてきた」――タブレットに残る文字が目に刺さった。

 口に出す嘘は発したそばから空気中に消えていくが、文字にした嘘は罪悪感を増幅させる。嘘をついたという確実な証が目にみえる形として残っているからだ。

 何か物を取られたのは今日が初めてではない。吉元たち三人にはこれまでにも何度も教科書だとかノートだとかを隠されている。

 いつからだろう。多分、吉元たちが酒を飲んでいるところに出くわして以来だ。

 昼食を食べようと屋上への階段にむかったところ、先客があった。吉元、浜尾、松田の三人だった。三人は、校内で昼休みだというのに大胆にも酒を飲んでいた。彼らにとってはジュース感覚なのだろう。アルミ缶のパッケージからしても酒には見えなかった。飲み物片手に友人たちと昼休みを過ごしている、そうとしか見えない三人の姿だった。罰が悪そうな顔をしてみせた浜尾と松田、先生には何も言うなと脅かしてきた吉元の態度から、よからぬことをしていたのかと初めて気づいたくらいだった。

 先生に言いつけるはずがない。口はきけないのだし、必要最低限の意思疎通でしか用いないスマホのアプリを使ってわざわざ吉元たちの悪行を知らせる気力もなければ、意味も見いだせない。

 酔って困るのは彼らだ。わかっていて酒を飲むなら勝手にしろと思うし、後先考えずに今楽しいことをしたいというのなら好きにしろと静佳は思っている。要するに三人に無関心だったのだが、三人の方が静佳を放っておいてくれなかった。

 嫌味を言ったり、嫌がらせをしても静佳は決して言い返さない。言い返せないとわかっているから三人の意地悪は増長していく。

 「やめろ」「やめてくれ」。言い返せるものなら静佳だって言い返したい。叫び声なら胸の内でいつでも上げている。一人きりの時、我慢できずに叫んでみて声は出るのだと知った。泣き声も夜、ベッドで布団をかぶって泣いて初めてあげられるのだとわかった。昼間、梓と話をしていて思わず笑ってしまって、笑い声も出せるのだと驚いた。声に出して笑ったのはやはり一年ぶりだ。

 叫べるのなら、泣き声をあげられるのなら ひょっとしてと歌を歌ってみた。鼻歌からはじめ、おそるおそるメロディラインに歌詞をのせてみた。歌詞も言葉だ。歌詞としてなら言葉を口にできた。歌なら歌える。

 だが、話すことは今もって出来ない。言葉は喉でつかえてしまう。言いたいことが多すぎて、あまりにも多くの言葉が一気に一斉にこみ上げてくるせいかもしれない。喉元で渋滞を起こしてしまっている。言葉を声にして出せない苛立ちは吐き気にすらなる。何も言えないのなら、何も言わない。最近ではそう諦めてしまっている。

 歌を歌ってみないかと藤野梓は誘ってくれた。藤野梓は軽音学部に入っていてバンドを組んでいる。ボーカルが早くも脱退してしまったので探しているのだと言っていた。部活動の規模とはいえ、人前で歌を歌うなど、考えただけで気おくれがする。声を失う前でも、友達とカラオケに行くのは億劫だった。だが、あの当時は歌うことはだだの娯楽だった。今は声を出す唯一の方法だ。自分の言葉ではなくても歌詞という他人の言葉を借りてならば母に言霊を届けることが出来るかもしれない。


 「風の街」を鼻歌で歌いながら父がキッチンで洗い物をしている間、静佳は父の鞄をさぐった。目当ての財布を探しだして取り出す。長い間使ってくたくたになってしまった長財布だ。財布には一万円札が何枚か入っていた。

 スマホは液晶画面が割れただけで機能はしている。修理をすればまた使えそうだ。問題はその修理代だ。口がきけない静佳にアルバイトはできない。父からの毎月の小遣いに頼るしかないが、小遣いでは足りない。かといって、金がいるのだと頼めばどうしてだと聞かれ、スマホが壊れた原因を探られてしまう。

 別の嘘をつくのはもう嫌だったし、本当のことを言って父を心配させるのも嫌だった。

 ごめんなさい。

 胸の内でそう言い、静佳は父の財布から一万円札を抜き取った。

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