Episode.Elf. Schneiden→Schrecken.ver.1.1


 本能は「逃げろ」と警鐘を鳴らしています。

 ──あの綺麗に磨きあげられた、艷やかな爪から。

 白蛇のように獲物へと這い寄り、喰らいつこうする彼女から。逃げなければいけない、抵抗しなければいけないと、私も「わかって」いるのです。けれど、どうしてか──私の身体は「逃げる事」も「抵抗する言葉」も、忘れてしまったかのように、全く動けなかった。

 そんな私を見据える彼女からは、無機質な鋭さを内包した視線を向けられています。そこにはなんの感情イロもなく、むき出しの神経を撫でられるような、不気味な悍ましさしかありません。


 ────そぷっ。


「あ……? がっ……ぁ……っ?!」


 ──痛い、痛い、痛い。とてつもなく痛い!

 非現実的な光景、間延びした時間。それらを殴り飛ばし、現実を突きつけてきたのは、左目に生じた灼熱感と耐え難い激痛でした。

 どうすれば良い。なにをしたらこの現実激痛から逃げられるの? 頭の中はそれで埋め尽くされて、体はただ、痛みに反応するだけの何かに成り果てていました。

 その間にも指先は無遠慮に突き進んできます。赤熱した鏝かと錯覚する程の激痛を伴って、目の奥へと入り込んでくる。

 それは間違いなく、今まで感じた中で一番の痛みであるはずなのに、私は悲鳴すらあげられなかった。まるで呼吸の仕方を忘れたみたいに、口をパクパクさせるだけしかできなくて、ズブズブと侵入してくるこの指先を、止めることすら忘れていたのです。

 そうしている間にも、細く白魚のような指先は入り込んで来る。その度にプチ、プチ、っていう嫌な音がして、耐え難い痛みが増していく。止めて欲しいのに声が出ない、痛いのに、怖くて、体が言う事きかない。


「そろそろかな」


 ──プチッ。

 変な音がして視界が消えた。左側は何も見えなくなって、ぬるっとした感覚と共に指先がなにかを連れ去っていく。やめて、取らないで、と叫んでいるつもりなのに、私の喉は声を出せていなかった。残された右側の視界では、バチッバチッと嫌な花火が散っている。


「こうして取り出しちゃえば、ムカつかないね。それにとっても綺麗」

「つ……ぁ、……か、え……して」


 私から摘出した物を手に、カラカラと愉しげな笑みを見せる彼女。本当に、心の底から愉しんでいるような口ぶりで、にっこりと笑っているのに──その「瞳」だけは冷ややかな鋭さを携えていた。その姿はとても怖くて、悍ましい。まるで人の皮を被った怪物のよう。

 今すぐにでも逃げ出したい。この現実を忘れてしまいたい。けれど、左目を取られてしまった。だから逃げ出したい気持ちと同じ位、逃げたくはなかった。

 私は酷く痛む左眼窩を抑えることもせず、彼女の指先につままれている物へと手を伸ばしてみたけれど、あと少しのところで逃げられてしまう。


「駄目駄目、コレはもう私のものなんだからね」

「そ、……そん、な……」

「ってかよくよく見たらキミ、めっちゃ綺麗だね? その手足も高く売れそうじゃん」

「え……? ぁ……や、やだ……来ないで」

 彼女の顔に浮かんていたのは、全身が総毛立つような狂気を孕んだ笑顔だった。造り物フィクションではない、まっさらで純真無垢な狂気と愉悦。それは映像フィルムの向こう側で見ていたモノとは、まるで比べ物にならない程の現実味リアリティで存在していたのです。

