4-2.魔女
夏本番でもないのに、外は炎天下だ。
遠くに伸びるコンクリートの道路に陽炎が見えた。
繁華街の賑わいは平日であろうと何も変わらない。
散歩が気晴らしになるとは思ってない。
部屋に篭って考え事をして鬱屈した気分になるよりは、外にいる方がマシだろうと思ってのことだ。
信号が青に変わった。ヨルは顔を上げた。
群衆が我先にと横断歩道を渡っていく。その視界の端に違和感を覚えた。
──白い。
真っ白な存在が、たしかに向こうから横断歩道を歩いている。
雑踏はそれに気づいた様子もないのに、不思議と避けている。
横断歩道の前で渡らずに止まったままのヨルを邪魔そうにしながら雑踏は進んでいった。
みなが汗をかくなか、一人だけ汗ひとつかいていない純潔を体現したような存在。ヨル以外の人間が誰も見向きもしない異質な存在。
ヨルは一目でその存在が何かを理解した。
この人は、魔女だ。
確信して、ヨルは誰かの声を思い出した。
──東京にはね。魔女がいるの。
まただ。また声が浮かんだ。
胸が苦しくなり、切なさが込み上げてくる。思い出そうとすると頭が痛くなった。
誰から聞いたかはわからないが、きっと目の前にいるこの人が魔女だと、不思議と確信していた。
白い魔女がヨルの脇を通り抜けていく。
ヨルは雑踏を歩く人々に肩をぶつけられる。足を踏まれる。体がよろける。
わずかの間、視線が魔女から外れた瞬間、見失ってしまった。
どこだ。と探し、あたりを見渡すと、幸運なことに魔女がカフェテリアに入るのを見つけた。注文を済ませたのか、テラス席に座った。
話せば何かが分かる気がした。
「あ、あのっ……!」
ヨルは衝動のまま白い魔女を呼んだ。
「はい?」
魔女は顔を上げた。
白髪に白い肌をした魔女がヨルを見る。
陶器のように白い肌は今にも消えてしまいそうで、儚い美しさが体現されていた。
「っ……」
ヨルはその美しさに一瞬言葉がつまる。
喉がその畏怖に似た何かに締めつけられているようで、絞り出そうとした声は掠れて息となるだけですぐ消えていった。
魔女が口を開いた。
「認識を逸らしていたはずですが」
認識を逸らす? と思ったがなんのことかは分からない。
「まあ、これもご縁があったということなのでしょうね」
と、魔女はひとりで納得した。
「用件はなんでしょうか」
「あ、いえ。明確にあったわけじゃないんですけど……。その、あなたは噂の『魔女』さんで合ってますか?」
「そう呼ばれているようですね」
柵越しに話しかけるヨルに周囲の雑踏は注目するも、足を止めてまで見るものはいない。
魔女へ視線をむけるものは誰もいなかった。それはまるでそう認識させられているかのようだ。
魔女はヨルを見て言った。
「おや、あなたは『おまじない』にかかっているんですね」
そしてこうも言った。
「それに、一度使ってる」
時間が経ち、ヨルの喉がようやく戻った。
「おまじない……?」
ヨルには心当たりがなかったが、どこかで聞いたような奇妙な感覚があった。
「なんですか、それ」
「人の記憶から消えるおまじないですよ」
そんな非現実的なものがあるのか疑問を抱くと同時に、どこか納得している自分がいて、ヨルは不思議に思った。
「俺におまじないがかけられていて、それを俺自身も使ったことがあるということで合ってますか?」
「ええ」
「ですが、そんな記憶なんてないんです」
「ならば、きっと誰かがあなたに『忘却のおまじない』をかけたのでしょう」
魔女は人の心を読んでいるのか、ヨルを見透かした発言をする。
「忘却のおまじない………?」
その言葉には、どこか懐かしさを感じた。
同時に誰か、女性の姿がフラッシュバックした。
ずっと残る違和感。何かが思い出せない奇妙な感覚。それがヨルを後押しする。
この魔女からは、何か鍵になるなことが聞けそうだと、ヨルの心が早鐘を打つ。
「それを解く方法って、ないんですか?」
「残念ですが、ありません」
魔女は冷たくも暖かくも無い声で言った。
「じゃあ、思い出すおまじないは……!」
ヨルは奇妙な感覚を明確にするための唯一の手がかりに必死に縋る。
「あなたにかかったおまじないはとても強力な意思によるものなので、それを解くことも、思い出すことも難しいでしょう」
「そんな……」
藁にもすがる思いで掴んだ希望が崩れていく。
もう、この記憶は忘れたまま生きていくほかないのだろうか。
