4-8.嵐の中

 ユカは雨のなか、ひとり屋上に立って空を見ていた。

 すでに柵を乗り越えた向こう側にいる。

 一歩でも踏み出せば、地面まで真っ逆さまだ。


「あはは。よく気づいたねえ」


 ユカは振り返り、ヨルを見て不器用な愛想笑いをした。

 白いパンプスにグレーのスラックス、黒いジャケットを羽織っている。それらは全てずぶ濡れだ。

 ヨルは雨などお構いなしにユカの元へ行き、対峙する。


「忘却のおまじないの効果は絶対だ。一日離れなければ記憶されるだけで、それ以上離れれば忘れ去られ、思い出すことも記憶することもできなくなる。それが忘却のおまじないの本当のルールだ」

「……」

 ユカは何も答えない。

「ユカさんはそれを利用して、最後の日を除いて俺と一日以上離れることがなかったんだろ」

 焦りと苛立ちから、ヨルの口調は自然と強いものになった。


「……どうして知ってるの?」

「魔女に会って聞きました」  

「あはは。そっかあ。ヨルくんも魔女に会っちゃったかあ」

 わざとらしく明るい声でユカは言う。

「……その愛想笑い、やめてくれません?」

「なんのこと?」

「似合ってない。……それに、嫌なんですよ。無理矢理突き放されたみたいだ。俺はユカさんと仲良くなれたつもりでいた。でも結局その愛想笑いだ。俺の感情を踏みにじられてるみたいで、正直、むかつきます」

