第3話 具現

 協定が結ばれた。


 二国双方から提出された設計図に基づいて、宇宙船が作られた。


 羊の海での航海は約280日続いた。


 辿り着いた先では、深淵が大口を開けている。


 ここにきて疑問が生まれる。 自らが望まれた存在なのか否か、という疑問だ。 しかしそれは下船してからのお楽しみらしい。


 先へ向かわないという選択肢はない。 律動的な収縮が大海のうねりを生み、有無を言わさず流れに乗せられるからだ。


 勇気を持ってそこへ飛び込んだ。


 全身を圧迫され、壊れるのではないかという苦しみは十数時間続いた。


 長きトンネルを抜ければ、そこは刺激に溢れた宇宙。


 未知の刺激に曝され、宇宙に順応するために全身の感覚器官が産声を上げる。


 酸素を欲し、匂いを頼りに栄養を求めて声帯が揺れる。


 自分は果たして望まれたのか。 それだけで、これからの人生に大きく関わる。


 とはいえ、大人の事情によって概ね12週という期間の航海を終える前に命を刈り取られる連中に比べれば、宇宙に──地球に生まれ出でたことは奇跡というほかない。 たとえそこからが不幸の連続であっても、ここまでの奇跡を全て返せるだけの不幸などあるはずもない。


 人生は多種多様。 自我が芽生える前に苦しみから解き放たれるならまだ良いが、生まれながらにハンデを負って生き地獄を味わう者もいる。 また、そこが大丈夫にも関わらず途中から人生が狂い始める者さえいるのだ。 だからこそ、生まれた奇跡を差し引けば、人生とはそう良いものではないのかもしれない。


 特異な疾患によって1歳まで生きられない者がいた。


 乳児突然死症候群なる未解明の事態によって気づけば亡くなっている者がいた。


 虐待によって命を落とす者がいた。


 事故に巻き込まれる者、自ら命を絶つ者、行き過ぎた愛によって殺害される者──その全てが等しい死だ。


 私が目にしている水晶の中には、そんなあらゆる人間の一生──受精してから死ぬまでの記録が封じ込められている。


 もちろん、幸せに天寿を全うした者も少なくはない。 しかし、水面から這い出してくる水晶のほとんどは、一般的に不幸と呼ばれる類の人生を歩んだ者たちの記録だ。 その数の多さに、あの大樹はそんな不幸をこそ喜んで回収しているようにも思えてならない。


 湖は溶存した気体が漏れ出す液体で、次々に湧き上がっては回収されていく気体はパッケージされた人生。 私はそれらを眺めながら、この世界が成立した経緯を想像する。


「あの大樹は人生を回収している……?」


 なぜ、回収している水晶の中に人間の人生を記録しているのか。 そこに映像として残されているのであれば、これは何か意味があるはず。


「いや、ただの生命の循環かもしれない……循環?」


 生命の循環という言葉が出たが、特に意識して発言したものではない。 そんなもの、ただの空想でしかなく──生命は無から生まれて無に帰るだけなのだから。 しかしこれを肯定する根拠も否定する根拠も無い。


 死の向こう側を見たものがもし居れば何かしらの発見があるだろう。 生と死が断続的なものなのか、連続性を保ったものなのか、というような。 しかし三途の川などを見たという証言はあっても、そこがあの世だという確証がない。 人間の記憶は酷く曖昧で、見方によっては夢は現に、現は夢に、如何様にでも変化しうるものなのだから。


 生命は巡り、死した魂は回収されて新たな生命に再構築される──そんなものは人間の空想の産物だったはず。 それなのに、私の目の前には生と死を象徴するような大樹が徐に佇んでいる。


「水晶に詰められたのが人間の人生である以上、この湖は人生の残骸置き場……違うな」


 いや、と否定句を挟んで私は続ける。


「この世界に残骸なんて言葉は似合わない。 だとすれば、この湖が地球というか生命を預かる海なのか」


 形状からここが湖だという定義からは外れないが、少なくとも生命の湖とは言わないだろう。 表現するとすれば、海が一番正しいと思う。


 私はどうしてもこの世界の成り立ちが気になった。 この気持ちが私という個から生まれるものなのか、自然と環境がそうさせるのかは分からないが、根源的に惹きつけられる魅力がここにはある。


「大樹に触れれば繋がるだろう。 だけどその場合……あれらと一緒に飲み込まれる可能性が高いな」


 正直、絶対的強者たる大樹に触れる気はしない。 私なぞ、一瞬で取り込まれて終わるだろう。 そんな気がする。 だから私は、湖の方を先に片付けることにした。 ちょうど付近までやってきているし、泳げば水晶にも触れられるかもしれない。 そんな単純な発想で私は一歩二歩と斜面を下った。


