4-9.ふたり雨の下で

 タワーマンションから見下ろす東京の景色は雨一色だ。

 屋上で雨晒しのふたり。嵐は街へ打ち付ける。

 風が鳴く。雷鳴が轟き、落ちる。


「ユカさん」


 ヨルは再び名前を呼ぶも、豪雨の中でそれがユカに聞こえたのかどうかはわからない。


「じゃあね」


 ユカは柵から身を離した。

 あと一歩でも踏み出せば地上へと真っ逆さまに落ちてしまう。

 そんな状態で静かにヨルに背を向け、立っている。


 何を考えているのかはヨルにはわからない。

 ずっとそうだった。ユカは時々お茶目にからかってくるくせに、大事な話になるとすぐ曖昧な笑顔だけ残して話を有耶無耶にしてしまう。

 でも、ユカの本心は今の行動とは違う気がした。


「本当はユカさん。死ぬのが怖いんじゃないですか? 忘れられるのが嫌なんじゃないですか?」

「なにを、言っているの……?」

 ユカはヨルに問い返した。

「だって、体を支えている足が……震えているじゃないですか」


 ユカははっと気付き隠したが、到底隠し切れるものではなかった。

 風がごうと吹き荒れる。ユカの体が傾き、屋上の淵から外れる。ユカはとっさに柵を掴み、手繰り寄せていた。

 その行動は、今から死ぬ人がやるものではない。


「ほら」

 ヨルは優しく笑いかける。

「私だって……」

 小さな声でも、ユカにはユカの言いたいことが伝わってきた。


 ──私だって、幸せになりたかったよ。


 綺麗な本心。黒く淀んだ空とも、鬱蒼としたビルの森の東京の街とも違う。澄んだ意思だ。


「自分のことくらいわかってる。分別ついた大人なんだから、辛いことだって時間が解決するって知ってる。未来には幸せがあるかもしれないと思ってる。けど、もうだめなの。息ができないほど苦しいの。こんな醜い空っぽな自分が」

 小さな震えた声で、ユカは言葉を吐いた。

「でも。でもね、なんでかなあ? 死ぬのはね……。こわいの」

 ユカは震えた体で、鉄柱1本で体を支えた状態で、恐怖を認めた。

 同時に、何をしているのか、何がしたかったのか、わからなくなってしまった。


「もう、わからないよ。生きるのは苦しいのに、死ぬのは怖いんだよ……? おかしいよ……」

 幼な子のような口調で、ユカ本音を吐露する。

「過去は消せないけど、時間は積み重ねることができる。俺が一緒に悩む、一緒に立ち向かうユカさんの空っぽを一杯に埋めてみせる」

「……そんなこと、できないよ」

「できる」

「どうしてそう言い切れるの」

「別にふつうに幸せになろうなんて言わない。所詮ふつうなんて、他人が勝手に決めた価値観だ。関係ない」

 だから、とヨルは強く言った。


「ふたりで、ほんとうの幸せを目指そう」

「……ほんとうの幸せ?」

「ああ。ふつうの幸せなんて苦しいだけだからいらない。ユカさんがいない幸せなんて意味がない。だから俺はふつうの幸せなんかいらない。ユカさんと一緒に過ごすほんとうの幸せが欲しい」

「なによ、それ……」

 ユカはそう言いながら密かに笑っていた。


「自分らしく幸せであればそれでいいと俺は思った。それこそがほんとうの幸せだと思った。いつ死んだっていいと思う。自殺だって、助長するわけじゃないですけど、それがほんとうの幸せだと思うのならいいと思います」

「……」

 ヨルはユカの腕を掴み、真っ直ぐに目を見つめる。


「ユカさん。俺は全てを捨ててでも、あなたと一緒にいたい」

 ヨルは伝える。

「俺があなたの生きる意味になるから」

 心の底からの本心を。

「一緒に生きよう」

 ユカは何も答えなかった。

 長い沈黙の後、ユカは言った。


「……ヨルくんはまだ引き返せるよ。私と違ってみんなから記憶されるじゃない。覚えてもらえるじゃない」

「あははははっ……!」

 ヨルはそれを聞いて大笑いしてしまった。

「……え?」

「もう引き返すことはできないんです」

 気持ちのいいくらい清々しい顔で、ヨルは言う。

「だって、俺。ユカさん以外のみんなから忘れられるよう『忘却のおまじない』をやって来ましたから。ユカさんだけみんなから覚えてもらえないなんてフェアじゃないですよね?」

