吠えろチベットスナギツネ、拳は高く、ポタラ宮さえ貫いて

藤田桜

私の友達


 まさか私がチベットスナギツネの鳴き真似で誰かに遅れを取るだなんて、思ってもみなかった。

 小笠原おがさわら央金ヤンチェン

 それが、私に膝を突かせた少女の名前。

 チベットからの転校生で、チベット人と日本人のハーフで、生まれたときからチベットの大自然に包まれて育ったネイティブチベタン。

 勝てるわけがなかった。地方都市で育った量産型の女子高生のささいな趣味なんかじゃない。ずっと本物を聴いてきた人間がするチベットスナギツネの鳴き声。それを聞いたとき、私は確かに一瞬だけ、冷涼たるチベットの高原にいるかのような幻想に囚われたのだ。泣きそうになった。

 それほどまでに彼女は完璧だった。


 私にとって、この青春の数年間はチベットスナギツネが全てだったのだ。

 中学のとき地獄みたいなブラック部活を経験して、それで胸にぽっかり開いた空洞を塞ぐための応急処置ではあったけれど、私にとってはかけがえのないものだった。

 Youtubeを虚無になって再生していた私が見つけた「Barking Tibetan fox吠えるチベットスナギツネ」という動画。不愛想なチベットスナギツネの顔に惹かれたのだろうか、何となく私は真似をしてみた。ものすごく似ていた。

 私は、これが神さまから一人一個授かった才能なのだろうと、そう思った。きっとこれなら誰にも負けない。ちっぽけな私にも何か一つ誇れるものを与えてくれる。

 吹奏楽部を辞めてからすっかりしていなかった基礎練習をまた始めた。始めは動画の真似をするだけだったけど、次第に即興も利かせられるようになってきた。体のどこで音を共鳴させるべきか、一つ一つ手探りで見つけていった。

 本気だったんだ。


綾音あやね、どうかな? わたし上手い?」


 許せなかった。

「わたしもやってみる」なんて気まぐれで、何の悪気もなく私のたったひとつを奪い去った眼前の少女が。

 でもだからと言って何ができる訳でもなくて。「凄いよ央金。私よりずっと上手」と笑うしかなくて。そんなことないよと謙遜する彼女を冗談交じりに抱きしめることしかできなくて。


 だからこれは僥倖だったのだと思う。


 昼休み、文化部棟の屋上。

 央金は吹奏楽部に入った。たぶん私と中学が同じだった子から聞いたのだろう、「綾音、中学で吹奏楽部だったんだよね。またやらない? 一緒に入ろうよ」

「ごめんね。楽器はもうやめたの」

「大丈夫だよ。みんなすごく優しいし、綾音もきっとまた吹奏楽を好きになれると思う。わたし綾音と一緒に吹奏楽をやりたい」

 ああ、この子は。どこまで聞いたんだろう。

「ごめん。金管楽器の音を聞いたり、思い出すだけでもつらいの。だから、」

「うん。だからこそ、ちゃんと素敵な思い出で上書きしようよ」

 どうして、私の事情を知ったうえでそんなことを言えるのだろう。

「狐の鳴き真似なんてバカなことしてないでさ」

 そう言うと央金は軽く吠える真似をして、笑った。そんな適当な鳴き真似さえ私よりずっと上手くて。本当のチベットスナギツネみたいで。

 それがきっかけだった。頭のなかでプツリと切れたのが分かった。


 私は彼女の襟首を掴んで殴った。

 そのポタラ宮みたいにきれいな歯並びをぐちゃぐちゃにして、二度とチベットスナギツネの真似ができないようにしてやる。殴った。殴った。何度も殴った。ありったけの力を振り絞って殴った。

「私ね、多分あなたのことずっと嫌いだった」

 言いながらも、私は殴りつづける。

「ごめんね。央金が出会ったのが私じゃなかったら良かったのにね」

 たった一度で完璧なチベットスナギツネの鳴き真似をしてみせた彼女には、私の努力など些細に思えたんだろう。こんな簡単なことに執着するなんて、と。私がもっと上手かったら、彼女より上手だったら、そんなこと言わせないで済んだのかな。大切な友達とも、もっとちゃんと付き合えたのかな。


 彼女を手放すと、私は吠えた。

 屋上から見える灰色の街並みと、遠い青空に向かって。

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吠えろチベットスナギツネ、拳は高く、ポタラ宮さえ貫いて 藤田桜 @24ta-sakura

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