第22話 ムネアカヒワ

 

『気分どうだい? 』


 目を開くと、全く見知らぬ白い天井が目に入った。

 声を掛けてきたのは、白衣を着た白髪のおじいさんだった。

 肌も白くて、何だかここは全部が白いな、とぼんやり思った。


『ここは……』

『ここは病院だよ。君は溺れて、一時意識を失っていたんだ。安心したまえ、飲んだ水が少なかったんだな。すぐに良くなる』


 おじいさんの言葉を聞いて、これまでのことを思い出す。

 頭が真っ白だ。

 本当に真っ白、何一つ、覚えていないのだ。



『あの……私は誰ですか』



 そう言うと、白衣のおじいさんは少しばかり目を見張って、深刻そうに眉を顰めた。


『名前とか、どこから来たとか、何か思い出せるものはあるかい? 』


 私は小さく首を横に振った。

 するとおじいさんは、うーんと唸りながら腕を組んでしまった。


『今日の昼頃運ばれてきたんだ。詳しくは聞いていないが、君が溺れたのはレイ』




 おじいさんの言葉の途中、コンコンッと音がして、扉が開いた。

 開いた扉から、1人の男性が中に入ってきた。


 ――随分と顔の整った人だな。


 最初にそう思った。

 癖の強い黒髪と灰色の瞳が印象的な、男らしい人だ。


『目が覚めたか! 』


 彼が私を見ると、三白眼を大きく広げて駆け寄ってきた。

 この人は誰だろう。

 私と関係のある人?


