第26話 駒鳥と雄牛

 

 うずくまっているマリーを見て、モーガンは慌てて駆け寄った。


「大丈夫か!?」

「……はぁー。緊張した。大丈夫です! 言いたいことが言えて、すっきりしました!」


 マリーは立ち上がり、疲れてはいるものの晴れ晴れとした笑顔でそう言った。


「クロウさんの話を聞いて、あり得ないなって思ったんです。『マリー・ロビン』が、あまりに不憫です」


 マリーは、自分自身で言いながら思った。

 そう、不憫だ。

「マリー・ロビン」は、あまりにも惨めな女だった。

 誰にも愛されず、見下され、自分の好きなものなどほとんど手に入れたことはなかった。

 唯一、本から得た知識と言葉だけが、「マリー・ロビン」の財産だ。

 そんな「マリー・ロビン」の腹の中に、じわりじわりと溜まっていた黒い淀みが、オウルを前にして言葉となって溢れていった。

 マリーはほんの少し、ほんの少しだけ、腹の中が軽くなったのを感じていた。



 モーガンはマリーの反応が意外だった。

 彼女なら、きっとこれまでのことを受け止め許してしまうだろうと思ったから。

 しかし同時に、当然だとも思った。

 客観的に見れば、確かにマリーは不憫だったから。



「そうか……。だが、それならこれからどうするつもりだ?」


『このままここに居て欲しい』

 モーガンは素直にそう思った。

 けれど、それは些か難しい問題だ。

 マリーを警察署に置くのは、あくまでも暫定措置だった。

 これが、恒久的に雇い入れるとなると、話は違ってくる。

 本部に話を通す必要も出てくるだろうし、他の犯罪被害者までも雇い入れろ、という話になる可能性もある。

 たかだか数日のことであるから、可能だったことだ。

 どうやっても、このままの状況を続けるには無理があった。


「本当は、このまま皆さんと一緒に居たいです……。でもそれは無理でしょうから、王都に行って、一からやってみようと思うんです。どうにも、ジェニーレン男爵領に居るのは憚られて……。ジルさんのご友人の方が、王都で食堂をやってるみたいで、まずはその伝手を頼ってみようと思ってます」


 マリーのしっかりした返答に、モーガンは驚く。

 そこまで既に考えていたとは思っていなかった。



 ……いつ考えたんだ?