「肌はモッチモチだし、シミ一つ無いとかバリ羨まなんだけどぉ」

 ザラついた甘さのある声と共に、白濁した白魚のような手が頬に触れる。私の慣れ親しんだ感触とは異なる、死人の手が肌に触れて、味わうように撫でていた。

 触られた所が酷く冷たくて、形容し難い熱を残していくのが堪らなく不気味でしかたないのです。ヒンヤリとした、暖かくないもの。熱を奪ってなお残る、死人の痕跡。


「────離れ、て……っ!」

 我慢の限界だった。もう耐えられないと、本能が叫びを上げたのです。相変わらず体中が痛いけれど、恐怖がそれを上回っていたから。

「が、……っ─────」

 だから最も近付いてきた瞬間、相手の頭へ思いっ切り頭突きを食らわせてやった。それは思った以上の威力だったのか、彼女は仰け反りながら仰向けに倒れたのです。

 その隙に、私は彼女の下から這い出て急ぎ立ち上がりました。左眼窩は未だ、ガンガンと響く鈍痛と灼熱感を告げています。けれど立ち止まる事は許されない。あの程度の衝撃で倒れるような人造人間は──帰還者は存在しません。

 数歩進んだ所で、背後から猛烈な圧を感じました。

「────なんだ、可愛いところあるじゃん。オマエ」

 振り向いた先で立つ彼女からは、一切の笑みが消えています。けれどその声と瞳には、確かな喜びの感情イロが見て取れました。


「か、っ……ゔ──……!?」

 回避行動を取れ。そう本能が叫ぶよりも早く、腹に強い衝撃を受けました。彼女に「蹴られた」と理解したのと当時に、背中を強く打ち付けていました。背中から抜けた衝撃に息がつまり、一瞬視界がボヤケます。

 咳き込む事すら満足に出来なくて、その度に粘ついた半泥状はんでいじょうのナニカが、せり上がりました。


 ……きっと、彼女は「獣」と呼ばれる類の存在なのでしょう。

 他の命を傷つけ奪う事に対し、これといった理由を持ち合わせない。持ち合わせずに精神性。美味しそうだからとか、羨ましいからとか、欲しいからとか。そういう短絡的な理由で動くことが出来る──自分自身を律するのではなく、本能に従って動ける者なのでしょう。マスターは、もしもそういう手合いに遭遇したら逃げろと、そう言っていました。


「さぁて、迷子のキミ。これが何だかわかる?」

 彼女は私の前にしゃがみ込むと、大きく開かれた胸元から、キラキラと光る一本の糸らしきモノを見せてきます。

 一見するとそれは、私達が負傷した際に使う縫合糸にも見えます。けれど、縫合糸にしては些か太いような気もしました。だというのに、糸自体の透明度が高く、実際よりも細く頼りないものに見えてしまうのです。

「これはね、こうするためのものなんだ」

「な、なに……し、てる……の?」

 その口調は変わらずの感情イロを孕んでいて、一切の感情が見えない表情にはほんの少しの笑みが浮かんでいます。それがまた、彼女をより一層不気味で、恐ろしいものにしていました。


 ──ボトリ。


 発狂しそうな極限状態の中、鼓膜を震わせたのは程よい水気を含んだ物質が地面に落ちる音。

「へ、…………え?」

「ほら、綺麗に

 痛みなんてものは微塵も無い。切断された感覚すらなかった。ほんの一瞬だけ、きゅっと糸が食い込むような感覚はありました。それが「するり」と抜けた気がした次の瞬間には、私の左肩から先が地面に落ちていたのです。

 ──正直、何が起きたのか理解できませんでした。

 すぐそこに転がってるモノが、私の腕だなんて信じられなくて、頭の中はぐちゃぐちゃなのです。

 何が起きたの? どうして私の腕が、そこに転がっているの? どうして腕があると、私の脳は認識しているの? 左手を動かしている気がしているの? 痛みがなかったのは、なぜ?


「──これね、肢体切断用の特別製なの。切られたときに痛みなんてなかったでしょう?」

「ひっ……?! ぁ、あ……や、やだ……やめて──!」

「大丈夫大丈夫、あと3回繰り返したら終わるから」

「や、いやぁ……」

 見せつけられたのは紅く濡れた極細糸。それはヌメリのある光沢を帯び、そこからしたたる雫も相まって惨憺さんたんたるものでした。

 それと同時に感じていたのは、これから先、私には一切の抵抗すら許されないのだろうという予感です。それはきっと、あそこに転がる二つの死体よりも、酷い結末なのでしょう。

