第28話 駒鳥と鳶


「もう帰ってこないつもりか?」と問うクリフの低い声に、マリーは内心驚いた。

 人のことは言えないが、マリーの知っているクリフとは、まるで別人のようだったから。


「はい。そのつもりです」

「何でだよ!? 俺は認めない!!」


 クリフは血走った目で、声を荒げた。

 その場の誰もが驚いていた。

 一人称も、口調も、表情も、何もかもが違う。

 偽りの仮面で人を欺くことに慣れているクリフには、考えられない姿だ。

 そのあまりにも異様な様子に、誰もが言葉を失った。


「あんな手紙一つで出て行こうとしたのか!? 嘘まで吐いて! 俺は絶対認めない!」

「本当のことを伝えなかったのは、ごめんなさい。でも私の身を守るためだったんです。けれどそれとこれとは、話が別です。それにあなたに認めてもらう必要はありません。私たち、もう婚約を解消する仲だもの」


 そう、マリーとクリフはまだ婚約をしている身だ。

 けれど、それを解消するのは難しい話ではない。

 平民の婚約は、貴族とは違い複雑な手続きなど何もない。

 ただの口約束のようなものなのだから。


「全て聞きました。記憶を失くす前、あなたたちが何をしたのか。何も覚えていないからこそ、思うんです。私たちはもう終わり。私には、あなたと結婚するだなんて、考えられません」


