第7話

「当時の年齢だとこれくらいの背丈だろうな」

「あの、恋鐘さん? 立ちづらいんですけど」

「君はその格好で歩きなさい。そうしながら私を撮影すること」

「なんで?」

「いいから」


 容赦なく引っ張られ緑栄は転びそうになるも、なんとか堪える。しかしこんな格好で満足に歩けるわけがない。スクワットの途中で止まったような状態だから非常に歩きづらい。恋鐘が歩くペースを合わせてくれているから何とか転ばずにいられるだけだ。


(ぐぅ、き、きっつ)


 膝を折った状態はかなり負担がかかる。この暑い日差しの中でこの状態を維持するのは苦行以外のなにものでもない。

 さすがに真意を問い質そうと緑栄はカメラを向けながら呼ぶ。「こ、恋鐘さん」

 しかし、その後の言葉は出なかった。

 振り返った恋鐘が、とても綺麗に微笑んでいたから。

 夏の陽光を受けた彼女の横顔はきらきらと輝いていて、慈しむような眼差しを送ってくる。

 これまでの彼女の怜悧さ、冷たいほどの理性は鳴りを潜め、女性としての暖かさを携えている。

 一言で言うと、まるで、慈母のようだった。

 そんな表情ができるだなんて思ってもいなかった緑栄は、完全に意表を突かれていた。


「あ、こら」


 呆然とするあまり緑栄は立ち止まってしまっていた。つられた恋鐘がよろめいて砂浜に手をつく。


「す、すみません」


 緑栄はぐいと彼女を引っ張る。起き上がった恋鐘は膝の砂を払いながら唇を尖らせた。


「ぼうっとするな。こんな暑い日に長々と撮影できないんだからな? 熱中症になる前に終わらせたいんだ」


 咎める恋鐘の雰囲気はもう元通りだ。さっきの表情は見間違いだったのだろうか?

 少なくとも、あの表情が自分への好意から生じたものではないことくらいは分かる。


「結局、この撮影って何のためにするんですか?」


 立ち止まった隙に聞いてみる。恋鐘は腰に手を当ててため息を吐いた。


「後で説明すると言っているのに君は待てないのか、ほんと。それに一から教えてもらおうとするんじゃない。君は色々と情報を得ているのだからすぐに辿り着けるだろ」

「恋鐘さんの理解力が万人共通だと思わないでください……」


 段々と分かってきた。この龍造寺恋鐘という女性の頭脳は人一倍に優れている。そんな自分を基準に物事を考えてしまっているから、他人も同じ水準にあると判断してしまう。結果的に説明不足に陥っているわけだ。


「むぅ。先生だったらこれくらいわかるんだけどな」


 どこか不満げな恋鐘だったが、諦めたように一息ついて麦わら帽子をくいと指で上げた。いちいち動作が格好良い。清楚な格好とまるで似合わないが。


「この動画は洋平君の心を矯正する、その一歩前の段階として作っている」

「一歩手前? 治すわけではなく?」

「彼の精神的負担、抑圧、それに伴う社交不安障害の治療方針は既に考えてある。けれどその効果をしっかりと浸透させるには彼自身が自分の状態に、いや、。なぜ自分が引きこもっているのか、をね」


 すぐにはしっくりこなかった緑栄だが、そこで思い返すことがあった。

 恋鐘が話していた、リストカットをしていた少女。その子は本当の気持ちから目を逸らし、偽りの理由で自分を正当化していた。

 洋平少年にもそういう事情が、隠された本音があるのだろうか。

 緑栄の気づきを悟ったように、恋鐘が告げる。


「彼はな――」


 その説明に緑栄は口をポカンと開ける。

 恋鐘の考察、いや、推理とも呼ぶべき話は、緑栄がまるで気づかなかった背景を浮き彫りにしていた。

 しかし冷静に考え直せば不思議なくらいストンと腑に落ちる。緑栄が何も感じず見逃していた些細な光景や会話が、全てある事実に繋がっていた。

 そして龍造寺恋鐘は、その全てを見逃していなかった。


「じゃあ洋平君に、その本音を気づかせてあげると」


「おそらくは薄々気づいていると思う」恋鐘は遠くを眺めながら答える。


「あの年頃の子の心はまだ成長段階にある。自分がそうであると信じたくない、否定したい部分もあるんだろう。それで目を逸らし続けているのが今の状態だ。普通は、もう少し年を経れば俯瞰した捉え方を身につけられる。それが大人になるということだ。まぁ私はまるで覚えてないけど」


