第10話

 小綺麗な診察室では、一人の少年が椅子に座っている。隣では恋鐘がVR用のヘッドセットをセッティングしていた。緑栄は彼女の補助役として、VR映像とヘッドセットとの同期やら記録準備などを進めている。

 ちらと洋平少年を盗み見る。彼は緊張した面持ちで待っているが、引きこもっていた当初よりも血色は良い。目の下の隈は薄くなり、短く切り揃えた髪も清潔感がある。だいぶ体調が改善しているようだが、そもそもこうして自宅から外出できていることが大きく前進していることの証拠だった。


 それでも彼はまだ、学校に復帰するには到っていない。引きこもりになる原因に学校のことはあまり関係なかったとはいえ、不安障害を抱えてしまっていては満足な人付き合いもできない。

 これから洋平少年は仮想認知療法を進めながら、どういう風に社会復帰していくのかをカウンセラーの加藤さんと話し合い、リハビリしていくことになる。


「さて、準備はできた」


 恋鐘が手渡したヘッドセットを、洋平少年が装着する。恋鐘の頷きに合わせて、緑栄が映像を再生する。

 彼が見ている映像は緑栄が持ってきたノートPCでも再生される。一人称視点で映し出される映像は、何の変哲もないマンションの一室――と言うには、あまりにも小綺麗すぎた。物がほとんどなく、まるで作られたばかりの様子だ。

 当然ながら、映像は視点の主に合わせて勝手に動く。視点の主、ここではカメラを装着した人間は部屋を行ったり来たりする。あるいは廊下に置かれたダンボールを持つ腕が映ったり、それを開けて中にあった服をクローゼットに映す光景が流れていく。


「あの、これは……?」

「新居に引っ越したときの映像だよ」


 洋平少年の問いに恋鐘が答える。その返答に彼はピンと来ていないらしい。いつも彼女の言葉は少し足りない。


「どうしてこの仮想現実を見せられてるのか、ってことを聞いているんだと思いますよ」


 助け船を出すと「ああ」と恋鐘が納得したように頷いた。彼が気づいてなかったことに気づいていなかったのだろう。

 恋鐘は咳払いして話し始める。


「先にも話した通り、君は自分の世界に不満を募らせている。自分ではどうにもできない現実が、自分の努力が報われないことが許せない。その静かな怒りが、君自身も変えてしまった」


 映像は続く。物が増えだして、少しずつだが部屋に生活感が出てくる。


「君はきっと、自分はまだ子どもだから親に縛られるしかない。決定権はない。そう思い込んでいる。そして社会とは、自宅から外の世界とは、自分の力だけではどうにもできないという漠然とした不安を抱いている。ある意味では正しいが、しかし思い込みすぎということもある。君はまだ未成年だけど、もう一人で生きていく力を持っているんだ」


 洋平少年は無言で映像を見続けている。しかし恋鐘の言葉をしっかりと聞いてはいるようだ。


「人は経験から物事を計る。あのときはこうだったからとか、このときは何とかなったとか、そういう経験値が溜まっていけば恐怖を感じていたことも耐えられるようになる。暴露療法と言って、経験値を少しずつ溜めて自身の不安障害を乗り越える方法があるけれど、ようは慣れを意図的に起こすと言える。飛行機が怖い人間も、フライトを重ねれば搭乗前に怯えることもなくなる。ただ暴露療法は、人によっては近づくことすら多大な負担がかかることもあるし、暴露が難しい場所や場面もある。仮想認知療法は、そうした問題を仮想現実の力で解消する役割がある」


 部屋はどんどんと人が住む空間に生まれ変わっていく。テレビの配線をセッティングして、カーテンをつけて、台所に食器を並べていく。1LDKくらいの部屋は、もう誰かの生活空間になっていた。


「君の不安の種は、家庭の不和に始まる生活の不安定さだ。一度それを経験しているからこそ、過敏に反応し過剰なストレスから精神の不調をきたした。だけど君は、親の庇護下にあった頃の君とは違う。十六歳になった君はまだ未成年だけれど、親元を離れることもできる。そして一人暮らしをするということは、君が考えているほどの一大イベントではないよ」


 映像は真っ青な空を映し出す。

 視点の主が窓を開け放っていた。そこから街並みが映し出される。窓の外はすぐ川が通っていた。水量はほとんどなく水草がゆらゆらと揺れている。川の周囲には青々とした木々が並んでいるが、それは桜の木らしく、春頃にはとても綺麗な桜並木が拝めるらしい。

 視点はゆったり流れる雲を追い掛けたり、遠くの方に見えるビルや家屋を眺めたりする。ほとんど何もしない。蝉の鳴き声がじわじわと続く。


 緑栄は懐かしい気持ちでその映像を眺めていた。実はこの視点の主、つまり頭部につけたカメラで引っ越しの様子を撮影していた人物は、緑栄本人だった。

 なぜそんなことになったかというと、恋鐘がそう指示したからに他ならない。彼女は引っ越しした人間が部屋を整えていく様子を撮影してこいと命じてきた。仕方なく緑栄は、大学の友人や先輩後輩のツテを使って、近日引っ越しをする人を何とか捕まえた。そして引っ越し作業を手伝うという条件で、引っ越し中の様子を撮影させてもらったのだ。


(あのときは大変だったなぁ)


 真夏の引っ越しはクーラーもろくに使えず結構な重労働だった。こうして窓を開け放ったまま止まっているのは埃を逃がすためでもあるが、それより疲れてしまってぼんやりしているというのが正直な理由だ。

 この様子は本来必要ない。編集で消してしまおうとしたのだが、恋鐘から残すように言われてそのままにしている。

 恋鐘がどういう意図だったのかわからないが、しかし洋平少年はつまらなさそうにする様子はなく、むしろ釘付けになっていた。


「仮想現実を使えば、君が一人で生活していくためのシミュレーションをいくらでも用意することができる。本物ではないかもしれないけれど、一度目で見ているのとそうでないのとでは雲泥の差がある。学校に通うというシミュレーションでも、別の場所で生きるというシミュレーションも用意できる。そうして君はんだ。その経験があれば、第一歩を踏み出す勇気も負担も、いくらか少なくすることができる。こんなものかと思えれば、不安だって小さくなる。何とかなるかも、という思いが生まれれば、君の心はいつもより強く保つことが出来るさ」


 そのとき、恋鐘の説明を聞いていた洋平少年が、膝に置いていた手を拳にした。


「…………でも、俺が居なくなったら、親父は一人になる」


 か細く、けれどはっきりと彼の考えが込められた声だった。

 彼は両親の離婚に振り回されたことで引きこもりになった。いわば憎い相手だ。それでも心の底では、ついていくことになる父親のことを案じる息子の本音が存在している。

 恋鐘は目を細めた。微笑ましさを感じているような表情だった。

 対する緑栄は、口の中に苦いものを感じつつも、洋平少年のことを眩しく思った。


「君は君の人生を生きる権利がある。君がしたいように生きていい。家を出ることも、父親と暮らし続けることも、どちらでも好きなほうを選べる。ただ覚えておいて欲しいのは、できないことなんてないということ。別の道は常にある。君はもうそれを選べる年になっている。ようは保険だよ。それがあると思えば、随分と気が楽だろう?」


 彼女の言葉に、ヘッドセットをつけたままの洋平少年は、こくりと頷く。


「あの人と……会ったりすることも。俺が一人暮らしして、たまに部屋で飯を食うとかも、できますか?」

「もちろん」


 恋鐘の答えに、彼は安堵の息を吐いていた。


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