1-8 「ありがとう」の歌

「あいつら、弱いものいじめして何が楽しいんだ」

 腹立ちまぎれに梓は地面を思い切り蹴り上げた。

「あいつらにスマホの修理代、弁償させよう!」

 静佳がだめだと言わんばかりに首を横に振った。

「なんでよ? だって、あいつらが壊したんだ。自分がしたことの責任は取ってもらおうよ」

 静佳が身振りで貸してくれというので、梓は自分のスマホを手渡した。

《あいつらが壊したってどうやって証明する? 壊したところを見たわけじゃないんだ》

「あいつらしかいないじゃんか! スマホを貴重品袋から抜き取れたのは体育委員の浜尾だけなんだし」

《僕が落として壊したのに、人のせいにしているって言われるのが落ちだよ》

 梓は返す言葉がなかった。教室での浜尾と静佳のやり取りから察するにいかにも浜尾が口にしそうなセリフだ。

「打つ手なしか。悔しいなあ」

《ほっとけばいいよ。スマホは修理すればいいし》

「ほっとけばっていうけど、何もしないでいると調子に乗るよ、ああいう連中は」

《先生に言いつけたって、先生たちだって何も出来ないし、どうにもならないよ》

「なんだか、いじめられ慣れているような言い方だなあ」

《実際、そうなんだ。僕はもう慣れているから平気》

「ほら、また嘘をつく。いじめられて平気なわけないし、慣れるわけなんか絶対ない」

《もう僕に関わらない方がいいよ。でないと次は藤野くんがいじめの標的になる》 

「そうなったら、僕は黙ってないよ」

 悲し気な微笑みを浮かべ、静佳がスマホを返してきた。

「ありがとう♪」

 声が静佳の口をついて出た。その声はメロディに乗っていた。話し声ではない。歌声だった。

 だが、歌声も声だ。静佳は口がきけない。声も出せないはずだ。

 どういうトリックだと梓は背後を振り返った。ひょっとしたら、背後に誰か別人がいて、その人物の歌声だったのかもしれない。

 校庭では大勢の生徒が昼休みを楽しんでいる。しかし、その誰もが二人からは遠く離れた場所にいた。仮に歌っていたとしても歌声が梓の耳に届くはずもない。

 つい一分ほど前の記憶を再生してみる。梓の目の前で静佳の唇が動いていた。歌声は確かに静佳の口から流れ出ていた。

「声、出せるんだ?!」

 静佳は頷いているものの、肯定の言葉は口から出てこない。

「どういうこと? 何が起きてるの?」

 混乱している梓にむかって、静佳がスマホを貸してくれと手を差し出した。その手にいそいそとスマホを握らせる。

 静佳の指がスマホのスクリーンの上を軽やかに舞う。

《声そのものは出るんだ》

「生まれつき声が出せないのかと思っていた。でも声が出せるなら、どうして話すことは出来ないのさ?」

《話そうとすると声が出なくなってしまうんだ》

「よくわかんないなあ」

《僕もどうしてだか、わからない》

「でも、さっき『ありがとう』って言っていたよね?」

《あれは、しゃべっていたんじゃなくて、歌っていたから》

「歌っていた?」

《話すことは出来ないけど、歌は歌えるんだ》

「ますますわかんなくなってきた」

 あははと静佳が声をたてて笑った。歌声とは違うトーンだが、爽やかで感じのいい声質だ。

「笑えるんだ」

《泣くこともできるよ》

「でも、しゃべることはできない」

《できないね》

「そうか、それでスマホのアプリを使うしかないのか」

《うん》

「しゃべれないのに、歌は歌えるっていうのは不思議だね」

《知っている歌なら歌えるよ。さっきのは『図書室』っていうバンドの『ありがとう』っていう曲のサビの部分なんだ》

「そっか、どうりで聞いたことあるなあと思ったんだ」

《一緒にスマホを探してくれたり、怒ってくれたり、悲しんでくれたりしてくれた。そのお礼がどうしても口に出して言いたくて。歌なら歌えるから、思い出して歌ってみたんだ》

「うん、お礼とか、そんなことはどうでもいいや。あのさ、もう一回『ありがとう』って歌ってみてくれる?」

 前のめり気味の梓に戸惑いながらも静佳が再び口を開いた。「ありがとう」と言葉が軽やかなメロディに乗って流れ出る。

「もう一回。今度はフルコーラスで。フルで歌えるよね?」

 うんと頷き、静佳が歌い始めた。

 「図書室」は中学時代の同級生で結成された二十代の男女三人によるバンドだ。ボーカルは女性が担当している。『ありがとう』という曲は四年前に流行り、柔らかなメロディラインと「ありがとう」という感謝の気持ちを歌った歌詞の内容も手伝って卒業式の定番曲になりつつある。梓も小学校、中学校の卒業式で歌った。歌詞もメロディも何度も聴いて歌ってきて頭にこびりついている。

 静佳の柔らかく高めの声は、女性ボーカルによるオリジナルと同じキーだった。ギターやドラムという余計な音――といったらバンドメンバーに怒られそうだが――がないだけに、声そのものが直に聞こえてくる。静佳の声は夏の海風のように爽やかでエネルギーに満ちていた。音程のずれもなく、素直な歌い方だ。いい具合に肩の力が抜けている。歌っているというより、歌に歌わされている、そういう表現がふさわしい歌い方だった。

 梓は目を輝かせながら静佳の歌声に聞き入った。この歌声を世界はまだ知らない。発見したのは自分だと思うと胸がワクワクした。きっと、未知の生き物だとか植物を発見した学者とか研究者とかと同じ気分だ。新種の生物には発見者の名前がつけられるという。静佳の歌声はしかし、静佳という名前がすでについている。だが、それでいい。静佳の、静佳にしか出せない歌声だ。

 梓は目を閉じた。目から入る情報を遮ってしまうと静佳の歌声がさらに深く体に沁みこんできた。何もない暗闇の世界で静佳の歌声だけが響き渡る。

 歌声を聞きながら、梓は最初に得た直観を核にし、その周りにある考えをまとわりつかせていった。静佳の歌声が釘となり、糊となり、梓の考えを形としてまとめていく。

 形として出来上がったものを抱え、女神に扮した静佳が泉の底から現れた。

「あなたが探していたものはこれですか?」

 そうです、まさにこれですと胸の内で答え、現実世界では何度も頷いていた。静佳にすればリズムをとっているようにみえたかもしれない。

 静佳が歌い終えると梓は意を決した。

「森川、僕らのバンドのボーカルにならない?」

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