「……」

 ユカは絶句したあと思わず笑ってしまった。

 柵越しでふたりは子供のように笑い合う。


「あはは。ヨルくんはほんとうにばかだねえ。大馬鹿者さん」

 ひとしきり笑って、ふう、とひとつ息を吐いた。

「子供みたいだね。きみ」

 そして出会った頃と同じセリフを言った。そこにはもう悲壮感も死への未練もない。

「子供でもいいですよ」

「ほんと、もう……馬鹿なんだから」

 涙を流して笑った。明るい笑顔だった。そこには自分の死への諦めがあった。


「……わたし、わがままだよ?」

「きっとそうだろうなって思ってました」

「傲慢で、強欲で、嫉妬深くて、狡い女だよ?」

「それでもいいです」

「それに、嘘つきなんだよ?」

「例えば?」

「私が世界中の人から忘れられてることとか」

「それは俺がもう思い出しました」

「雨を降らせるおまじないも知ってたこととか」

「気づいたときはやっぱりなあって思った。ほんとうに、大嘘つきだなあ」

 ヨルは腹を抱えて笑っている。

「そんなに笑うこと?」

 ユカもつられて笑ってしまう。


「私は誰からも覚えてもらえない」

「大丈夫です。俺がずっと覚えてる」

「縁が結ばれないから子供もできない」

「ユカさんと一緒にいられるならそれでいい。ふたりだけで仲良く歳を取って、たまには喧嘩して、穏やかに過ごして、一緒に死を迎えよう」

「もう」と照れた頬でユカは今度こそ心から笑い、取り繕って隠すこともしなかった。

「ヨルくんは強情。それにすごく我が強い」

「そうみたいだ」

 ふたりはひとしきり笑って顔を見合わせ、もう一度笑った。

「誰が何と言おうと、俺はユカさんのことが好きだ」

 ヨルは再びユカの名前を呼んだ。


「ユカさん。大切にするよ」

「ずっと?」

「ああ、ずっと大切にする。ずっと幸せにする」

 ユカの言葉はなかった。泣きながらひとつ頷いた。

「あはは。安心したら腰が抜けちゃったみたい」

 ユカは柵に捕まり、なんとか足を支えている状態だ。

「手」

「?」

「手、引っ張って」


 ユカは甘えた声で手を伸ばしてくる。

 ヨルは言われるがまま手を引っ張る。

 勢いのままユカは引っ張りあげられ、ヨルはユカを抱き止めたまま、濡れた屋上に倒れ込んだ。ばしゃりと水飛沫が飛び散った。


 ユカは空を見上げ唱える。

「私は幸せになれる」

 決めていた言霊を発すると、雨は弱まっていった。


「雨、だね……」

 ヨルの腕のなかで、ユカは呟いた。

「雨ですね」

 ふたり雨の下で、打ちつける雨なんて関係ないと、幸せな表情をしている。


「雨が全部つらいこと洗い流してくれたらいいのにね」

「俺がユカさんにとっての雨になりますよ」

「くさいよそれ」

「え、俺そんな臭いますか?」

「そうじゃなくて。セリフ」

「いいじゃないですか。それとも、こんな俺は嫌いですか?」

「ううん。好き」

 ユカは自分の心を確かめるよう「大好き」と小さく呟いた。

「俺も、ユカさんのこと大好きです。これ以上ないほど大切な人です」

「うん。私も」


 ふたりを祝福するように雨が止み、雲間から月明かりが二人を照らしていた。

 ふたりは向き合った。

 同じことを思った。最愛の人へと向ける五音だけの言葉。


 そして、ふたりは愛の言葉を囁き、静かにひとつ口づけをした。

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