「……そっか。でも無理だよ」

 ユカは困ったように笑う。


「私、これしか知らないから。ずっと愛想笑いして、ご機嫌伺いして、嘘ついて。それが当たり前だったから。今更変えらんないよ」

「はじめから、あなたは俺に本音を見せるつもりなんてなかったんだ」

「……」

「あなたはただ自分の拠り所が欲しいだけ。一時の休息を異性に求めてるだけ。そんな使い捨ての存在が、たまたま俺だったってわけだろ」

「そう。どうでもよかったの。だから、誰でもよかったの」

「そんな薄情なことがっ……! ユカさんは俺のことなんてどうでもよかったって言うのかよ!」

「……違うよ」

「なにが、何が違うって言うんだ」

 ユカは、何かを言おうとして止まった。それから別の言葉を用意した。


「ヨルくんは違う。私なんかみたいになるべきじゃない。私がいなくたって充実した生活を送っていたじゃない」

 ユカは誰にも記憶されない幽霊の状態で、ヨルを見ていたのだ。

「もういい……。もう私には何もいらないんだよ。私のことなんて、忘れたままの方があなたは幸せになれるよ」

 ユカは雨のような本音を、ぽつりと垂らす。

「どうしてそう決めつけるんですか」

「私、もう生きたくない。生きていても心が苦しいだけで、何にも楽しくない。だから全部どうでもいいの」

 もうね。とユカは言った。

「……つかれたの」

 ユカの飾らない本心が冷たい言葉で紡がれていく。


「この命は私だけのもの。だから、どうしようと勝手でしょう。悲しむとか怒るとか。私、知らないよ」

「俺は、ユカさんがいなくなって悲しかった」

「そんなの、知らない」

「ユカさんがいなくなってから、ずっと虚しさが消えなかった」

「そんなの。ヨルくんの勝手でしょ」

 ユカは目を逸らした。


「私だってわがまま言ったっていいじゃない。苦しいなら命に見切りをつけたっていいじゃない。世界中のみんなに忘れられた私なら誰も損しない。悲しまない」

「それでも……」

 ヨルの説得はユカの冷たい心には届かない。

 繋ぐ言葉を探している間に、ユカは苛立ちを見せた。


「全部、私の勝手でしょ!」

 それは、ユカが初めて見せる表情だった。

 紛れもない本心からくる叫び。溢れる涙にヨルは言葉が出なかった。

「ヨルくんは何様のつもり? 人の死を止めるほど傲慢な人間なの!?」

 ユカの本音はヨルの頬にぽつりと雨を降らせた。

「もう、ほっといてよ……。生きることにつかれたの……」

 雨は本降りへと変わり、土砂降りが二人を打ちつける。


「お願い。もう、死なせてよ……」

 なんて勝手な人なんだと思った。ユカが忘れ去られたことで、ヨルは空虚な一年間を過ごしてきた。それなのに、思い出したのに、ユカは亡くなってしまうつもりなのだ。

「俺だって、人が人の死を止めることほど傲慢なことはないと思ってる」

 でもな。と、ヨル。

「俺は傲慢な人間だ。大切な人ひとりくらいは守ってみせたいんだよ」

 ユカの言葉はなかった。

 ヨルは一歩踏み出し、優しい眼差しでユカを見る。


「どうして、死ぬなんていいながら一年もの間生きていたんですか」

「っ……。それは……」

 ヨルはその答えをわかっていながら、ユカに問いかける。

「俺との約束を律儀に守る必要なんてないのに。どうして、死ぬことをしなかったんですか」

 ユカはその問いに答えない。自問自答をするユカの思考は「どうして……」と繰り返すことしかできなかった。

 ユカはヨルを見る。瞳は潤んで揺らいでいる。


「どうして……。今更思い出すの。どうして今なの?」

 子供のような泣き方だった。

「もう、私は死ぬって決めたのに……!」

 ユカの目からほろほろと涙が溢れる。それは止まることを知らない。ユカも止め方を分からない。

「どうして、私を思い出しちゃったの……? どうして未練なく死なせてくれないの……?」

 悲痛な叫びがユカから漏れた。


「俺はずっと、忘れている誰かのことを考えていたから」

 ヨルは淡々と、優しい口調でユカに語りかける。

「死にたいなんて言ってるのに、どうしてユカさんはずっと苦しそうなんですか」

「そんなことない」

「俺にはそう見えますよ」

「だって……」

 ユカの目から雨が降る。だって、だって……。と言葉が涙と共にこぼれ落ちていく。


「だって……。初めて心の底から好きになっちゃったから」

 それは嘘偽りない、ユカの苦痛まじりの本音だ。

「好きになってしまった。世界一大切な人だからこそ、『ふつうの幸せ』を手に入れて欲しいと思った。普通に就職して、普通に素敵な人と出会って、普通に結婚して、普通に子供に恵まれて、普通に長生きして、普通に死んでほしい。ヨルくんはそうやって普通に幸せになってほしいと思ってしまったの!」

 ユカの声はだんだんと大きくなり、しまいには怒鳴り散らすまでになっていた。

「別に、私じゃなくてもいいじゃない!」

「タイミングが違えばそうだったかもしれない。だけど俺のことを見てくれて、あの時手を差し伸べてくれたのはユカさんだった。それだけじゃいけませんか?」

「あんなの、ただの気まぐれだよ」

 ユカの不貞腐れた声が、雨とともに落ちいく。

「それでも俺は助かった。巡り合いだったんですよ。そういう縁だったんですよ」

「……」

 ユカは何も返さない。追求されたくないのか別の話まで持ってきた。


「職場の後輩なのかな。ヨルくんにはあの子がいるじゃない」

 幽霊の状態で、ツグミのことも見ていたのだろう。

「あの子と普通に幸せになる。そういう未来の可能性が、ヨルくんにはあるんだよ?」

 ヨルも、ツグミに心が傾かなかったかと聞かれたら首を横に降ることはできないだろう。

 けど、それでも、それ以上に大切な人がいた。だからヨルの心には一点の迷いもない。


「私はヨルくんとは違って空っぽだからさ」

 だからさ、とユカはユカなりの優しさでヨルを突き放す。

「幸せなヨルくんは、こんな空っぽなお人形の私といるべきじゃないよ」

 ユカは震えた腕を抱え、ヨルの方に目線をやることもせず言った。

「それともさ。一緒に死んでくれるって言うの?」

 ほら、とユカは空を指した。

「嵐がやってくる」

 ユカがそう言うと、雨はいっそう激しさを増して東京の街を打ちつけた。


「ユカさん」

 名前を呼んだ。それはユカには届かない。

「さあ。行こう?」

 ユカは静かに言い、手を伸ばしてきた。

「嫌です」 

「そっか。じゃあ、私だけいくね」

 ユカはすんなりと納得し、言った。

「ヨルくんは、死ぬつもりなんてなかったものね」

 ユカは柵に寄りかかり雨の街を見る。

「気づいてたんですね」

 ヨルはユカの背中に語りかける。

「うん、わかってたから君を誘ったの。あの雨の日。出会ったのは偶然だった。でも君みたいに消えてしまいたいと考える人を探していたのは本当。だから君に出会えたのは必然だって思ってる」

 でもね。とユカは言った。


「私は、死ぬよ」

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