第9話

 無言が訪れる。

 ソファーに腰掛けようとしていた佐野母も、その隣にいた加藤も呆気に取られていた。事情を知っている緑栄は驚きはしなかったが、ただ成り行きを見守るしかなかった。


「カウ……え、どういうことでしょう?」

「失礼ですが、断言します。ご主人と離婚されるおつもりですね」


 佐野母の目が見開かれる。

 色を失う佐野母とは別に、慌てたのは加藤だ。


「なにを言ってるの恋鐘さん!? どうして急にそんな……!」

「登紀子さんが気づいていないであろうことは分かっていました。佐野さんご本人もひた隠しにしていたでしょうから」


 加藤がちらと佐野母の方を伺う。佐野母は誰とも目を合わさずにうつむいていた。


「もちろん登紀子さんはプロです。決してご主人との関係を聞いてこなかったわけではないはず。ただ、カウンセラーもまた警察や探偵じゃない。嘘をつかれたり、隠し事をされていては真実に気づくこともできません。そして、そんな状態では満足に仕事をすることも難しくなります。悪気がなかったとは思いますが、信頼関係を築かなければいけないときこそ、正直に話して欲しいということを覚えておいてください」


 佐野母は黙っているだけだった。加藤は彼女の隣に座り、神妙な面持ちになる。


「本当、なんですね」


 加藤がどこか労るように聞くと、佐野母が恋鐘の方を向く。


「……どうして分かったんですか?」

「洋平君の状態です。彼は中学時代、素行は良く人気者で勉学にも励んでいた。それが高校に入って急に心が折れたかのように引きこもりになってしまった。おそらく高校に入ったあたりで何か精神的に不安定になる出来事があったのだろう、と私は見当をつけました。そして、学校関係ではないということも推測していました」

「学校は、関係ない? ……そんな。だってあの子、学校で打ち解けられないとか、勉強についていけないからって」

「そういうこともあったでしょうが、入学してわずか一ヶ月程度で精神変化が起こるとは考えにくい。そもそも、おかしいと思いませんでしたか? 高い偏差値の高校を希望したのは彼自身なんです。誰かに強制されたのならともかく、自分が希望して行ったのにどうしてすぐに勉強が嫌になるんでしょうか」


「――あ」佐野母が小さく声を漏らす。


「彼はそれこそ、中学の友人が誰も居なくてもその高校を選びました。その理由を尋ねたことは?」

「い、いえ……私としてはあの子が自由に決めることだと思っていましたし。ただ頑張ってることは、知っていました」

「そうですね。彼はまるで、自分が希望してその学校に行きたいと言っているように振る舞った。でも本当は違います。彼自身のためではなく、あなた方ご両親のためにそうしたんですよ」

「えっ……」


 佐野母が眉を上げる。いつの間にか加藤も、恋鐘の独壇場に耳を傾けるだけになっていた。


「彼が中学時代に良い子を演じていたのは、あなた方の負担を減らすためです。もっと言えば、離婚危機にある両親のために自分が問題を起こさないようにしていた。ずっと気を張って生きていた。受験についても、少しでも明るい話題を提供しようとしたんでしょう。あるいは高レベルの学校に受かるという仮初めの目標に没頭することで現実を忘れたかったからか」


 愕然としている佐野母は、口を半開きにしたまま固まっていた。


「しかし彼の思惑をあなた方は気づかなかった。彼がどうしようと、あなた方の仲が良くなるわけではない。むしろ日に日に悪化していく。彼が高校入学から間もなく引きこもりになったのは、自分の努力が無駄になったことの徒労感に苛まれたからです。そして、自分が両親の不仲で振り回されていることに対する憤りを覚えた」


「ま、待って、恋鐘さん」黙っていた加藤が口を挟む。


「分からなくはないけど、ご両親の離婚問題が原因だと決めつけるには弱い気がする」

「もちろん、根拠はこれだけじゃない」


 恋鐘は当然といった感じで反応すると、細い指を二つあげる。


「まず一つ。彼はバイトに興味を持っていた。これはご存じでしたか?」


 問われた佐野母はゆるゆると首を振る。もはや言葉を出す気力もないという感じだ。


「彼はお金が欲しいから、という理由で働く意思がありました。まだ高校に通っていた時期に考えていたことのようですが、現在もお金を稼ぐことには興味がある様子でした。通常、引きこもりの人間は不安障害や鬱症状があり社会と接することを嫌がりますが、彼はまだ意欲的な部分を抱えている。これが引っかかりました。これは前向きな精神状態だから、ではありません。逃避の一種ではないかと私は考えました」


 恋鐘は一拍置く。それから周囲を見回して続けた。


「社会との繋がりを持たない子どもは普通、親にお金を無心するものです。ご自宅は決してお金に困っている様子ではないから、無心への罪悪感も薄いでしょう。ですが、これまで洋平君がお金を欲しがった経験はないのではないですか?」