『クロウさん、ちょっと』


 真っ白なおじいさんは、彼を部屋の隅に連れて行き、二人で何かこそこそと話し始めた。

 きっと私が何も覚えていないことを話しているのだろう。

 クロウと呼ばれた男性は、とても真剣な顔でおじいさんの話を聞くと、顎に手を当てて何かを考えていた。

 暫くそうした後、二言三言おじいさんに告げ、私のベッドの横にある小さな丸椅子に腰掛けた。


『初めまして。私はモーガン・クロウ。実はこう見えて、刑事をしています。ああ、刑事は分かる?』

『はい』


 なんだ、初めましてなのか。

 ちょっぴり残念な気持ちになった。


 とても優しげな表情に、気さくな話し方。

 知らず知らずにシーツを握りしめていた掌を緩めた。


 それにしても、不思議な感覚だった。

 私が何者か、どんな人生を送っていたのかさっぱり思い出せないのに、世間のことは思い出せる。

 刑事というのが15年前に組織された警察の人だということや、きっとおじいさんはお医者様であろうことも分かる。

 「私」に関わる様々な情報が抜け落ちている感覚だ。


『君の名前はマリー・ロビン。年は22歳。ジェニーレン男爵家で、レディーズメイドをしていたそうです。やはり覚えはない?』

『マリー・ロビン……私の名前……』


 全く覚えがなかった。

 自分の名前なら、何某か思い出すことがありそうなものなのに、何も浮かばない。

 ジェニーレン男爵家……。

 他の貴族の名前はいくつか思い浮かぶものの、ジェニーレン男爵という貴族の名前には全く覚えがなかった。

 私はふるふると首を横に振った。


『そうか……。不躾で申し訳ないけれど、今日から5日……いや6日、君に何があったのか伝えないことを許して欲しい。君を守るためなんだ』


 クロウさんは真剣な表情で訴えかける。

 その言葉で少しだけ状況が分かった。

 私は何かの事件に巻き込まれているのだろう。

 そして何か見てはいけないもの、覚えていたら都合の悪いものを見てしまったのかもしれない。

 今すぐ私のことを知りたいという思いと、何故だか思い出したくないような思いがせめぎ合っている。


 少しだけ悩んだ後、『分かりました』と言った。

 クロウさんは目に見えてホッとしたような顔をして、次に申し訳ないような顔になった。


『不安ですよね。本当に申し訳ない。けれど何か思い出したことがあれば、すぐに言って。私は北部第3警察署に居ます。フェル先生に伝えても構わない』


 隣で白いおじいさんがうんうんと頷いている。

 おじいさんはフェル先生と言うらしい。

 私はもう一度、『分かりました』と答えた。


 するとクロウさんは笑顔を浮かべて、頷いてくれた。


 ――わぁ、笑顔になると本当に素敵。


 そう思った。

 クロウさんはどこか厭世的な空気を纏っているけれど、笑うと途端に爽やかな風が流れるようだった。


『じゃあ、また来るから』


 そう言ってクロウさんは帰ってしまった。

 何だか、少し寂しい気持ちになった。




 けれどその言葉の通り、クロウさんはまた翌日もやってきた。

 様子を見に来てくれたみたいだ。


『調子はどう?』


 ベット脇の丸椅子に座りながら、クロウさんが言う。

 『何か持ってくるべきだったか……』と小さな声で呟きながら頭を掻いている。

 お気遣いなく、と笑顔で首を横に振り、


『フェン先生が、もう明日には退院していいだろうと言っていました。もう何ともないです』

『本当に? 無理していないかい?』


 クロウさんはどこか疑うような瞳で、私を覗き込む。

 まるで子供が嘘を吐いていないかと見定める親のようだ。


『ええ。本当に』


 何せ本当に何も嘘など吐いていないのだから。

 むしろベッドに居ることに飽き飽きして、今すぐ何処かに出掛けたい気分だ。

 問題があるのは、私に記憶がない、という、ただそれだけ。



 ふと、クロウさんの足元がすごく汚れていることに気が付いた。

 泥汚れだろうか。

 革靴なのに、綺麗になるかしら。

 そんなことを思いながら靴を見ていると、クロウさんが気が付いたようで頭を掻いた。


『すまない。病室の床を汚してしまったな。ちょっと湖に行っていたものだから』

『湖? 事件の捜査ですか?』


 そう聞くと、クロウさんは曖昧に頷いた。

 興味本位で聞いてしまったことを後悔する。

 事件のことはあまり聞いてはいけないのだろうと、口を噤むことにした。



 クロウさんは、少し何かを考えた後、もう一度私を真っ直ぐに見た。


『退院したら、うちの警察寮に住むのはどうだろう。君を保護するには、うってつけな筈だ。なに、問題が解決したら帰れるから、安心して欲しい。そう長くはならない筈だよ』


 そう言ってクロウさんは、また笑顔を見せた。


 ――そこに行ったら、またクロウさんの笑顔が見られるかな。


 綺麗なものを見ていたいというのは、人間の本能的な欲求なんだな、とちらりと思った。

 そもそも帰る場所なんて欠片も覚えていないし、他に行く宛もないから、特に悩むでもなく頷いた。