 マリーは、はっきりと断言するように言った。

 クリフは怒りからか顔を真っ赤にして、ブルブルと震えた。


「俺を裏切るっていうのか……?」

「違うわ。あなたが、私を裏切ったのよ」


 そう言ってマリーは、何の感情も乗らない瞳で、クリフの目を見た。



「きっと、あなたみたいな人でも私は愛していたのでしょう。今は、そんな想いは欠片もないけれど」


 マリーの真っ直ぐな瞳に、クリフの瞳は揺れる。

 クリフの心の中に、じわりじわりとその言葉が浸透して、言いようのない焦燥感が広がった。


「それは……記憶を失ってしまったから……。大丈夫さ、全て思い出したら何もかも元通りに」

「なると思うのですか? 元通りに」


 マリーのその言葉に、クリフはびくりとする。

 マリーの視線は、あまりにも真っ直ぐで。

 クリフは必死にその瞳を覗き込んで自分への想いを探すけれど、そんなものは、どこにも見当たらなかった。


 胸に広がる焦燥感が、耐え難い喪失感に変わっていく。

 マリーが死んでしまったと思った時にも、激しい喪失感に襲われた。

 けれど今の喪失感とは、何かが違う。



 マリーは生きていたのに。

 目の前に居るのに。

 彼女の中のどこにも、クリフの居場所はない。



 相手が死んで永遠に失われてしまっても、最期まで相手は自分を愛していたと信じられることと、

 相手は生きているけれど、愛が完全に失われてしまったと実感すること。

 果たしてどちらが辛いことだろうか。

 比較したところで、意味はないのかもしれない。

 きっとその2つは、全く異なる喪失感だ。


 クリフは身を以て、それを体感していた。

 どちらにせよ、クリフの初恋は、二度と叶うことはない。




 衝撃を受けて震えながら黙る2人に、モーガンは小さく溜息を吐いた。

 マリーが伝えたことは、誹謗でも中傷でもない。

 ただ事実を伝えただけ。

 それでこれほどの衝撃を受けるなら、最初からマリーを大切にすれば良かったのだ。

 後悔先に立たず。

 本当に彼らがマリーを大切にしていたのだとして、それを仮に主張しても、今のマリーにはただの偽りにしか見えないだろう。



「マリーが屋敷に戻らないというのは、彼女の意志です。真実を伝えるのが遅くなって申し訳ありませんでしたが、彼女のことを大切に思うなら」

「お前か。マリーを唆したのは、お前か……!!」


 モーガンが言い終わらない内に、クリフは急に立ち上がってモーガンの胸倉を掴んだ。

 まるで宿敵を見るかのように眉間に皺を寄せ、血走った目でモーガンの灰色の瞳を睨む。

 そして思い切り、モーガンの左頬を殴り付けた。

 キャアッというアデルの悲鳴と共に、モーガンの口から血が一筋流れた。


「マリーがこんなことを言うなんて、おかしいだろ!! いくら記憶が無くたって、マリーはこんなことを言う女じゃない!! お前が何か入れ知恵したんだろ!?」


 普段のクリフとは真逆の、粗暴な表情と言葉で捲し立てる。

「おい何してんだ! 早く離せ!」とラークが必死に止めに入った。

 アデルは完全に青褪め、今見ているものが信じられないと怯えた顔をしている。


 モーガンはちらりと横に居るマリーを見た。

 口に手をやり、とても驚いた顔をしている。

 その顔は、ただ乱暴な光景に驚いている、というだけでは、やはりないように見えた。



「現実を見ろ。間違いなく、これは彼女の意志だ」


 プッと血を床に吐き捨てて、再びクリフに視線を戻し、モーガンは言った。

 ゆっくりと、言い聞かせるように。

 モーガンには分かっていた。

 クリフは、十分にそのことに気付いていると。


 モーガンの言葉にクリフはどこか傷付いたような顔をして、手から力を抜いた。

 ラークに取り押さえられながら、傷付いた表情のまま、マリーの顔を見た。

 クリフの視線の先、マリーの顔に浮かんでいたのは、はっきりとした侮蔑の表情だった。


「クリフ・ミルヴァス! 警察官暴行罪の現行犯で逮捕する!」


 ラークに組み敷かれ、後ろ手に手錠を掛けられながらも、クリフはマリーから視線を外さなかった。

 その姿は、マリーの表情から少しでもクリフへの愛の欠片を探しているように見えた。

 マリーは、そんなクリフからそっと視線を外した。

 まるで、穢らわしいものから目を背けるように。




 ラークがクリフを連行して部屋を出ていき、モーガンのオフィスにはマリーとアデル、モーガンの3人だけになった。


 アデルは混乱と恐怖で縮こまり、涙をぽろぽろと流しながら震えている。

 既に、精神が限界に達しているのだ。

 ただでさえマリーの亡霊に悩まされ、衰弱していた。

 実はマリーが生きていると聞かされて喜び勇んでやってきたのに、まさかこんなことになるとは思わなかったのだ。

 アデルには、目の前の出来事が現実だと思えなくなっていた。

 自分の隣に居るマリーが、マリーの皮を被った怪物のように思えていた。


「あああぁ……」

「ジェニーレン男爵令嬢。もうお帰りください。いつまでここに居ても、私は帰りません。帰りたくないのです」

「あなた……。あなたなんて、本物のマリーじゃないわ!!」


 胸の前でぎゅっと手を握り合わせ、アデルは泣きながら叫ぶ。

 まるで裏切られて傷付いたような、さも、自分自身が被害者かのような表情だ。

 そんなアデルの姿を、マリーは静かに眺めていた。


「じゃあ、あなたにとっての『マリー・ロビン』は、どんな人なの?」


 マリーは静かに尋ねる。

 怒りのない、好奇心すら感じられない声だ。

 敢えて言うなら、諦め。

 そんな声だった。


「マリーは……いつだって私の言葉に笑って頷いてくれて……いつだって私を許してくれて……いつだって私を一番に考えてくれる人よ……」


 アデルは泣きながらも、どこか昔を懐かしむように微笑みながら言った。

 その視線の先に、マリーは居ない。

 かつての「マリー・ロビン」が居るだけだ。


 マリーはどこか、呆れたようにフッと笑った。

 そしてアデルを見つめて、言った。


「それは、あなたに都合の良い腰巾着が欲しいだけね。残念ながら、今の私にはなれそうにもないわ」


 アデルは、今度こそ信じられないというように目を見開くと、瞳ごと流れ落ちそうなほどに涙を流して、崩れ落ちた。

 そんなアデルを、マリーはじっと表情のない顔で、眺めていた。







 アデルをどうにか宥めて屋敷へと送り帰し、モーガンは疲労の溜まった体をオフィスの椅子に沈めた。

 時刻は既に正午を回っている。

 午前中は全てアデルとクリフに奪われてしまった。

 ラークはクリフの逮捕にかかる手続きを行なっており、マリーは一度寮に戻った。

 かなり疲れていたのか、マリーは真っ白な顔をしており、少し休むよう伝えたのだ。





 モーガンは、昨日から頭の中に棲みついている思い付きを、改めて考えた。

 考えれば考える程、これ以上ない案に思えた。



 しばらく煙草を吹かしながら、先ほどのアデルとクリフのことを思い出す。


 2人に対して、マリーは毅然とした態度を取った。

 もう、何も未練はないのだと、そう言っているようだった。

 仮にあの2人の居る屋敷に戻ったとして、マリーは幸せになれるのだろうか。

 彼らの本心がなんであれ、大事なのはマリーが幸せであるかどうか。

 マリーが戻ったなら、果たしてあの2人は満足するのだろうか。

 罪を認め、今度はマリーを大切にするのだろうか。


 そう考えてみても、答えは結局同じ所に辿り着く。

 マリーは、戻ることを望んでいない。



 ならば、自分は。

 モーガン自身はどうしたいのか。

 これも、答えは結局、同じ結論に辿り着く。




 モーガンは煙草を深く一吸いすると、何かを決意したように立ち上がった。

 向かうのは、署長室だ。


 コンコンッと軽くノックをして、署長室に入る。

 オックス署長は、多忙が過ぎていっそ呆けていた。

 モーガンの姿を認めると、「ああ、お前か」と気のない声を出した。


「署長。少しお話が」






 そしてモーガンの口から飛び出した言葉に、オックス署長は今度こそ頭を抱えたのだった。


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