1-7 奪われた声

パン売り場で梓は財布の中身とのにらみ合いを続けていた。まだ五月の初めだというのにすでに懐事情が厳しい。臨時収入となるはずだった樹の花屋でのバイトはすっぽかしてしまった。急にスタジオが使えるから練習しようとバンド仲間に誘われたからで、そのスタジオ代を払ってむしろ金が出ていってしまった。

 財布とのにらみ合いを続けている間にも目の前に並ぶパンは次から次へと他の生徒たちに奪われていく。金もないが、考えている時間もあまりない。意を決し、梓はアンパンの袋を二つ、つかんだ。


「こしあんとつぶあん、どっちがいい?」

 梓は、戦利品であるアンパンの袋を静佳の前に掲げた。

「好みがあるよね。僕、兄貴が二人いるんだけど、柊兄さんはこしあん派で、いっくん――あっと、樹兄さんはつぶあん派なんだ。いっくんは花屋をやっている。昨日、会ったよね?」

 遠慮しているのか、静佳はなかなかアンパンに手を出そうとはしない。 両手を前にしきりと振っているばかりだ。

「アンパン代が気になる? いいって、もう出してもらったようなものだから。いっくんのお店で花を買ってくれたよね? そのお金が僕のバイト代になって、そのお金で買ったわけだから。もとをただせば君のお金になるんだ。金は天下のまわりものっていうけど、本当にまわっているんだね」

 そういうことならと静佳はようやくおごられる気になったらしく、顔を輝かせ、つぶあんの袋を指さした。

「そういえばさ、お母さんとは仲直り出来た?」

 こしあんのアンパンをかじりながら、梓は尋ねた。落ちたパンくずを払うと、すかさずスズメが足元に寄ってきた。

 梓と静佳は、校庭で遅い昼食を取っていた。サッカーゴール付近に植えられた桜の木々は今は青々とした葉を茂らせて心地よい日陰をつくりだしている。

 静佳はもぐもぐと口を動かしているものの、言葉はない。暗い表情は木陰にいるせいだけではない。梓は察した。

「そっか、まだ仲直りできてないのかー。お母さん、怖い人?」

 静佳が激しく首を横に振った。

「そのうち仲直りできるといいね」

 静佳は口を動かしながら、手はあたりをさぐった。適当な長さの木の枝を探し出すと、静佳は校庭に文字を書きつけた。

《僕がお母さんなら、僕を絶対に許さない》

「何したのさ?」

 梓は恐る恐る尋ねた。文字面だけでもただ事ではないとわかる。

《謝って済むことではないこと、とりかえしのつかないこと》

 そう書きつけるなり、静佳はつま先ですばやくかき消してしまった。

 ザザザッという静佳が校庭を削る音に紛れて人の声が聞こえてきた。声のする方を振り返ったが、人の姿は見えない。声はツツジの茂みの向こうから聞こえてきた。誰かが茂みに隠れている。声は複数聞こえてきていた。

「笑いをこらえるの、大変だったスよ。あいつの手の振りがさあ、なんつーか、まぬけなオタ芸のダンスみてるみたいでさぁ」

 笑っているのは浜尾だ。浜尾に続いて、松田、吉元の笑い声があがった。

「あいつのスマホは?」

「はい、こいつッす」

 地面を掘る音がした。浅い穴のようで土を掘る音はすぐに止んだ。土を戻す音に続いてペタペタと地面を叩いているような音が聞こえてきた。

「え? それ、胡蝶蘭っすよね?」

 松田が驚いていた。吉元とは同じ年なのに、松田も浜尾も敬う、というよりはへつらうような言葉遣いを用いる。

「よく知ってんじゃんか」

「高い花っすよね? わざわざ買ったんすか?」

「買うわけねえだろ、バーカ。花屋に行ったら買わされそうにはなったけどな。ったく、がめつい花屋だったぜ。金ならあるから買えないこともねえけど、捨てる花に金使う必要ねえだろ。これさ、うちのゴミ箱に捨ててあったのを拾ってきたんだ」

「まだ枯れてませんねぇ。それでもゴミ箱に?」

「たくさんあるんで枯れないうちから捨ててるぜ、あの女。道端の雑草でいっかと思ったけど、花ならうちにあるなって思ってさ。リサイクルってやつ」

 三人はケタケタと笑いながら、遠ざかって行った。梓と静佳には気付いていないようだった。悪事を働こうと身を隠していたせいで、逆に周囲の目や耳には気付かなかったとみえる。

 話し声だけで三人が何をしていたのかはわかってしまった。静佳の顔色は血の気を失って真っ青だった。梓も気分が悪く、食べたばかりのアンパンを今にも吐き出しそうだった。

 アンパンを食べる気にはならなかった。スズメにくれてやるつもりで地面に置き、梓は声のした茂みへと向かった。

 ピンク色の鮮やかなツツジの花を分け入ると、地面に置かれた白い花が目に入った。胡蝶蘭の花の置かれたその場所は土がこんもりと盛り上がっている。まるで何かを葬った墓のようだ。

 嫌な予感がする。震える指で梓は教えてもらったばかりの静佳の番号を鳴らした。数秒の後、微かな振動音が聞こえてきた。

 足元に見下ろす盛り土の山の表面から土がさらさらとこぼれ落ちた。盛り土の下に埋められている物が何か察したようで、静佳は地面に跪き、盛り土を勢いよくかき分け始めた。

 土の中から、むき出しのスマホが出てきた。助けを求めるかのように悲痛な呼び出し音が鳴っている。着信を受けて震えている様はまるで恐怖におびえているかのようだ。梓が電話を切ると、スマホは息絶えた。なくなったはずの梓のスマホだった。

 静佳はスマホを手にとり、こびりついた土を丁寧にはらった。液晶画面は無残にも叩き割られていた。梓の電話を受けたということはまだ使えるようだが、蜘蛛の巣のようになってしまったスクリーンでは静佳が「言葉」を打ち込んだとしても相手には伝わらない。

 壊されたのはスマホではない。静佳の声だ。いや、壊されたなどと生易しいものではない。殺されたも同然だ。浜尾たちに。静佳の声を「殺した」という自覚があるこそ、連中は墓を作って埋め、わざわざ花まで供えたのだ。

 樹がこの場にいたら激怒しただろう。愛してやまない花が人を傷つけるために用いられたのだ。心癒すはずの花が鋭い凶器となって胸をえぐる。

「浜尾たちだな」

 静佳は無反応だったが、もはや嘘をついてまで浜尾をかばおうとはしなかった。

 スマホを盗ったのは浜尾で間違いない。はじめから判っていた。物理的に静佳のスマホを手にできた人物は浜尾しかいないのだ。自分で静佳のスマホを盗っておきながら、盗みの疑いをかけたといって静佳を責め、謝らせた。茶番だ。台本を書いた吉元たちはこの茶番劇の一部始終を見ていて笑ったのだ。教室の外の廊下であがった笑い声を思い出し、梓は胸糞悪い気分になった。

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