第8話

「まるで自分が海辺を歩いているように見えるだろう? そういう風に作ってある」


 VRの特徴はまさにこの固定視点にある。一人称視点かつ視界を映像のみで囲うことによって、まるでその場にいるような錯覚を抱かせることができる。この特徴から、VR映像はいまやゲームだけでなくアミューズメント施設や旅行の宣伝にも使われるようになってきていた。

 ただ、洋平少年が聞きたいのはそういうことではないだろう。


「そうじゃねぇよ……なんでここなんだ」


 なにか気づいているような物言いだ。


「やっぱり覚えていたようだね」


 恋鐘が少し目を細める。口元には笑みがあった。


「その海岸は君が昔、家族と一緒に旅行に行った場所だよ」


 話の途中で、映像内に小さな手が映った。それは視点の主の手だ。

 本来は撮影者である緑栄の手なのだが、映像を加工して、小学校程度の子どもの手に見えるよう作り替えている。

 小さい手の先には、また別の手があった。大きくて細い手と手を繋ぎ、砂浜を歩いて行く。


「映像は、君がと一緒に砂浜を歩いているときの記憶さ」

「は? そんな、わけが……」


 戸惑いの声が尻すぼみに消えていく。ドア越しでも、洋平少年が動揺していることが感じ取れた。

 映像は単なる作り物で、衝撃的でも感動的でも情緒的でもない。なのに、恋鐘が設計したこの映像が、彼の中の何かを揺り動かしている。

 映像はようやく人の顔を映した。といっても視点の主ではなく、手を繋いでいる相手の顔だ。

 それは、洋平少年の母親の顔だった。いや、今よりもだいぶ若い。

 本来写っているのは恋鐘なのだが、彼女の指示によってここも母親の顔に加工している。若くなっているのも指示通りだ。

 つまり恋鐘は、洋平少年がまだ小さい頃の家族の思い出を、映像として蘇らせた。


「家族になりたての頃、君はとても不安だった。でもとても幸せだった。その幸せを君は、ずっと守っていきたかった」


 恋鐘が独白するように語る。

 洋平少年の反応はない。映像に集中しているのか、もしくは反応したくないのか。


「でもいつしか、自分にはどうすることもできないところで綻びが生じてしまった。君は必死になって良い子を演じた。二人を心配させまいと良好な人間関係を築き、成績も上げてランクが上の高校に行った。でも、そうした努力は結局無駄になった」


 たださざ波の音が、映像の向こうから聞こえてくる。


「君は無力感に苛まれた。同時に憤りと反感を覚えた。何もかもがどうでもよくなって、引きこもった――


 恋鐘がゆっくりと手を伸ばす。その掌は、無機質な木製のドアにぴたりと付けられた。


「君は、本当は気づいているはずだ。なぜこの部屋から出られないのか。。今見ている映像が二度と手に入らないことが確定してしまう。守りたかった幸せが、いや、自分の居場所が失われてしまう。その恐怖に足が竦んでいるだけだということを」


 彼女の手がゆっくりとドアをさする。まるで誰かの背中をさすっているように。


「今の私の言葉は理解できるだろう。なぜなら、映像を見ている君の胸にあるのは、懐かしさでも暖かさでも、ましてや寂しさでもない。この幸せが消えてしまうことの絶望感と焦りだ。違うかな?」


 微かな音がした。ドアの向こうから、誰かの声がする。


「何も見ず、何も聞こうとせず、部屋に閉じこもっていれば安寧は守られる。皮肉なことにそれが現実の問題の時間稼ぎにもなっている。だから君は無自覚を装い、自分の中で嘘の理由をでっちあげ、いつか誰かが解決することを願った」

「――――るせぇ」

「だけど洋平君。どうしようもないことだってある。いつまでもその部屋に閉じこもって、また昔のような関係に戻ることを祈っていても、無駄なんだよ」

「っるせぇ!」


 ドン、と甲高い音がした。ドアに何かがぶつかけられたようだ。


「あんんたに何が分かるんだ……! 俺がどれだけ気を遣って過ごしてきたと思ってる! 家族を大事にするってそんなおかしいことか? なぁ? 俺が頑張ってそうしてきたのに、あの二人はそんな努力すらしない……最悪だろ。もう最悪だ。だったらこっちだって好きに生きて、何が悪い」


