第4話 再度

 久方ぶりの実家への帰還だったが、家族との感動の再会が行われるというわけでもない。 私は事前に連絡したとおり業者を連れていたし、荷物を回収するだけの一時帰還というだけだった。 それでも実家の自室から荷物が取り払われて運ばれていく様は、他人事のようでいて何故か物悲しさがあった。


 私が死んでいたら、この部屋はこのままだったんだろうか。 私はそんなどうでも良い思考を巡らせつつ、実家から自身の痕跡を拭い去った。 これで私の中には後ろ髪を引かれるような要素は無くなるだろう。


 荷物を一人暮らしの自室に運び込むと、質素だった室内がまともさを取り戻すとともに、一気に作業部屋としての様相が強くなった。 これまでは床にタオルケットを敷いて寝るだけの、到底まともな成人女性の生活ではなかった。 しかし今回ベッドやソファ、本棚、机、作業台、脚立、その他画材などが入り込むことで、そこはようやく人間の生活スペースに早変わりした。


 私は自分の中に自分ではない何かを感じている。 これは恐らく以前の人格に伴ったものなのだろうが、時折現れては私の行動を阻害する思考となり得る。 実家への帰還もそれによるものであり、私としてもそれを無視して生活するのは気持ちが悪いのでこうやって行動するに至ったわけだ。 そしてもう一つ、荷物を回収した理由がある。


「さて、取り掛かるか」


 私はあちらの世界の光景を忘れないうちに、それらを現実世界に残すことに決めた。具体的には、その世界を絵画や作品として形あるものに仕上げるつもりだ。


 以前の私は美大生だったらしい。 それなら──と思って手を動かしてみると、やはりこの身体は芸術方面に向いているということが分かる。


 まず私の見た景色をスケッチブックに起こしてみたところ、どう考えても素人では書き上がらない繊細な描写と構図による景色が浮かび上がった。 私としては自分のあずかり知らない能力がそうさせているようで気味が悪く、やはりこの身体が自分のものではないという感覚が生じてしまう。 そんな思いをなんとか振り切って、私は時間も忘れて作業に没頭した。


 気づけば陽が落ちていた。 もともと作業を開始したのが昼過ぎだったので、約八時間ほどはそうしていただろう。 私にはこんなにも集中力があったのかと気付かされるのと同時に、やはり私は自分のことを全然理解していないことも思い知らされてしまう。


 あちらの景色の再現など、どう考えても意味のある行為だとは思えないのだが、どうしてか──いや、本能的に私はこれを続けた。 私はこれを自分の至上命題だと信じて疑わず、なおかつ自分を知るきっかけになると信じて黙々と行っていったのだ。


 もちろん生きるために必要な作業──バイトだったり身の回りのことは忘れない。 やりたいことに没頭して正道を外れてしまうのは愚者のすることだ。 賢者は自分のペースを崩さず、それでいて新しいことも取り込んでいくものだ。


 何を言っているのか、だって? だから自分でも分からないと言っているだろう。


 趣味というか目的を得たことで、私の生活にメリハリが生まれた。生きること以外にやるべきことが生じたからだ。 だからなのだろうか、社会性を重んじて行動できるようにもなった。


「来未ちゃん、今日も真っ直ぐ帰宅かい?」

「あ、はい。 また美術の勉強をしようと思って」

「頑張ってね」

「ありがとうございます。 ではお先に失礼しますねー」


 バイト先の人間ともきちんと交流できるように──するようになった。 こんな風に、普通の人間を偽ることさえ可能だ。 そう言っている時点で社会性を習得したわけではなく使用しているだけなのだが、他人から好印象を持たれるだけでこうも生きやすいとは私は思ってもみなかった。 だから私は必死で人間になろうと心掛けた。


