仮想認知療法について②

 緑栄がぽかんとしていると、恋鐘がやれやれと首を振る。


「また鈍い。頭で理解していても気持ちが追いついていかないのが人間というものだろう。例え健康に良いと分かっていても、自分の生活習慣を変えるには大きなエネルギーが必要になる。まして精神科にかかっている人たちが自らの考えや行動を変えていくのは本当に大変なことだ。根気がいるし、効果もパッと出づらいから途中で止めてしまう。だから精神病の治療には基本的に薬を用いるし、認知行動療法も薬の併用が基本だ。なぜか」


 また質問形式だ。そろそろ疲れてきたが、ジロリと睨みつけられたので緑栄は慌てて考える。


「その方が効果的だから?」

「なぜ効果がある?」


 ええー、と心の中で戸惑いつつ、緑栄はなんとか答えを探そうとした。

 なぜ効果があるのか。薬剤は基本的に人体の細胞に作用する。痛み止めなら痛みを発生させる機能を抑制する。

 では心の薬とは肉体のどんな機能に働きかけるのか。

 そこまで考えて、恋鐘の説明を思い出した。


「――不安や焦りを強制的に止めるから、ですか」


 恋鐘は言った。強い思い込みや妄想が肉体を蝕むと。ならその原因を止めてしまえば、肉体への影響だってなくなるはずだ。


「そうだ」


 恋鐘が頷く。緑栄は少しだけほっとする。


「ということは、薬を使って身体を安定させている間に、認知行動療法を行うというのが精神疾患の治療法になるわけですか」


 確かめるために聞いたのだが、予想に反して恋鐘は首を振る。「そういうわけでもない」


「薬だけで快方する人も大勢いる」

「――ん? あの、それだと認知行動療法はいらないことになりませんか」

「ならない」


 恋鐘が、何を言っているんだお前は、とでも言いたげな表情で否定した。

 せっかく整理されたと思ったのに、緑栄の頭はまた困惑に浸されつつあった。


「心は身体に影響を与え、逆もまた然りの密接な関係というのは分かったな? 医薬で脳内分泌物質を制御したり脳神経系の異常作用を抑えば、精神状態は安定する。ただそれは根本的な治癒ではなく、一時的な対処だ。血が出ているから止血したにすぎない。あとはその人自身の力で心が回復していくことを待つ」

「その人自身の力?」

「自己治癒力と言い換えてもいいだろう。人間の肉体はそもそも薬で治癒していることばかりじゃない。風邪がそうだ。発熱や咳といった身体の異常反応を抑える間に人間本来の免疫力で治す。心も同じだよ。心の自己治癒力で治していく。なにも医者は薬を一生飲み続ければいいだなんて考えていない。免疫で心が治るまで、生活を守るために与えるんだ」

「心の……自己治癒力」


 呟いた緑栄は、しっくりこない感触だった。懐疑的な気分ですらあった。

 身体の免疫は抗体というタンパク質であり、れっきとした物質だ。しかし心、つまり人の精神状態は、脳内分泌物と神経活動が作り出すだ。そんな脳内の働きを治そうとする力なんてあるのだろうか。

 パソコンを眺めていた恋鐘が、静かに視線を上げた。

 目と目が合う。

 深く澄んだ黒水晶に飲み込まれそうな気がしたとき、恋鐘の目尻が和らいだ。


「ない、と思っているのかな。君は」

「それは……」

 

 緑栄は、答えられなかった。なまじ理系の学問に身を置いている者として、心の免疫力なんていうスピリチュアルなワードを受け入れるのは抵抗感がある。恋鐘だって大月研のOBだったら、学術的に説明がつくことを重要視しないのだろうか。

 しかし恋鐘は「私はあると思っている」と、はっきりと告げた。


「なぜなら私は、立ち上がり一歩を踏み出せた人たちを、たくさん見ている。彼ら彼女らが時間と共に心を癒していったのは、人の心に免疫力が備わっていることの証左だよ。科学的に立証されているわけではないけれど、人はどんな心の傷からも立ち直ることができる。そう信じている」


