余談

仮想認知療法について①

「恋鐘さん、うちの研究室のOBだったんですか?」


 なし崩し的に働くことになった緑栄は、当初指示された通りにデスク周りの掃除をしていた。物を移動させている途中の恋鐘の返答に、驚いて手を止める。

 ちなみに社労士が来ることになっていたが、インターン用の契約書を準備することになったので後日改めてになった。


「うん。ちょうど10年くらい前だ」


 恋鐘はPC相手にタイピングしながら答える。再び眼鏡スタイルだ。身だしなみを整えたその姿はデキる女の仕事風景なのだが、周囲が物に埋め尽くされているので台無しになっている。


「それで教授と知り合いだったんですね」


 恋鐘と大月教授のことは、ここに来る前まで一般的な大学と企業の繋がり程度にしか考えていなかった。特に大月研究室は、企業から共同研究を持ちかけられたり人材確保の面で交流も盛んに行われている。

 だが大月教授のことを人前でタヌキ親父などと罵るのは、単なるビジネスの関係だけでは説明がつかない。どういう関係なのかと勘ぐって聞いてみたところ、緑栄の先輩であることが発覚した。


「あ、でもうちの研究室って情報学専攻ですよ? 社会心理学とか認知科学系もやってますけど、医学の、ましてや専門職には行けないんじゃ」

「先生のところで学んだのはVRに関する専門知識や認知科学の基礎だよ。修士課程からは臨床心理士資格を取るために別の大学院に移った」


 つまり途中で学部そのものを変えたわけだ。それなら確かに辻褄は合う。

 しかし十年前にこんな変人、いや、凄い先輩が在籍していたとは知らなかった。きっと色々伝説を残しているのだろうが、さすがに自分の在籍期間と離れすぎていて恋鐘という存在のことは聞いたことがない。

 もう一つ、話からわかったのは恋鐘の年齢だ。自分と年は近いと考えていたが、今から十年前に研究室に入っていたというなら、少なく見積もっても三十歳を超えている計算になる。女性は見た目で判断できないとはよく言ったものだ。


「で、君は大月研ということだから、心理学や精神医学について集中的に研究しているわけではないのだろうな。あそこは情報学と認知学専門だから」


 確かめるように問われたので、緑栄は顎を引く。「そうです」


「私が行っている仮想認知療法とは、認知行動療法をVR技術で更に効率化、効果的にする技術だ。君が行うのはVR映像のプログラミングやクリーニングだから治療方針に精通している必要はないけれど、その骨子くらいは知っておいたほうがいい」


 「掃除しながらでいいから」と前置きした恋鐘は、うず高く重なったファイルケースの間から緑栄を覗いた。


「まず、認知科学とはなにかな」


 緑栄はまばたきを繰り返す。てっきり説明が始まるのだと思っていたから、質問されるのは予想外だった。


「ええと、それと何の関係が?」

「鈍い。認知とはなにか、その理解が互いに一致しているかの前提がないと話を始められないだろ? 認知科学のはまさに認知行動療法の定義でもある」


 そういうものだろうか。どことなく釈然としないながらも、緑栄はこれまで講義や研究で培ってきた知識を引っ張り出す。


「うーん、一言で表すのがとても難しいんですけども……人間の知的機能について広く研究する学問、だと思います。記憶とか思考とか、そういう脳機能の働きを調べる。心にも関係するっていうか。人の認知がわかれば、人工知能デザインや社会システムに活かしていける、って教授は言っていました」


 自信がなくて曖昧な説明になってしまった。恋鐘が鋭い視線を送ってくるのでドキドキして待っていると「間違いではない」と言われる。及第点という感じだった。


「つまり認知とは、人の知覚・記憶・思考に関する仕組みを指している。では次に、君が知りうる認知科学とVRに関する研究事例を教えてくれ」

「ええ?」

「君は先生のもとでVRの研究をしているのだろう? まさかそれも詐称なのか?」

「いえ、それは合ってます、けど」

「じゃあ説明して。毎週のゼミで論文の輪読会くらいしてるでしょ」


 なぜこんな問答が続いているのだろう。さっさと説明してくれれば終わるのに、と内心で文句を垂れつつも、緑栄は記憶の中を探る。


「例えば、こんな例があります。まずVRゴーグルをつけた被験者にクッキーを渡します。そのクッキーは普通のサイズなんですが、ゴーグルに映し出されたクッキーは現実のサイズより拡大されて映し出されます。その状態で被験者にクッキーを食べてもらうと、普通に食べてもらったときよりも早く満腹感が来ることがわかりました。およそ10%程度、食べる量も減ったそうです。仮想現実によって特定の感覚に与える情報を操作し、人の認知をコントロールして身体機能に影響を及ぼした事例です」

「そこからわかることは?」

「受け取った知覚情報と現実の情報量が必ずしも一致していない、むしろ簡単に操作できることを表しています。なんていうか、脳は都合が良くできているな、って」

「都合が良くか。なるほど、面白い考えだ」


 恋鐘は口の端を微かに上げる。この返答は気に入ったらしい。


「つまり人間とは、知覚した情報を生き物、だと言える。たとえば囚人に目隠しをして仰向けに寝かせ、手首から水滴を垂らすという実験がまさにその仮説を示している。囚人には手首を切ったと嘘を教えて放置した結果、囚人はどんどん衰弱していった。視覚を塞いだことで認知が操作され、と言い換えられる。もしこれが人工知能を持つロボットを相手にしていたら成立しなかっただろう。情報量を測定されれば間違いであることがすぐ分かる。対する人間は、情報を正しく測定できる機能がない。演繹的に処理していると言える。つまり人間は、情報量を正しく測定できないからこそ想像力豊かであるし、創造性を持ち合わせている」


 淀みなく紡がれる説明に緑栄は聞き入ってしまった。難しい話なのだけれど、恋鐘の説明がうまいのか、それとも彼女の声がちょうどいい音程だからなのか、スッと頭に入ってくる。


「ただその能力が発達したせいで、脳内現実はいとも容易く肉体に影響を及ぼすようになってしまった。問題はそれが正にも負にも働いてしまうこと。トップアスリートが行う自己暗示は肉体を強化するが、良くない思い込みや歪んだ妄想、強迫観念は人の身体を蝕み、不調をもたらす。だから認知行動療法で人の思考を整理し、知覚による影響をコントロールする。簡単に言えば考え方や思い込みを矯正し行動を変える。逆に行動を変えさせることで対象の思い込みを修正する」


 恋鐘はここまで喋りながら、タイピングの手をまるで止めていなかった。理路整然と説明しながら別の思考も同時に働かせている。緑栄には真似できそうにない。


「ただし認知行動療法には限界がある。それはなぜか」


 またも質問された。なんだか授業を受けているみたいだ。

 考えた緑栄だが、そもそも認知行動療法なんて受けたこともなければ詳しく聞いたこともないので、想像がつかない。


「ちょっとわかりません」

「なぜ? ちょっと考えればわかるだろうに」


 恋鐘がキョトンとした目を向けた。呆れているというより、心底不思議がっているという感じだ。


「君は誰かに走れと言われたら走るのか」

「は? いえ、そんなことはしませんが」

「では走ったほうが健康にいい、と説明されたら」

「それは……走る、かも?」

「つまりはそういうことだ」


 どういうことだ。

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