仮想認知療法について③

「具体例を挙げよう。リストカットを繰り返す少女がいた。彼女は血を眺めると安心する、暖かくて生きている感じがすると説明し、いけないことだとわかっていても発作的に傷を作ってしまう子だった」


 うっ、と緑栄は心の中で呻く。想像すると生々しい。覚悟はしていたが、やはりそういう話は避けて通れないようだ。


「このケースで特徴的なのは、彼女がそれを誰かに見せることなくひた隠しにして生きていたことだ。リストカットを繰り返す心理状況は、他者への依存から相手の意識を自分に向けたい、あるいは支配したいという歪んだ執着から行われるもので、見せびらかす傾向がある。しかし彼女はそうではなく、他人にも家族にも見られないようにリストバンドで隠し続けていた。さて緑栄、彼女はなぜ自分を傷つけると思う?」


 薄々来るんじゃないかと悪い予感があったが、やっぱりだった。もうこうなってくると諦めるしかない。

 ただ今回は、質問されたこと自体を疑問に思う。


「それはだって、さっき安心するとか、生きている感じがするって言ってましたけど」

「質問した意図をよく読み取ること。簡単にわかることを聞くはずがないだろう?」


 緑栄は渋面になる。引っ掛け問題か。きっと彼女が作る試験問題はめちゃくちゃ難易度が高くて意地悪に違いない。


「まず認知の誤りがある。彼女はそう思い込んでいるに過ぎない。もっと言うと、そういう風に捉えることで自分の中の罪悪感を軽くし、真実を自分の都合の良いようにねじ曲げている」


 よくわからない説明だった。なぜ自分を傷つける理由を偽る必要があるのか。


「聞き直そう。彼女はどうして自分を傷つけてまで安心感を、生きている感触を得ようとしていたと思う?」

「……そうしないと辛いことに押しつぶされそうだったから、とかでしょうか」


 人は過度なストレスを抱えたとき、直視できず様々なことに逃避してしまうものだ。それは緑栄にも身に覚えがあった。


「そう、現実の世界は彼女にとって辛苦でしかなかった。彼女の言葉を借りるなら


 もったいぶった言い方をされても緑栄にはやはり何も見えてこない。

 悩んでいる間に、恋鐘は更に問いかける。


緑栄つかさ。生きているということはどういう状態を指す?」


 まるで禅問答のような質問に、緑栄は固まった。更にわけがわからない。

 部屋が無言になる中、緑栄は問いではなく、恋鐘が質問してきた意図へと思考を向ける。手がかりがまったくないのであれば、彼女の考えから逆算するしかない。


「自我があるとか生命活動していること、みたいな答えじゃないんですよね」


 予防線を張ると、恋鐘は存外素直に頷く。


「生理学的あるいは生物学的な問いかけではないからね」


 その返事がヒントになって、ようやく彼女が何を求めているのかが掴めた。


「生きていないこと、それはつまり、人間でもない石ころみたいになってる状態、でしょうか?」

 

 生きているという言葉にはという前提が付く。

 自分たちはあくまで人間としての生をまっとうしている。逆を言えば、人間としての生をまっとうできていないことが、少女の言う生きていないということになるのではないかと緑栄は考えた。

 「その通り」恋鐘がタイピングの手を止め、椅子にもたれかかりながら答える。


「彼女は普段の自分をと同じ存在として据えていた」


 すぐには飲み込めなかった。自分を置物のように考えるなんて、どういう心理状態なんだろうか。

 「普通ではなかったということだよ」まるで緑栄の心を読んだかのように、恋鐘が付け足す。


「プライバシーに関わるので詳細は伏せるが、彼女は抑圧された人生を送ってきた。自分の意思で行動しているのに、自分の判断だとはっきり言えないくらい、雁字搦めになっていた」