 マリーが自身の状況を知ったのは、今日のこと。

 以前ジルから聞いた話を思い出し、今後のことまで、さっき考えたのだろうか。

 それにしては、やけに決定的な話し方だ。


 まるで、ずっと前から決めていたかのような。


「マリー、君は……」

「私は、とにかくジェニーレン男爵家には戻りたくありません。記憶がないのもありますけど、未練を一切感じません。そんなところに戻ったら、私はまたただの籠の鳥です」



 ああ、と、モーガンは確信を覚える。

 その上で、マリーの言葉を、深く考えた。


 刑事としては屋敷に帰すべきだと思う。

 あくまで彼女の身の安全のために保護しただけに過ぎず、彼女の帰る場所はジェニーレン男爵家の屋敷なのだから。

 けれど、これまでのことは決してなくならない。

 彼らが彼女を蔑ろにした事実は、は、消えることはないのだから。




 これから、どうするべきか。

 そう思案するモーガンの頭の中に、一つの閃きが生まれた。


 モーガンは頭を振ってその考えを頭から追い出そうとする。

 馬鹿な考えだとモーガンは自嘲した。

 いや、しかし……案外そうとも言えないかもしれない。


 モーガンはほぼ無意識の内に、上着の胸ポケットから煙草を取り出し、火を点けた。

 モーガンが深く深く思考の海に沈んでいく証拠だ。



 マリーはその香りに、ささくれ立っていた心が、凪いでいくのを感じた。

 落ち着く。

 いつものモーガンの香りだ。

 マリーは記憶を失う前まで、煙草、特に葉巻の香りが好きではなかった。

 その香りはダヴを思い出す香りだったから。

 けれどモーガンの香りは、違う。

 葉巻と紙煙草の違いだろうか。

 いや、そうではない。

 きっと落ち着くのだろう。





 後ろの方で、ガチャリと扉が開く音がした。

 その音でモーガンの意識は浮上し、マリーはそちらに視線をやった。

 どうやらラークが出てきたようだった。


「あれ、まだこちらにいたんですか。……ここを移動した方がいいですよ。彼、やっと落ち着いたので留置場に戻すんです」


 そう言いながらラークは取り調べ室の中を親指で指す。

 その顔には疲労が滲んでおり、オウルを宥めるのに相当苦労した様子が窺える。

 モーガンは少しばかり、ラークに申し訳ない気になった。


「そうか、分かった」


 煙草を床に落として踏み消す。

 ラークに睨まれ、致し方なくしゃがんで吸い殻をハンカチに包み、無造作にポケットに押し込んだ。

 そんな様子を苦笑しながら眺めているマリーに、モーガンは向き合った。


「マリー。オックス署長の所に行こう。君の意思を、伝える必要がある」


 マリーは迷いなく、こくんと頷いた。









「それで、君は帰りたくないということかい。マリー」

「ええ。絶対帰りたくないです。客観的に考えて、あの屋敷で私が幸せになれると思いますか?」


 マリーの言葉に、オックス署長は唸るしかなかった。


 署長室の肘掛け椅子に深くもたれ掛かり、オックス署長は腕を組む。

 彼の頭の中では、様々な考えが駆け巡っていた。


 実際ジェニーレン男爵家は、今や崩壊寸前だ。

 男爵の代わりに、男爵家を支えられる人間は誰もいない。

 アデルは全く家の仕事に関わっていないし、クリフもまだ1人で男爵家を支えられるほどの力を付けていない。

 オウルが居ればまだどうにかなっただろう。

 しかしオウルまでもこの状況だ。

 タウンハウスにも執事は居るようだが、オウルのように男爵の右腕を担っていた訳ではない。

 ジェニーレン男爵家は歴代子供が少ない家系のため、親族も居ないに等しい。

 こう考えると、ダヴの功績が如何に大きかったかと実感せざるを得ない。

 現在ダヴが持っている事業の権利をアデルがうまく引き継げなければ、ジェニーレン男爵家は没落するだろう。

 そしてそうなる可能性は、極めて高かった。


 ただでさえそんな状況だ。

 それでもまだ、マリーが彼らと支え合うことが出来たなら。

 記憶を失う前のマリーは、ジェニーレン男爵家の家事の多くを担っていたという。

 アデルやクリフの支えがあれば、記憶のないマリーでも、十分に力を発揮出来るかもしれない。

 けれど、2人はマリーを裏切った。

 そんな人間と一緒に支え合っていくことなど、不可能だろう。


 要は、マリーをジェニーレン男爵家に戻すということは、敢えて泥舟に押し込むようなものなのだ。

 朝の段階でさえ、オックス署長自身、マリーを屋敷に戻すことに迷いがあった。

 なのに、今なら尚更。

 正直、オックス署長もマリーを屋敷に帰したくはなかった。



「……分かった。だが、君が生きていることはすぐに伝えるぞ。そうだな……一度屋敷に戻って話をしてきなさい」

「嫌です! 私、行きたくありません!」


 マリーは反射的に答えていた。

 マリーには自信がなかったのだ。

 自分が2人を、アデルを拒絶出来るかどうか。


「そうは言ってもな……。なら、まずは手紙を書きなさい。それで男爵令嬢たちが納得しなければ、その時考えよう」


 オックス署長が頭痛を堪えるように眉間を摘んで唸る。

 彼にも立場というものがある。

 難しい判断だろう。


「……分かりました。ありがとうございます」


 マリーは安堵と諦観の混じった表情で、頷いたのだった。







 その日の夜。

 ジェニーレン男爵家に1通の手紙が届けられた。

 その手紙の内容に、屋敷の中は上を下への大騒ぎになった。

 その騒ぎに乗じて、2人の使用人が姿を消した。

 姿を消した下男とメイド、すなわちジェニーレン男爵家に潜り込んでいた捜査員たちは、マリーの部屋からいくつかの荷物を運び出していた。

 マリーの気に入っていた異国の品々、マリーの描いたメイヴィのデッサン画、服が何点か。

 そしてマリーは一度も付けることのなかった、髪飾り。

 それを持ってくるよう指示したのはモーガンだった。

 マリーの記憶が戻るのではという思いと、マリーが大切にしていたものだから、手元に置いておいてあげたいという思いからだった。

 服は単に、着る物が少なく不便だろうと思ってのことだ。


 しかしマリーは、彼らに謝罪した後で、それらを一切残らず捨ててしまった。

 お気に入りだった品々も、劣等感から付けることさえ出来なかった髪飾りも、メイヴィのデッサン画さえ。



 それはマリーの決意の表れだ。

「マリー・ロビン」を殺すことに決めたマリーの決意だった。

 そして何より、それらを鬱屈とした気分で眺めていた、あの時の「マリー・ロビン」と訣別する為。



 そんなマリーを見て、モーガンも考えを纏めていた。

 まだ決意には至らない。

 けれどひどく具体的な形を持って出来上がっていくその考えに、モーガン自身が戸惑っていた。




 そして翌朝。

 モーガンはついに決意した。

 その決意は奇しくも、アデルとクリフが警察署に乗り込んできたことで固まったのだった。

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