4-6.才果結果という女性

「送っていくよ」

 前を歩くツグミにヨルは声をかけた。

 お店を出てからツグミはずっと無言だった。


「送り狼さんにでもなってくれるんですか?」

 振り返り、少し翳りのある笑みでツグミは言った。

「ならないよ」

「なら、遠慮します。それに、ちょっと会社に寄る用事もあるので」

 ツグミは「それじゃあ」と、あっさりとヨルと別れ、行ってしまった。

 結局、弁解も、謝罪も出来ずじまいだ。


「ツグミさんには申し訳ないことしたな」

 今度何か埋め合わせでもしようかと考えた。

 その時だった。

 ぽつり、と雨が地面を打った。


 秋の長雨。その雫がヨルに落ちていく。

 勢いは強まり、雨粒が大きくなってきた。

 この時期の天候は不安定だ。


「雨宿りでもするか」

 折りたたみ傘は持っていたけれど、いつ手に入れたかも分からないものを使う気にはなれなかったし、もう少しだけひとりで考えられる時間が欲しかった。

 ツグミを送っていくと言ったのは建前。

 そんな自分に気づいて、ヨルは自嘲気味にため息をひとつ吐いた。


 そして、雨宿りに最適な建築計画のお知らせの看板のついた、雑居ビルを見つけた。

 お知らせを見てみると、オフィスビルになる計画は進んでいないようだった。

 鍵のかかっていない雑居ビルへガラスの扉を押して入ると、中は予想通り埃っぽかった。

 仕方がないがここで雨宿りをするしかない。


「相変わらず埃っぽいな」

 相変わらず、という言葉がヨルの頭に引っかかる。以前、来たことがあるのかもしれない。

 手付かずのまま放置され、いずれは建て壊されてしまう雑居ビル。

 時間が過ぎれば、また新しい建物が立つ。東京とはそういう街だ。


「なにやってるんだ。俺は……」

 ヨルは足りない何かに意識がいっていて、目の前のことが何も見れていなかったことに気づき悔やんだ。仕事のミスも、ツグミを傷つけてしまったことも、それが原因だ。

「ちゃんとしないとな」

 今ある幸福にヨルは満足している。それは嘘偽りない真実だ。

 ただ、足りない何かが気になるだけ。


 ツグミは言った。「気にしないほうがいい」と。

 だから、気のせいだと思うことにした。

 前の自分ならそれで問題なかった。

 けれど、今は足りない何かが気になって仕方がない。

 体の細胞全てが「思い出せ」と叫んでいるかのようだ。


「いったい、何を思い出せって言うんだよ……」

 ヨルの小さな嘆きは、静かな雑居ビルに木霊した。

「はぁ……」

 思わずため息が漏れてしまう。

 肩についた雨粒を払い、濡れたジャケットを脱いで、適当な壁に寄りかかった。


 ガラス扉の奥に見えるのは急ぎ足で行き交う傘を差した群衆。

 ガラス扉につく雨粒が垂れていく。

 街灯がぼやけて見える少しだけ幻想的な風景。


「……?」

 ヨルはこの光景に似たものを、以前、どこかで、誰かと見たような気がした。

「雨、早く止まないかな」

 ここにはヨル以外誰もいない。それはヨルのひとり言だ。


 ──大丈夫。五分もしないで、きっと止むから。


 返事が聞こえた気がした。

 振り返っても誰もいない。誰かがいたような気配もない。


「……」


 それでも、誰かがいたような気がした。

 あの日も雨が降って、ここで雨宿りして、誰かと話した。そんな記憶があった。

 けれど、それが誰かはわからない。記憶がぼんやりとしていて顔も姿も思い出せない。

 ただ、なんとなく、女性だったような気がする。


「雨宿りして、幽霊とでも話したのか?」

 そんなオカルト話が頭に浮かび、鼻で笑った。

 建物内は暗く、幽霊が出てもおかしくない暗い空気が漂っている。

 ガラス扉を見ると、雨が止んでいた。


 きっとそんなこともあったのかもしれないと、そんな与太話を信じかけていたことに自虐的な笑みが漏れた。

 ヨルはガラス扉を開け、外に出ようとした。

 その手は、はたと止まった。


「……あ、れ?」


 ヨルの目から雨が降る。頬に軌跡を残して、顎から落ちた。

 おかしいと思った。さっきまで笑っていたじゃないか。ここで誰かと話したことなんてないはずだ。記憶にないのだから。


 ……けれど、もしも。忘れているだけだとしたら?