 身体の芯が冷たくなる。

 雁字搦め。そう例えられてようやく、緑栄は我がことのように想像することができた。

 人を縛り付けることができる存在なんて、相当に身近な人間しかできないことも、知っている。


「その子の親は、いわゆる毒親ですか」

「言ったでしょ、伏せるって」


 恋鐘は飄々と答える。揺らぎの無い瞳からは、粘っても無駄だという意思の強さを感じた。


「話を戻すと、彼女は人生のすべてが、自分の意思で行ったことだと考えられなくなっていた。だから自分を傷つけた。それが唯一、自分の意思で行える行動だった」

「唯一って。もっとこう、他にもあるでしょ? いくら窮屈な生活だからって、監禁されているわけじゃあるまいし」

「もちろん、彼女は普通に学校に通って遊ぶこともできた。でも彼女は自分に自由はないと思い込んでいた。寝ることも食べることも何もかも支配されている感覚が抜けなかった。自分を傷つけることだけが唯一の自由であり、抵抗の手段だったんだよ」

「抵抗? 自分を傷つけることが?」

「君は人を殴れるか?」


 唐突な問いに緑栄はびっくりして、数秒後にぶんぶんと首を振る。


「そう、誰もが攻撃的になれるわけじゃない。女性は特に暴力には人一倍敏感になる。憎悪や憤りを自分へと向ける方がまだ楽だった。ようは自分への八つ当たりに近い」


 物扱いされてきたからこそ自分を傷つけることに躊躇いはなかった――恋鐘は静かにそう付け加える。


「それは意趣返しでもある。自分を物のように扱ってきた誰かへの反逆。私はという、生殺与奪を相手に握らせたくない反抗心。相手を脅迫しているような優越感。そんな意思がまだ自分の中にあることを確認できる安心感。それらが混ぜ合わさった結果の行動だった」


 緑栄は言葉が出なかった。

 つまりその女性は、自分を傷つけることで他人を攻撃していたというのか。

 いつでも自殺してやれるんだという、相手への呪いを自らに刻みつけていた。


「一方で、そうした暗い情念に真正面から向き合えるほど、彼女は強くなかった。後ろめたさ、罪悪感があった。だから自分の認知を歪め、血を見ることそのものが理由である、という偽りの答えをでっち上げて自分の心を守った。でなければ続けられなかったのだろうね」


 緑栄は掌を握る。そこで初めて、自分の手に汗が滲んでいたことに気づく。


「ここまでが彼女の嘘と真実の話。それが分かれば治療は始められる。まずは彼女の歪んだ認知を彼女自身にことから始める。なぜ自分が自分を傷つけたくなるのか。そのために、血を見たくなったときはどういう状況だったのかを記録させる」


 恋鐘は机に置いてあったノートを、緑栄に見せるように取り上げた。


「人は気づきがあれば学ぶことができる。たとえば真夏の道路で目眩がしたとき、それが熱中症の典型的な症状だと知っていればコンビニに逃げ込むなど対策ができる。でも何も知らなければ寝不足かと誤解して後に大きなダメージを受ける。彼女も、自分を傷つけたくなる衝動が起こるのはどんな場面だったかに気づけば、事前に回避策を取ったりあらかじめ身構えることができる。気づいていれば自分の心をコントロールしやすくなる。自分を客観視すれば冷静になれる。マインドフルネスというやつだ。この辺は良い参考書があるから読んでみるといい」


 恋鐘はノートの変わりに、近くに置いてあった分厚い書籍を取って緑栄の前に出す。

 緑栄は手を伸ばさなかった。それよりも聞きたいことがあった。「それで解決するんですか?」


「自分がどう気をつけたって、原因が取り除かれなかったらいつまでも自分を傷つけるんじゃないんですか」


 もしも自分を傷つける理由が、家族への恨みだとすれば。

 未成年である少女は環境を変えることなんてできやしない。一緒に暮らす以上は抗えないことだって出てくるはずで、恋鐘の言うことは綺麗事に聞こえる。


「君の指摘は正しい。彼女が本当に救われるとしたら、彼女を傷つける原因を取り除くしかない」


 恋鐘は双眸を細める。「でも」


「それは私たちの仕事じゃない。警察、あるいは行政や司法の仕事だ。もちろん私たちは医療従事者と共にそうした機関と連携を取って彼女の状況を変えるために動くが、私達がまず成すべきことは彼女の心の病を治すこと。現実を変える力は、無い」