 やはり私は人間ではない何者かなのかもしれないが、堅洲来未という人間のガワを着ている限りは人間だ。 そう信じたい。


『先日から巷を騒がせている猟奇殺人鬼ですが──』


 会話の話題作りのために買った小型テレビが、今日も不穏なニュースを吐き出している。 話題は近頃都内で発生している惨殺事件に関するものであり、犯人は無惨な死体以外の痕跡を一切残さず犯行をやってのけるということらしい。


 ただ、私はそれを聞いても特段感情が揺さぶられることはなかった。 死は私にとってあまり恐ろしいものではないからだ。 もし私の見た景色──私が天国か何かの類だと思っているあの場所──が死の末路というのであれば、怖さよりもむしろ凄さが勝ってしまう。 天国とは斯くも美しいものだと、来世を信じる人間たちに喧伝してみせてみたいくらいだ。 とはいえ、あれが天国なのであれば、地獄があってもおかしくはない。


「殺人を運命づけられた人間か、可哀想に。 もしそれが強制されたものだと知ったら、どんな気分になるのだろうか。 とにかく、最終的に彼は地獄に落ちるだろう。 あの大樹が閻魔様的な存在……これは無いな」


 粘土を捏ねつつ、私は呟く。


 勝手に殺人鬼を彼と表現したが、ここまで大々的に事件を起こせる気概と体力を持ちわせられるのは大方男性だろうという予想のもとの発言だ。


 この殺人鬼に関する報道が始まったのは、私が目覚めたあたりからだ。 殺人鬼が蔓延るこの世界こそが、もしかしたら地獄なのかもしれない。


「まぁ、どうでもいいか」


 最近、私は独り言が増えている。 それは私が全ての行動を記録として残すにあたり生じた弊害で、実社会でさえ独り言が漏れてしまうから困ったものだ。 そういう部分でも私は肉体と精神の乖離を感じてしまう。


 現在私が行っているのは、室内の壁面に造形する予定の大樹の骨組み──針金を成形して作り上げたもの──に粘土を貼り付ける作業だ。 私は今まさに、自室内にあの世界を忠実に再現しようとしている。 範囲が限られるため縮尺などはある程度変更してあるが、大樹とそれがあった孤島、周囲の湖などを直接室内に具現化させようとしている。 その前段階として造形物の骨組みを作ったり、地面を敷いたりしているわけだ。 もちろんそこには日常生活を支える家具の類があるわけだが、私はそれらを無視して作業を始めてしまった。


 恐らくあの世界──作品の完成を待って私の部屋は混沌とした空間に様変わりするだろう。 しかしそんなことは今の私にとっては関係ない。 そしてこの部屋が賃貸だということも……関係ない。 やりたいと思うことをやるのが人間だろうから、私が人間だということを証明する意味でもこれは完遂しなければならない課題なのだ。


 数ヶ月後──。


「これこそ私が見た光景だな」


 私は自分で自分の偉業を眺めながらうっとりしていた。


「しかしこれは……やりすぎたな」


 室内を埋める巨大な樹木の存在感が凄まじく、それだけで逆に私が樹木のテリトリーを間借りしているように感じてしまう。 また遠方の表現方法として壁紙はもれなくペイントしており、もはや元々の質素な部屋の名残は無いと言って良いだろう。 どうしてここまで凝ってしまったのかと言えば執念としか説明しようがないが、私の中で初めて生まれたまともな欲求がそれなのだから仕方がない。


 ピシャリ……、と水音が鳴った。


 私が動くことによって水が跳ね、そして水面に波紋が伝播し広がっていく。


 そう。 そうなのだ。 私はあの世界の湖を表現する方法として、部屋中に水を満たした。 水深としては足首ほどだが、5メートルかける10メートル四方の部屋を満たすためだけに、私はわざわざ長い長いホースを購入した。 そして扉を開けて水が漏れることがないように、扉の上の方にホースを通すためだけの穴を穿って……一体何をしているのだという話だ。 おかげで室内の様々な部分にあり得ないダメージを与えているし、片付けのことも考えると辟易とする。