「痛くない、怖くない」

「ひ、っ……や……め、て……!」

「止める? どうして?」

 ──恐ろしいscary。想像できてしまった未来も、目前の彼女も。何もかもが恐ろしいのです。このか細い糸で括られたら最後、私の肉体は切り落とされてしまう。それが堪らなく怖い。けれど身体は小刻みに震えるばかりで、防御反応の一つすら取ることが出来なかったのです。

 ……もうきっと、心が限界を迎えていたのでしょう。抵抗するだけ無駄であると、理解してしまった。


 ──ぼとっ。


 切断された痛みはやっぱりなくて、糸が軽く食い込む感覚だけがしっかりと感じられる。


 ──どうやら、次は右脚らしい。


 脚を失えばもう、何もできなくなってしまう。そう頭では「理解」できているのに、抵抗しようとさえ思えません。

 今の体勢ならきっと、相手の腹へ強烈な蹴りを打ち込める。それが出来るのに、動けないのです。いえ、きっともう動きたいとさえ、思えなくなっていたのでしょう。早くこの地獄のような現実が、終わってくれますようにと願っていたのですから。


「良い子だね……───凄く、つまらないけど」


 ──右脚を糸で括られた。

 そこから先は同じ手順です。糸が皮膚を割いて肉を切り、関節で離断される。四肢を切られる痛みの代わりに、体の内側から鈍く突き刺すような痛みを感じます。

 それに伴って彼女の声は遠のき、その輪郭はボヤけ始めていました。それから間もなく、周囲の喧騒や、よくわからない「ゴウゴウ」という変な音、つい先程まで普通に聞こえていた、すべての音が溶け合っていく。

 その中で煩い程に聞こえるのは、激しく拍動する自らの心音だけ。心音が増す程、視界のかすみは強まり全身の痛みも増強していきました。


「──ふふっ、可愛くなったじゃん」


 相変わらぬ冷たさの中、恍惚とした感情イロを匂わせながら彼女は笑っていました。徐々に狭まっていく視界の中、彼女は私の四肢を持って何処かへ去っていきます。それはまるで、これからピクニックにいくかのような、軽く弾んだ足取りでした。

 その後ろ姿を見ながら考えていたのは、一つの疑問です。

 あの不釣り合いな言動を以って、異質の恐怖を振り撒いた彼女の「可愛くなった」という言葉。有り触れた言葉であるはずなのに、深い所へと突き刺さっていました。







 ───シオの意識が途絶えてから間もなく、惨憺たる現場に足を踏み入れた者がいた。

 その女は、シミだらけの白いロングダブルトレンチコートに身を包み、片手に飲みかけのワインボトルを手にしていた。くすんだ人参を思わせる赤髪は後ろ手に縛られ、右手にはシオの持っていたハンドバッグが握られている。


「──胸糞悪いにも程がある。どうしてお前は私の前に現れた?」

 気怠げに言葉を漏らすと、横たわる死体に腰を下ろし、残ったワインを一気に飲み干した。

「アタシはだた忘れ物を届けに来ただけなのに、どうしてこんな所でくたばってんだよ禿頭ボールディ

 女は空になったワインボトルで、禿頭の額ををコンコンと軽く叩く。だが当然反応はない。彼女はそれでもその手を止めず、暫し一定の間隔で額を叩き続けた。その度に、決して大きくはない反響音が生じるが、それは誰の耳に届くこともない。誰かが生み出す喧騒の中に溶け込み、消えていくのだ。


「どうしてお前は──あの娘の顔で、あの子の──(※※)で産み出された?」

 彼女の顔に浮かぶ「諦観」とはまた違う感情イロ。望郷の友を想う人のそれであるような、そうでないような。懐かしむ気持ちと、怨むようなイントネーション。

 彼女の真意は不明だが、その視線が誰に向けられているのかは明白だ。複雑な感情を孕んだ、その視線の先にあるのは──四肢を落とされ、二度目の死を迎えようとする女怪物。


 間もなく彼女は立ち上がり、空になったワインボトルをそこらの芥溜ゴミだめに放る。それは誰かだった腐肉に当たり、砕けること無く晒される事だろう。彼女は女怪物シオを片手で抱え上げると、自宅へと向かっていくのであった。






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