 疑念が再び湧き上がる。

 頭の片隅に残っていた僅かな記憶の破片を掴んだ。

 思考が冴え渡り、記憶が奔流となり連続して蘇る。

 点となっていた記憶が繋がり線になる。

 それは幾重にも結びつき、やがてヨルの記憶を確かなものにした。

 頬に再び一筋の涙が溢れた。

 そして、ヨルは思い出した。


「ユカ……さん」


 才果結果という女性を。


 どうして忘れてしまったのだろう。

 大切にすると言ったのに。忘れないと誓ったのに。

 ミステリアスな雰囲気で、けれどどこか儚げで、優しくヨルの話を聞いて受けとめてくれた、コーヒーが好きな女性。

 品のある仕草をするくせに時々お茶目にからかってきて、誤魔化すように笑っていた。

 その顔。その声。その表情。

 蘇った記憶が連鎖的に思い出されていく。


 そして、ヨルは気づいた。

 初めて会ったときから不思議な雰囲気を纏っていた。自分と似て危うげだとも思った。

 二度目に会ったとき、それは確信に変わった。

 路上で泣き崩れていたあの日。ユカに拾われたあの日。

 ユカは、傘を差していた。

 そして、言葉を発して、雨が止んだことを確認してから傘を畳んだ。

 それは『忘却のおまじない』の手順だ。


「あの人は……」


 ヨルは確信した。

 ユカがヨルと再会したときには、すでに『忘却のおまじない』を成功させていたのだ。

 そして、予想が正しければ、おまじないの対象は "すべての人間" だ。

 ヨルが忘れずにいたのは、最後の日を除いてユカと一日以上離れることがなかったからだ。

 ユカは、あの日を境に幽霊になったのだ。


「なんて、勝手な人なんだっ……!」

 悪態は自分に対するものでもあった。

 なにが今はそれなりに幸せだ。なにが忘れてしまうほどのことだ。全部違った。何かが足りていないのは本当のことだった。

 自分の不甲斐なさや情けなさに怒りが込み上げる。

 最後の会話が嘘偽りない真実なのだとしたら、ユカはきっと、本当に死ぬつもりなのだろう。

 それは止めなければならない。後悔をしている場合ではない。


 ヨルはすぐさまスマホを取り出し、職場へと連絡した。

 呼び出し音が数回鳴って、女性の声がした。ツグミだった。

「もしもし?」

「俺だ」

「ヨルさんですよね。さっきぶりです。どうかしました?」

 番号と声から推察してくれたらしい。話が早い。

「さっきは、ごめん」

「いえ。私も悪かったです。雰囲気悪くしちゃってごめんなさい」

「気にしてないから大丈夫だ」

「本当ですか?」

「ああ」

「じゃあ、明日からの仕事も一緒に頑張りましょうね」

 えへっとご機嫌な息遣いが聞こえる。

「……」

 だが、ヨルはそれに何も返せなかった。


「ヨル、さん?」

 違和感を感じたのか、ツグミの声は心配気なもの変わった。

「ああ。すまん。マサさんはいるか?」

「いないですけど……」

「そうか。じゃあ、直接マサさんにかけてみる」

「え。ちょっと……!」

「ありがとな」

 それは無愛想なヨルなりの全力の感謝だった。

 今までツグミには本当に助けられて来た。ツグミほど優秀で、気兼ねなく話せる人と出会えた縁は本当に大切なものだった。


「待って!」

 ツグミは何か気づいたのだろう。切迫した声がそれを物語っている。ヨルは指を止めた。

 ゆっくり息を吸う音が電話越しに聞こえた。

「……帰って、くるよね?」

 震えた声が聞こえる。

 ヨルは今からすることを考えると、返答できなかった。

 代わりに息を吸って、ひとつ深呼吸をして、覚悟はできていることを確認した。

「わからない」

 誤魔化すことはできなかった。最後くらい真摯にありたかった。

「……っ」

 電話越しでもツグミが涙を流していることがわかる。


 ──いやだ。行かないで……。


 幻聴ではない。きっとツグミはそう思っているはずだし、ヨルに伝えたいはずだ。躊躇ってから、言おうとして、やっぱり言葉を呑んだのだろう。

 ツグミはわざとらしく息を吐いた。


「っ……。 ばいばい……。ヨルさん」

 途切れ途切れの別れの言葉を、ツグミはヨルに伝えた。

 きっと涙混じりで、それでも人懐っこい笑みを浮かべて送り出してくれているのだろうと思った。


「……じゃあな」

 悪いと思いながら、ヨルは電話を切った。

 それ以上返答する余裕はなかった。

 電話越しの声は涙で掠れていた。

 きっと、聡いツグミのことだからヨルが何をするのか分かってしまったのだろう。


「本当に、俺にはもったいない後輩だ」

 もしも、もう一度会えたなら、なんでもしてやるから許してくれと、心の中で言い訳をした。

 今は、ユカと会うためにやるべきことがある。

 そのためにはもう1人、話しておくべき人がいる。

 電話番号は覚えている。すぐにその人に電話をかけた。

 呼び出し音が何度も鳴る。

 あの人は忙しいから出れないかもしれない。と諦めかけたときだった。


「トウドウか。どうした?」

「あ、あの……!」

 出てくれるとは思わず、言葉がつまった。

 だが、切迫した状況にあるということはそれだけで伝わったようだった。

「大切な誰かを見つけられたのか」

 電話の相手、マサは優しく笑った。ヨルが何も言わずとも察したようだ。

「……気づいてたんですね」

「まあな。長く生きてると、そいつの声を聞けば、何を考えているのかだいたい予想がつくもんなんだよ。お前はずっと大切な誰かを探してた。それが何かが足りないという形で現れてた」

「流石はマサださんですね。……それで、仕事なんですけど」

「お前は気にすんな。そんなことどうだっていいんだよ。大切な人なんだろ」

「すみません」

「ああ。いい。謝んな。仕事辞めるんだろ? 手続きはこっちでしとく。ササキさんのことも心配すんな。お前が泣かした後始末くらいしとくさ」

 マサには全部お見通しのようだ。最後まで頭が上がらない。


「マサさんが誘ってしてくれたのに、裏切るようなマネをしてしまって……。俺、自分勝手なことしてるってわかってるんですけど……。でも……」

「だからいいって。お前のうだうだした話なんざ聞きたくねえよ。この時間も無駄だ。さっさと行け」

「はい!」

「またな」

 そう言って、マサから電話は切られた。


 ヨルは何も返せなかった。

 それでも、マサの望む言葉は謝罪ではないと思った。

「ありがとうございました」

 もう繋がっていない電話に向けてお礼を言い、ヨルは走り出した。

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