 しかし──。


 私が水面に足先が触れた瞬間、


「まず──」


 視界がブラックアウトした。 そのまま深淵まで飲み込まれる過程で私は心底後悔した。


 なぜ泳げるなどと思ってしまったのだろうか。


 なぜ触れて大丈夫などと思ってしまったのだろうか。


 大樹しかり、湖だって超常の存在だったはずだ。 それなのに、そこから発せられる母のような安心感が私を誘い、そして引きずり込んだ。


「……」


 私は宇宙、いや地球……いや、日本という現実に舞い戻っていた。


「うへぇ……」


 先程までの景色が嘘のように、地球は目に見えるあらゆるものが汚い。 そんな不快感から声が漏れたが、それ以上に動かしづらい肉体という制約がのしかかかったことに私は辟易としていた。


 すると、ちょうど目の前には両目を限界まで広げた看護師らしき女性がいる。


「お、お目覚めですね……?」

「ぉ……あ……」


 私も何か返事をしようとしたが、思うように口が動かずモゴモゴと意味のない動きを繰り返すだけになってしまった。


 看護師はハッと何かを思い出したような仕草を取ると、私にここで待てということを言い残して小走りに掛けていった。 私は彼女の感情の動きに自然な人間味を感じ、それと同時に現実感が襲ってきた。


 やれやれ、どうやら私は現実にいるらしい。


 先程まで見ていた景色は夢だったのか、現実だったのか。 夢か現実かで言えば当然夢なのだが、それにしては記憶が鮮明で、私に降りかかる光や水のエネルギーは自然そのものだった。 つまりあれは別の現実──現代社会で言うならば仮想現実のようなものなのだろう。


 ところで、私がどうしてこんなにも平然と思考を続けられているのか気になる者もいるのではないだろうか。


 正直に言えば、どうしてかは分からない。 分からない……が、今の私にはあらゆることの現実味が薄い。 何と言えばいいだろうか、自分の姿を少し後上方から見下ろしているような、第三者目線のようなそんなイメージだ。


 まず、私自身が何者かが分からない。 記憶喪失といえばそうなのだが、この世界に対する既視感が拭えないのに、それでいて自分が自分自身だという確証が持てないのだ。


 この肉体も私のものなのだろう。 それは理解できるが、誰かの肉体を間借りしている感じが常に残る。 それは私があの世界で最初に目覚め、その上ではっきりと自分を認識してしまったからだろう。 あの世界で朧げな肉体を得て、それからこちらの現実で女性の肉体を得たために、そういった齟齬が私の感覚を狂わせているのだろうと思う。 とはいえ、やはりこの肉体は私のものだという感覚さえある。 結局どっちなんだという話だが、要は私が分からない、そういうことだ。


 程なくして、医者が私の元を訪れてこれまでのあらましを語ってくれた。 その内容は到底信じられないものだったが、現にこうして鼓動を刻む私の体が事実を事実として吸収する。


 通り一般の知識はあるし、医者だとか看護師だとか、そういったものの認識は問題ない。 しかし私自身の話になると、途端に靄掛かったように記憶が行き場を失い、それ以上の検索に対して足を止めてしまう。 加えて家族のことも理解できなかった。 つまるところ、私自身と私に類するものの記憶がすっかりと抜け落ちてしまっているということ。 だからといって、私はこの肉体──堅洲来未本人とは厳密的には異なるので、ショックを受けることはなかった。


 客観的視点を維持したままの家族との邂逅は、本当にただのドラマの一場面を見ているようで、全てが他人という認識。 だから家族を名乗る連中の薄っぺらい言葉も取り繕いも、私には第三者目線で全てお見通しだったというわけだ。


 最終的に、何も持たない私という個人が現世にポツリと取り残されたわけだが、かといって何の気概も感情もないわけではない。 この地球に降り立った以上、私とて一人の人間。 実社会に飲み込まれれば否応なく感情が刺激されるし、それに対する反応も正常のものだ。 周囲と少し違うのは、それが薄いというか、表出という面で遅延が生じるという点くらいなもの。 それ以外はごく普通の26歳の女性だ。 自分で自分を女性を表現するのは少し奇妙な感じだが。


「さて、いつまで私の自分語りが続くのだろうか、いつまで過去の話に注力するのだろうかといった疑問も湧いてきた。 自分で喋っていてもそろそろ疲れてきたので、次は未来の話をしようか」


 私には、とある強い願望が存在している。 それは帰巣本能とも言うべき感情で、それはつまり、再びあの世界に足を踏み入れたいということ。


 私の感覚では、私はあの世界に生まれた。 以前の記憶があったのならそうは思わなかっただろうが、私にはあの世界以前の記憶は皆無だ。 だから私を知る手がかりとしてあの場に舞い戻りたいと思うし、単純な興味としてあの世界をもう一度堪能したい。


 私は浅はかな判断──泳げるのではないかという短慮で、あの湖に触れてしまった。 そうでなければもっとあの世界に滞在できたはずだが、その一方であれ以上居たら現実世界のこの肉体が先に処分されていたかもしれない。 どちらにせよあの場での私の判断は未来に繋がる愚かさであり、その愚を取り消すためにも私はあの地に足を踏み入れたい。


 今でもあの世界のことはハッキリと思い浮かべられる。 しかしこの肉体は人間の域を出ず、脳機能も同様だ。


 記憶は曖昧なものだと私自身が先に述べたように、いつこの記憶が失われるか分からない。 だから私は、あの世界をこちらに具現することを決めた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る