 その言葉に自虐や悔恨の響きは無かった。ただ淡々と事実を述べているだけの、冷たい理性があった。

 なのに、彼女の瞳の奥には優しく強い光がある。


「私達は非力かもしれない。だけど私達は彼女の心を守ってあげることができる。これ以上傷つかないようにサポートすることができる。自分の手首を切るなんて馬鹿げた真似を止めさせることができる」

「でも、現実を変える力はないって」

「そうさ、彼女の環境は変えられない。だけど彼女のことはできる」


 緑栄は、あっ、と声を出す。

 心の中の現実。最初に恋鐘が言っていた話だ。

 そして、心の中の現実を変えれば、肉体も変わると説明していた。


「自分を傷つけることがある種のストレス発散で依存症になっているのなら、違う発散方法にシフトさせる。それがとても良い方法なんだと私が信じ込ませてあげることでね。私が遂行している仮想認知療法とは、そういう仕事だ」


 人の持つ心の現実を変え、その人を救う――そんな魔法みたいなことを、彼女はVR技術を使って実践しているという。


「その子に見せた仮想現実って、どういうものだったんですか?」


 続きが気になっていた緑栄は早口に聞いていた。

 本当に映像一つで少女を救えたとしたなら、それはどういう映像だったのか。VRの研究に携わってきた緑栄の好奇心は刺激されていた。

 「それはだな――」答えようとした恋鐘は、ふと気づいたように左腕の腕時計に目を落とした。


「残念、時間切れ。また明日と言いたいところだけど、君には早速手伝ってもらいたい案件がある。論より証拠とも言うし、言葉での説明よりも業務を通して実感してもらったほうが理解が早いだろう」


 そう言った恋鐘は立ち上がる。「さっき来られていたスクールカウンセラーの案件だよ」


「不登校の高校生の子ですよね。その子を仮想認知療法で学校に行かせるようにするわけですか」

「それが救済になるならね」


 含みのある言葉で返事をした恋鐘は、机の上に置かれていた本を数冊ほど手に取り、緑栄に差し出した。


「治療方針や映像の内容を決めるのは専門資格を持つ私の仕事だ。君は私の助手として、VR映像を作ったり患者に違和感を抱かせないような調整を行ったり、現実でサンプリングできないものをCGで再現してもらう。とはいえ、精神病治療に関して基礎知識があるに越したことはない。これらはおすすめだから読んでみるといいよ」


 目の前に出された書籍たちのタイトルはまさに医学書というもので、かなり分厚い。内容も容易に想像できた。

 父の書斎にあった本の数々と、同じ類なのだろう。


「あ、りがとう、ございます」


 緑栄は歯切れ悪く答えて受けとる。受けとった瞬間、ズシリとくる重さを感じた。

 ただ単に重いだけではないことを、緑栄は自覚していた。

 恋鐘は肩にかかった長い髪を払いのけると、つかつかと入口の方に向かった。玄関近くに設置されてあるハンガーラックからジャケットを取って羽織る。


「ひとまず今日の君の仕事はデスク回りの片付けだ。正式な仕事内容は明日以降に伝えるから」


 言いながら彼女は玄関で靴を吐く。緑栄は慌てて聞いた。「あの」


「どこか行かれるんですか」

「これから提携先のクリニックと打ち合わせがあるんだ。複数ハシゴするから帰ってくるのは遅くなる。君は定時になったら帰っていいよ」


 彼女は緑栄に向けて何かを投げた。慌ててキャッチすると、掌に鍵が収まっていた。


「戸締まりよろしく」

「え、でも」


 緑栄が食い下がろうとするも、彼女は無視して出て行ってしまった。

 ぽつんと残された緑栄は掌の上の鍵を見つめ、それからごちゃごちゃのデスクを確認する。

 初日の新人をほっぽり出していくなんて。剛胆なのか、それとも無計画なのか。乱雑なデスクからは後者の線が強そうに思えた。

 緑栄はこれからの三ヶ月を憂いながら、ため息を吐いた。

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