 あれだけ論理的かつ科学的な思考をしていた恋鐘が、存在しているかどうかわからない力を信じていると力説している。

 詐欺に騙されている人を見ているようなざわつきと共に、声が聞こえた。


 ――お前には失望した。天宮の性は捨てて生きろ。支援もしない。


 彼女の言葉を信じられない根拠が、緑栄にはあった。緑栄自身の体験がそうだった。

 この胸を締め付ける苦痛は、懊悩は、もうずっと長いこと自分の心を蝕んでいる。

 時間が経っても離れていても、まるで色褪せることなく汚染し続ける。

 本当に心に免疫力があるのなら、とっくに治っているのではないのか。


「時間が経つだけで治るわけがない、と思います」


 気づけば緑栄は反論していた。

 恋鐘は、いわゆる生存バイアスが働いて成功例だけを基準に考えてしまっているのではないかと、そんな邪推すらしてしまう。

 一瞬だけ恋鐘が眉をひそめる。だがすぐに何ともなかったように頷いた。


「よく分かってるじゃないか。その通りだよ」


 彼女の意図が読めず、緑栄は眉をひそめる。


「より正確に言えば、治る人もいれば治らない人もいる、ということだ。肉体も免疫力だけで修復できることばかりじゃない。そういうとき他者が外科的治療や病原体の切除、あるいはリハビリを行って回復をサポートする。心も同じように、心の免疫力だけで治らない人に対しては、回復が早まるように他者がサポートしている。精神疾患においてはリラクゼーション法や認知行動療法と呼ばれる技術がそれだ」


 その説明は理解できた。心の免疫力、なんていう怪しげな力に目をつむれば、だが。


「ただし、さっきも言ったように認知行動療法には根気が必要で、誰にも適応できる手法だとは言い切れない。何より認知行動療法を専門に行っている医療機関がまだ少ない」

「そうなんですか?」

「これは日本の保険医療制度も大きく関わるが、認知行動療法は医者が五分以上かつ看護師が三十分以上行うという条件で医療報酬が払われる。しかし患者との対話および処方箋診療を行う一般的な通院精神療法は、精神科医が五分診察するだけで条件を満たす。つまり認知行動療法は、手間と時間がかかる割にはリターンが得づらい療法なんだよ」


 唖然とする事実だった。こんなの父親だったら絶対、非効率だと言って実施しないだろう。増えていかない現状が薄っすらと見えてきた気がした。


「いいんでしょうか、そんなことで。なんだか不親切ですけど」

「国の意図はともかく、誤解はしないように。精神科医だって儲けを優先しているわけじゃない。受診の回転数を上げればそれだけ多くの患者を見ることができる。一時間も二時間もかけては他の患者が困るだけだ」


 しかしそれだと、話を聞いて欲しい人はどうすればいいのだろう。五分話を聞いてもらって薬を処方されて終わりでは、精神科医への不信感が積もらないだろうか。

 恋鐘は、緑栄がそんな疑問を持つ時間を与えたかのように、一拍置いて続けた。「君が察する通りだよ」


「つまるところ、現状の精神治療は大多数を救うための最適解ではあるが、取りこぼされる人は確実に存在している。だからこそ、薬だけでは救えない人たちのために、私たちはVRを使った仮想認知療法を推し進めている。この技術は認知行動療法の欠点を補い、さらに発展させた効果がある」


 ようやく本題に入った。

 恋鐘はそこで、凝った肩をほぐすように「うーん」と両手を組んで伸びをする。そこで初めて、彼女の胸元が思った以上に豊かであることに緑栄は気づいた。少し気恥ずかしくなって視線を逸らす。


「長くなってしまったが、仮想認知療法の骨子を説明しよう。それは患者にことを主体としている」

「気づかせる……?」

「なにを、と顔に書いてあるな。まぁそう思うのも無理はない」


 このときは呆れ顔をされなかった。どういう線引で反応が違ってくるのか、よくわからない。

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