 叫ぶ声は段々と弱くなる。


「親といえども、他人だよ」


 恋鐘はそう言った。突き放すでもなく、優しく諭すでもなく。

 ただ事実を述べるように。


「たとえ血の繋がった親でも、歳月を重ねた関係でも、何もわからないことだってある。君の気持ちに気づかないことも、ないがしろにすることもある。そして、君には二人の未来を決めることはできない。二人の未来を決めるのは、二人にしかできないことだ。同時に、君が君の意思で二人を縛ることはできる。それが君がやっていることだ」

「……」

「それは君に与えられた自由であり権利だから、好きにしたらいいと私は思う。ただできることが一つだけではないことを、今日君に教えに来た。君が二人から自由になる道もあるんだ」

「……自由?」

「独り立ちする、ということだよ」


 そこで一息吸った恋鐘は、静かに告げる。「さて、


「君が引きこもった理由。それはご両親への反抗だ。安全圏の防衛とも言えるかもしれないが、少なくとも君はこう考えていたはずだよ。これまで他人の意思で引っかき回されてきた人生なら、今度はこっちが引っかき回してもいいはずだ、と。君は学校が、友人関係が嫌になったんじゃない。ご両親を困らせるために、そして、かつて望んだ幸せの延命のために、引きこもったんだ」


 いつの間にか海辺の映像は終わっていて、真っ暗な画面が映っていた。それはまるで、洋平少年の心境を物語っているように思えた。


「そうすること自体、君がそうしたいのなら私は止めない。だけどさっきも言った通り、他人の未来は他人のもので、君のものではない。縛ることはできても、いずれ破綻する。無意味なんだ。この先に幸せはない」

「…………俺、は」

「逆に言えば、君の未来を君のご両親が決めることはできない。君の未来は君自身のものだ。決定権は君にある。私はその手伝いができる。なぜなら、私の仕事はクライエント自身の考え方、感じ方を変えることでその人の役に立つことだ。他人を変えることは容易じゃない。でも、人は。君は自分の手で、君自身を幸せにすることができる。他人に、両親に与えられる以外の幸せがある」


 物音がした。ドアの向こうから気配がした。


「ここから出てきてくれるのであれば、君の胸のつかえを洗い出し、そして君自身が一歩を踏み出せる勇気を与えよう。仮想認知療法はそのための手段だ。そして人の心の変化は身体に現れる。君が引きこもることは二度とない」


 ガラリと音を立てて引き戸が引かれた。

 現れたのはスウェット姿の少年だ。髪の毛がぼさぼさで、目の下の隈が酷い。頬もこけていて、不健康なほどに肌が白い。

 それでも緑栄は気づいた。彼の目元に、微かに涙の通った跡があることを。


「…………本当、すか」


 掠れた声だった。見下ろされる形になった恋鐘は、首肯する。


「俺は、もう、悩まなくて、いいんですか」

「もちろん。君は君自身が抱えていた憤りと切望に気づいた。なら解決の糸口はすぐそこだ」


 じっと彼女を見下ろす洋平少年は、深い深いため息を吐く。

 それからスウェットの袖で自分の目元を拭い、言った。


「よろしく、お願い、します」


***


 階段を下りると、すぐそこには佐野母と加藤さんが立っていた。


「む、息子は。洋平はどうなりましたか?」

「今日のところは仮想認知療法のお試しです。効果が出てくるのはまだ先のことですし、彼自身の努力も関わってきます。ですが、今後の認知療法については継続して受けてくれると約束してくれましたよ」


 佐野母はほっと胸を撫で下ろす。ともすればへたりこみそうなほど安堵していた。

 しかし、本当は今日限りで中断していたかもしれないというのに、恋鐘はいつもと変わらぬ笑みを携えている。図々しいというか鉄面皮というか、メンタルが凄まじい人だ。


「ところで佐野さん。私はあなたにもお話があります」

「え? あ、ああ、そうですか。ではこちらへ」


 油断しきっていた佐野母は警戒することなく応接室に招いた。

 その弛緩している彼女へ、ドアを閉めた恋鐘が冷淡に告げる。


「あなたもカウンセリングを受けるべきだ」

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