ヨルが諦めかけたときだった。「ですが」と魔女は言った。
「ここからは可能性の話です」
「なにか方法があるんですか?」
魔女はひとつ頷き、話し始めた。
「夏が明ければ、中秋の名月、秋の長雨がやってきます。秋の長雨は梅雨と同じくらい特別な雨。その雨はおまじないの効力にもなりますが、反対に効果を弱めてくれる力を持っているんです」
魔女は「ですから」と続ける。
「もしあなたが忘れた人のことをほんとうに大切だと思っているのなら、思い出せる可能性はゼロではないかもしれません」
「忘却のおまじないとは?」
「少し説明しましょうか」と言って、魔女は忘却のおまじないについて話した。
魔女が話した『忘却のおまじない』の内容はこういった内容だった。
条件は5つ。
① 術者のいる地域で雨が降っていること。
② 傘をさしながら[私の記憶を雨によって洗い流してください]と三度唱え、忘れてほしい人のことを強く考えること。
③ 雨が止んだときに傘を畳むこと。
④ おまじない実行中は忘れられたい人に見られたり、それを悟られないこと。
⑤ おまじない実行後は、忘れられたい人と一日会わないこと。
このおまじないをするだけで、他人から自分に関する記憶の一切が消えるのだと言う。
そして、おまじないを行えるのは一年に一度きり。
期間は、中秋の名月から15日の間。
つまりは、月の満ち欠けがあるけれど、中秋の名月が来てから次の新月が来るまでの間であること。
「これが、今の世に知られている『忘却のおまじない』のルールです」
「今の世に、ってことは、ほんとうは違うルールが存在するということですか?」
「誤りがふたつあります。きっと人から人へ伝わっていくうちに、解釈が変わってしまったのでしょう,」
「誤り……?」
「ええ。ひとつは、おまじないをしているときに見られたり、悟られたりしないこと。とありますが、これは全く関係ありません」
そしてもうひとつ、と魔女が数え、本当の条件を言った。
「……つまり、おまじないをしたあと一日以上離れなければ記憶され続けるだけで、それ以上離れれば忘れ去られ、覚えることも思い出すこともできなくなる。それが忘却のおまじないの本当のルールだと?」
ヨルはそれを確認した。
「はい。『忘却のおまじない』の効果は絶対です。どんなことがあろうと例外なく、一日経てば縁が切れ、忘れ去られ、記憶することができなくなります。特殊な状況を除いて……」
「特殊な状況?」
「例えば、忘却のおまじないをした場所に一緒にいて、継続して一日以上離れることがなかった場合です」
ヨルはそれを聞いて、空白の15日間のあと、目覚めた日のことを思い出した。
あの日は、知らない部屋で一日以上眠っていたはずだ。
そうなると、それ以前に誰かと一緒にいて、一日以上離れたことで、その人を記憶できなくなった可能性があるということになる。
「もしも俺が何かを忘れているとしたら、何かできることはありませんか?」
一筋の光明が見えた気がした。
「気になるところに行ってみてください。気になるというのはその人の無意識の思考が引っかかっているということ。その場に行くだけで何か得られるものがあるかもしれません。ただ、これだけ強いおまじないとなると、思い出す可能性はごく僅かです」
「それでも、俺は……」
「……それほど大切な方だったんですね」
「確証はないですが、俺にとってかけがえのない大切な人のような気がしています」
魔女はヨルの表情を見て柔和な笑みをし、ひとつ頷いた。
「おまじないは意識の力によって成立しています。強い意識であるほどその効果は強力で絶対的なものになる。けれど、もしあなたとその人のふたりが強く思い出したい、思い出してほしいと思うのなら、おまじないの効果は薄れるかもしれません」
魔女は静かに言葉を紡いでいく。
「あとは、私からのアドバイスは一つだけ。諦めないでくださいね」
「わかりました」
最後にヨルはひとつだけ、もしかしたら、と心の奥につっかえていたことを思い出した。
それは本能的なものだった。
確かに一年前にもうひとつのおまじないを目にしていたような気がしたのだ。
「ひとつ、伺ってもいいでしょうか」
「ええ。なんでしょうか?」
ヨルは聞いた。
「──」
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