 ひゅう、と風が舞い込んだ。


 そう言えば、小窓を開けっぱなしだった。


 隣の部屋の換気扇と扉の穴、そして小窓が一本の道として機能してしまっているため、こうして室内に風が舞い込むのだ。


「まったく、私の作品に水を……いや、風を差さないで欲しいね」


 私はジャバジャバと両足で水を掻きながら小窓のあたりまで行くと、そのまま何の気無しにそれを閉じた。


 リィ──ン……。


「な、何……?」


 時が止まったような気がした。


 窓が閉じられて擬似的な閉鎖空間が成立──私の作り上げた作品が密室に完成した時、私の意識は刹那の時間だけあちらの世界に飛ばされたような感覚を覚えたのだ。


 あれもこれも気のせいのような感覚だが、一瞬でも本物を感じられたのは私にとって非常に意味のあるものだった。 なにせ、私の中に新たな欲求というか、するべきことが流れ込んできたからだ。


「……私に何をさせる気だ?」


 先程の体験を簡潔に言うと、あちらの映像を見せられただけなので何をさせるだとかいうことはない。 そのはずなのに、私はハッキリと何かをすべきなのだと言われたように感じてしまっていた。


「少しくらい私に休みというものをくれないものかね、あの大樹の野郎は」


 私は今抱えているこの感覚が大樹の意思によるものだと決めつけた。 だってあの世界には奴──大樹しか明確な存在はいなかったわけだし、もしあの世界そのものが私に語りかけてきているとしてもそれは奴に関わることに違いはない。 だから私は大樹を奴と呼称し、気に食わない存在として想像する。


「まぁいいさ、ちょうど私には特別な目的などなかったしな。 奴の求めるそれに明確な指針など無いから、私がやるべきだと思うことをやれと言っているのだと理解しよう」


 私は自分の欲求に従ったからこそ室内にあの世界を具現化させることができ、それによって一瞬でもそこに触れることができたのだ。 恐らく運命的な何かが私の中にも宿っていて、私もそれに従って行動しているのだろう。 ……まぁそれにしても、私のように自分でも理解できないものを目指して生きている人間などいるのだろうか。 本能に従うという点では私の行動は動物に近しいものがあるし、かといって人間らしくこの思考に逆らおうとはどうしても思えない。 だとすれば、やはり本能に従って動くしかないということになる。 もしかして、私は人間ですら無いのだろうか。


「まったく、私の人生はどうなっているんだか」


 とにかく私は行動の末に結果を得た。 それが私の望んだものだったかどうかは別にして、行動には相応の結果が伴ってくれるらしい。 ということは、これからの行動によっても奴は私に何かを見せてくれるのかもしれない。


 すでに私は現実から大きく外れた道を歩みはじめている。 私の見たあの世界も、先程触れた感覚も、本当はこの世には存在しないもので、私は精神に不調を来した異常者なのかもしれない。 その点で私は夢遊病者のようなものかもしれないが、他人の死が見えるという能力の存在がその考えを否定する。


「事実は小説よりも奇なりとは言うが、まさか私がこのようなファンタジーな境遇に陥るとはな。 もしかしたら、ここが最近流行りの異世界というものなのかもしれないな」


 そんなことを溢しつつ本能に従おうとすると、足元に掛かる重い水の存在が私の思考を現実世界に引き戻した。


「ああ、流石にこれは放置できないか」


 私は水を貯めた時間と労力に倍するコストを支払いながら、窓を開けてベランダから水を放出した。 そして必死になって部屋の水を取り除くと、今度は湖に相当する部分に絵の具で着色を施した。 なぜなら、そのままにするのも何やら気持ちが悪く、また水を捨ててしまったことで未完成に戻った作品を放置しておくのも忍びなかったからだ。


「最初からこうすれば良かったのに、どうして私は水を貯めるなんて思い付いたんだろうな」


 私は自分の愚行を反省し、次なる行動へ移るのだった。

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