 最後の言葉に引っかかりを覚える。しかし聞く前に恋鐘が続ける。


「でも、彼にはあまり時間がなさそうだ。拗れる前に処置をしておきたい」


 緑栄は手の中のビデオカメラを眺める。


「ここに収録された映像で、本当の気持ちに気づいてくれるんでしょうか」

「十中八九、彼には響く。そこで本心に気づいてくれれば、後は不安の元を取り除くだけでいい」


 どうやってだろう、と疑問が生じる。さっきの話だと、不安の元というのは洋平少年ではどうにもできないことのように思えた。

 そこで恋鐘は緑栄に聞いた。「時に緑栄」


「君の知り合いで、近々引っ越しをする人はいるか? 荷物を部屋に搬入する光景を撮影してほしいんだが」


 また突拍子もないことを告げられた。やっぱり説明はまるでない。


「いなかったら短期バイトでも何でもいいから、家主に許可を得て撮影してきてほしい。わかった?」


 慈母みたいな笑顔とはまるで真逆の凄みのある笑みで、恋鐘はそう迫るのだった。


***


 再び佐野家に訪れたのは、緑栄と恋鐘が撮影に行った日から一週間後だった。

 緑栄は今、恋鐘と共に薄暗がりの廊下で正座している。目の前には固く閉ざされた木製のドア。手元にはノートPCを置いて、専用のソフトを立ち上げている。


「こちらは準備できたよ。ヘッドセットを被ったら言ってくれ」


 恋鐘がドアの向こうに話しかける。返事はないが、何やらごそごそと動く音は聞こえた。

 緑栄は聞こえないようにそっと息を吐く。こうして引きこもり少年というクライエントの前に実際に(ドア越しではあるけれど)出て行くなんて思っていなかったから、妙に緊張した。

 クライエントと話し合うのは恋鐘の役割だが、仮想認知療法を実施するときはPC操作に気を取られてしまうとのことで、アシスタントとして緑栄が付くことになった。

 今回は洋平少年に一度目の仮想認知療法を受けてもらう。恋鐘曰くそれは療法一歩手前のを与える作業ということだが、洋平少年に細かいことは伝えていない。ただVR映像を一度体験して、続けたいと思えるか試してみることになっている。

 つまり、続けたいと思わなければここでおしまい、ということだ。


 本当に大丈夫だろうか。クライエントと勝手に約束をしていることは佐野母や加藤には伝えていない。恋鐘の独断だという。結果的に失敗したら凄く批難されるだろう。

 緑栄は不安で仕方がなかった。映像は何の変哲もないものだ。恋鐘の言うとおりに加工してみたものの、見る人の心を揺さぶるような感動的なものではない。むしろその逆と言える内容になっている。

 ちらと恋鐘の横顔を盗み見る。失敗するなんて微塵も考えていないだろう。

 緑栄がぎゅっと拳を握りしめると、ドアの向こうから小さな声が聞こえた。「……つけた」

 声が小さい上に、どこか眠たげな気配がある。昼夜逆転生活を送っているので起き抜けなのかもしれない。その状態でいいと思われるくらいには軽視されている。

 それはそうだろう、一回映像を見れば追い払えるのだから、扱いだってぞんざいにもなる。


「じゃあ映像を流すから、静かに見ていてほしい。緑栄」

「あ、はい」


 緑栄は事前に指示されていたとおりにPCを操作する。

 PCは洋平少年がつけているヘッドマウントディスプレイと同期していて、こちらで映像の開始や中断などを操作できる。クライエントが自分で映像を止めようとしたり、または過剰に反応するなど不測の事態が起こったときのため、作業者側で管理しておく必要があるからだった。

 操作して映像を開始させる。画面には、今まさに洋平少年が見ているものと同じ映像が映し出されている。

 陽光降り注ぐ海辺を、誰かが歩いている。俯瞰した光景ではなく、誰かの視界を映像化しているだけなので、一体どんな人間が歩いているのか視聴者側からは見ることができない。

 誰の姿も映らず、遠くから波の音や人々の騒ぐ声が聞こえてくるだけ。


「なんだよ、これ」


 ドアの向こうから、微かに戸惑った声が漏れる。


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