「……っ、その通りです。毎月のお小遣いでやりくりはできているようでしたので、特にあげたりは。だからお金が欲しいなんて一言もなくて」

「正しくは、欲しいものがあっても我慢していた、自分で何とかしようとした、と考えられます。先にお話した通り、洋平君はこれまであなた方に気を遣って生きてきた。手がかからない子だと母親に評されるくらいに」


 そのとき佐野母の目元が歪むのを、緑栄ははっきりと目にした。


「更に言えば、自立したい考えがあったのでしょう。あなた方に頼らなければいけない立場であることに嫌気が差していた。気を遣わないで生きていきたかった。けれど未成年かつ親元を離れたことのない彼では、実行する勇気までは持てなかった」

「だから、引きこもった……」


 加藤さんが呟く。どこか納得したような表情を浮かべていた。


「そしてもう一つ。彼と話していたとき、私はご両親への感情を聞いてみました。結果、父親への反感はそこまでではなく、母親への当たりが強かった。確かにあなたの方が彼に接する時間は多く、何かと強く言わなければいけない場面もあるでしょう。一見すると理解できそうですが、よく考えればおかしい。彼の反感の対象は両親であるべきなんです。父親だけを例外とする理由はない。だから私は考えました。彼の中で母親に対する憎しみが増す原因があったのだろう、と。それは幼少期の出来事に起因している。彼はおそらく、

「え……?」


 戸惑いの声を出したのは緑栄だった。


「出て行く、んですか? お母さんの方が?」


 両親が離婚してしまうにしても、洋平少年はどちらかに付いていくことになる。そしてそのどちらかは、熱心に世話をして労っている母親の方になるはずだ。そもそも再婚した夫婦だと聞いているが、母親の連れ子だったはずではないか。


「彼は父親の連れ子だよ」


 ちゃんと資料を読んでおけ――そう言いたげなジト目を向けて、恋鐘が答える。


「彼がまだ幼少期の頃、父親は彼の実の母親と離婚した。その後に佐野さんと再婚された。血縁関係を考えれば、彼は父親に付いていくことになる。彼自身もそうなることを前もって勘づいている。ですから、佐野さんが彼に尽くせば尽くすほどに憎悪に近い感情を持ったんです。さっさと解決して逃げるつもりなんだな、と」


「そんな……!」佐野母が勢いよく立ち上がった。


「私はそんなつもりは微塵もありません! あの子のことと離婚は関係ないんです……! 血は繋がっていなくてもあの子は私の息子です! 息子が辛いときに助けようとするのは当たり前でしょう!?」

「彼にとってはそれが逆効果だったんですよ。あなたが早く彼を復帰させようとすることを、彼はさっさと面倒事を片付けて逃げるためと解釈してしまった。冷静に考えれば放り出して逃げられるわけですから、見当違いもいいところです。しかし一度母親が居なくなるという経験を経て、彼の疑心暗鬼に拍車がかかってしまっている。その歪んだ見方を矯正するのは我々の役割ですが、つまり、彼の心を縛り付けているのは過去の体験からくる不安と、自分を振り回す二人への憤りと、また捨てられることへの恐怖。これらが合わさった結果の状況であると踏んで、離婚問題が根本にあるのだと判断しました」


 恋鐘の長い講釈が終わると、静寂が流れる。

 破ったのは、佐野母の泣き声だった。彼女はボロボロと涙をこぼしている。


「そんな、そんな……私たちがずっと、あの子を苦しめて……私は、なんてことを……」

「佐野さん。あなたは、自分を責めるべきではない」


 悲嘆する佐野母に、恋鐘が毅然と告げる。


「確かに原因は離婚問題にあるでしょう。そのことで彼が不安定になっていたのも事実です。つまり、彼の訴えに気づかなかったくらい、あなた達の心には余裕がなかった。どうにかできなかったのか、気づいてあげられなかったのかと自分を責めることは簡単ですが、専門家からすれば無理だったと言わざるを得ない。むしろあなたはよくやっていた。ご主人との軋轢や不和があっても、それを隠して洋平少年に寄り添ってきた。母親として、尊敬できる姿です」


 佐野母は静かに涙を流す。その隣に加藤さんがそっと座り、背中をなで始める。彼女の目にも涙が浮かんでいた。


「ですがこのままではいけません。苦痛を秘めたまま誰かのために時間を費やせば、いずれあなたの方が折れてしまう。他者を、専門家を頼ってください。今までのこと、これからのことを相談してください。理解者がいるということが、あなたの支えになる」

「そうですよ……佐野さん」


 背中をなで続ける加藤さんが泣き笑いする。


「私でよければいくらでもお話を聞きます。相談に乗ります。私もバツイチですから、色々と苦労話にも付き合えます。私が、ついていますから」


 手で顔を覆った佐野母が、嗚咽を漏らす。けれど、その合間にこくりこくりと、小さな頷きが入る。


「私は……私は、あの子に……謝りたい。こんな母親で、ごめんね、って」


 加藤が佐野母を抱きしめる。


「でも、絶対に、絶対に、見放したりしない……私はずっと、あの子の母親でいたい……居たいんです……」

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