1-9 静かな食卓

 父と囲む夕食の食卓は静かだ。食器を使う音が時折たつぐらいで、つけっぱなしのテレビだけが騒がしい。人の話し声や笑い声を聞いていたいのか、父が選ぶ番組はバラエティ番組ばかりだ。

 テレビを見ながら父は時々口元をゆるませる。しかし、笑い声は出さない。父の笑い声は一年前に途絶えた。話し声も最近はあまり聞いていない。そのうちに父の声を忘れてしまいそうだ。

 母が生きていた時、父は仕事が忙しすぎて家族そろっての食事は週に一、二度あるかないかだった。母が死んだ今、父とは毎日のように一緒に食卓につく。父が帰宅してからの食事の支度だから、夕食は遅い時間になってしまう。出す夕食も冷凍食品だったり、スーパーの惣菜だったりと、母のように新鮮な食材を用いた料理とはならない。

 最近では炒め物程度の簡単な食事なら用意できるようになった。今晩のおかずはレトルトパックの中華調味料を使い、肉と野菜を炒めただけの回鍋肉だ。父はまずいとは言わないが、おいしいともありがとうとも言わず、黙々と静佳の作った夕食に口をつける。

 母が死んで以来ずっと続いている食事の様子だ。

 一年前、母が死んだ。火事で家が全焼し、母は焼け死んだ。寝ている間に台所から火が出たらしい。静佳は夜中にこっそり家を抜け出し遊びに出かけていたため難を逃れた。後から近所の人に聞いた話によると、母も一度は避難したらしい。しかし、静佳の姿が見当たらなかったため、逃げ損ねたのだと思い込み、燃え盛る炎をかいくぐって家の中に戻り、帰らぬ人となった。父が出張中の出来事だった。


「ああ、この歌」

 しかめっ面で黙々と箸を口に運ぶだけだった父がふと顔をほころばせた。

 テレビ画面はコマーシャルに切り替わり、美少女アイドルが清涼飲料水をごくりと喉を鳴らして飲んでいる。映像の裏で流れている歌にあわせて父の唇が動いていた。小声で歌詞をきざんでいる。

「お母さんの好きだった歌だ……」

 母がこの世に存在していた証は火事と共に消えてしまった。母の服、アクセサリー、CD、本……母を思い起こさせるものはすべて焼きつくされてしまった。使っている食器も調理器具も母が使っていたものではない。

 新しく建てられた家に母の姿はない。形として母を思い起こさせる物はなく、思い出だけが父と静佳に残された。薄れ行く記憶の中でしか母とはつながっていられない。その事実が父を苦しめている。

 母が好きだったというその歌を聞いて、父に笑顔が戻った。

《誰の何ていう曲?》

 静佳はタブレット画面に文字を打ち込み、父に尋ねた。

「ああっと……何だったかな。父さんたちが若い頃に流行っていたから、だいぶ昔の歌だねえ」

 清涼飲料水の商品名と歌というキーワードで検索すると曲名が表示された。

 曲名は「風の街」、「フィールド・オブ・サウンド」という男性五人組のバンドの曲だ。髪型やファッションが時代を感じさせる。

 検索結果を見せると、父は「そんな名前だった」と頷いた。インターネットの検索結果が呼び水となって父の記憶が洪水のようにあふれ出した。

「父さんが静佳ぐらいの年齢の時に流行ったんだ。父さんはそうでもなかったけど、当時のお母さんは大ファンでライヴにも行っていたって言ってたっけか。デートでカラオケにいくと必ずこの曲を歌っていたな。父さんも付き合いで歌わされたし、母さんがよく聞いていたから歌詞を覚えてしまったよ。ものすごい人気のバンドだったけど、人気絶頂の時に突然解散したんじゃなかったかな? 解散のニュースを聞いた時はショックで眠れなかったんだって。解散ライヴにも行ったんじゃなかったか? 父さんたちの青春時代の歌だけど、古い歌だから今の人はピンとこないだろう。きっとこのコマーシャルを制作した人はきっと父さんたちと同世代なんだろうね」

 動画サイトにあがっていた「風の街」を歌う「フィールド・オブ・サウンド」のライヴ映像を見せると、父は口元に微笑みを浮かべながら聞き入っていた。

 古いというが、今聞いてもいい歌だ。軽快なリズム、爽快なメロディ、夏にむけた清涼飲料水の商品イメ―ジぴったりだ。母が好きだった歌と知ると、歌の輝きがさらに増した。

《お母さん、歌はうまかった?》

「どうだろう。人並みだったと覚えているけど。歌うことは好きだったね」

《僕が歌を歌ったら、お母さんは喜んでくれると思う?》

「お母さんは、静佳が毎日元気でさえいてくれたら喜ぶと思うよ」

 やや間をおいてから父はそう答えた。声を取り戻そうと無理をするなという父の隠されたメッセージがこめられている。

 父は、静佳が歌えることをまだ知らない。静佳も知らせてはいない。歌は歌えても話すことはいまだにできないため、父をぬか喜びさせたくなくて黙ったままでいる。

 一年前、母の死と同時に静佳は声を失った。前日まで普通に口がきけていたため、医者は母の死によるショックで話せなくなってしまったのだろうと告げた。声帯には何の異常が見られなくても、衝撃的な出来事により心に負荷がかかり、声が出なくなってしまう場合があるのだという。

 静佳の声を取り戻そうと父は様々な手段を講じた。治療は心理カウンセリングが主だった。父の思いにこたえようと静佳も積極的に治療に臨んだ。

 しかし、言葉は口をついて出てこなかった。話そうとする意志はあるのだが、いざ言葉を発しようとすると喉元が詰まってしまう。いつかは話せるようになるだろうと抱いていた父の淡い期待はやがて焦燥に変わり、落胆を経て今では諦めてしまっている。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る