『そうか、良かった。男世帯で心配かもしれないが、寮母の人がいつもいるから安心して』

『はい、大丈夫です』


 そう応えて、ふと思った。

 刑事さんが何人いるのか分からないが、その寮母という人が、1人で寮の切り盛りをしているのだろうか。

 もしもそうなら、きっと大変な筈だ。

 私に何かお手伝いが出来ないだろうか、と。

「保護する」ということは、あまり自由に外に出ることは出来なそうだ。

 それならせめて、何か仕事があった方がいい。


『あの……その寮って、寮母さんお1人でやられてるんですか?』

『ああ、そうだな』

『じゃあ、私もそこで働けますか』


 私がそう聞くと、クロウさんはぱちぱちと目を瞬いた。

 思いもかけない言葉だったのだろう。

 でも、正直何もしないでお世話だけされるのには抵抗があるし、動いていないと退屈しそうだ。

 もしかしたら記憶がなくなる前の私は、とんだ仕事中毒だったのかもしれない。



 クロウさんは、ふはっと息を漏らすように笑った。

 思わず出てしまったというように、手の甲で口を隠し、肩を震わせて目を細めている。


『……最近1人じゃしんどいってよく言っているからな。寮母のジルさんに聞いてみよう。あと署長にも』


 まるで新しい玩具を見つけた子供のような顔で、クロウさんは言った。

 完全に面白がられている。

 そんなに変なことを言っただろうか……。


『そうだ。一時的に、君を違う名前で呼びたいのだけれど、どうかな。念の為に』


 笑いの余韻を滲ませながら、クロウさんが言った。

 けれど、瞳は真剣だ。


『違う名前、ですか』

『ああ。出来るだけ君の存在を隠しておきたいんだ』


 マリー・ロビン。

 それが私の名前だと言うけれど、それが私のものだという意識はない。

 だから別に、他の名前でも何も問題はなかった。

 ……それに、マリー・ロビンって、何だか地味な気がする。

 出来るならもっと可愛らしい名前が良い。


『……リネット、が良いです』


 ふと、そんな名前が浮かんだ。

 「リネット」は、この国の女性にたまに用いられる名前だった。

 語感が可愛らしいな、と思って何となくそう言った。


『リネット? 良いね、素敵な名前だ。君にぴったりだよ』


 そう言って、ふわりと私の頭に手を置いた。


『明日からよろしく頼む。ただ、無理はしないように。ゆっくりな、リネット』


 そして優しく、にこりと笑った。


 私は身体中に何かが走るのを感じた。

 昨日の笑顔は、きっと作り物だったのだろう。

 今日の笑顔はまるで別物だ。

 後ろに花でも背負っているかのようだった。


 ――綺麗な人の笑顔は、なんて破壊力なのだろう。


 私は痺れる頭で、そう思った。





 翌朝、フェン先生にお礼を言って、私は病院を退院し、警察寮に移った。


 病院があるナサリーの街から馬車で30分も行った所に、警察署はあった。

 てっきり無骨で威圧感のある建物だろうと想像していたけれど、煉瓦の色が緑に映えてどこか温かみを感じる建物だった。

 警察署の右手奥、2階建てで警察署より一回り小さい建物が警察寮だった。

 クロウさんの後についてキョロキョロとしながら歩いていくと、寮の中から恰幅の良い女性が現れた。


『いらっしゃい! あんたがリネットだね! 話は聞いてるよ。私はジル。ここの寮母さ』

『初めまして、ジルさん。リネットです、よろしくお願いします』


 私は腰を折って、丁寧に挨拶をした。

 これからお世話になる人に、悪い印象は持たれたくない。


『そんなに畏まらずに! 部屋に案内してあげるよ。こっちおいで』


 ジルさんの後ろに付いて、廊下を歩く。

 クロウさんは私の更に後ろを付いてくる。


 案内してもらったのは、寮の2階、階段を上がってすぐの部屋だった。

 扉を開けると、ベッドと小さな机、洗面台があった。

 こじんまりとしているけれど、十分快適そうだった。

 クロウさんは部屋の外で待ってくれている。

 女性の部屋に入らないようにと云う配慮だろうか。


『うちの人と私の部屋の隣だよ。何か困ったことがあったら良いな。風呂に入りたい時は私たちの部屋においで。女用の浴室はないからね。うちの部屋の浴室を使いな。食事はさっき通った食堂で食べるから、時間になったら降りといで』

『分かりました。本当にありがとうございます』

『何言ってんだい。もうあんたは家族みたいなもんだよ。ここに居る間は、何でも言っとくれ』


 私がペコリとお辞儀をすると、ジルさんは腰に手を当てながらにこにこと笑って言った。

 なんて気持ちの良い人なんだろう。

 私は心が温かくなるのを感じた。


『それで……私は何の仕事をすれば良いでしょう。お昼の仕込みですか?』


 私がそう言うと、ジルさんも、廊下に居たクロウさんも目をぱちくりとしていた。


『いやいや何言ってんだい! あんた今日退院して来たんだろう!? そんな急に仕事なんてさせられないよ!』

『そうだぞ! いくら仕事がしたいからって、病み上がりなんだ。急ぐことはないだろう!』


 2人とも同じ顔をして慌てるものだから、私は面白くなって笑ってしまった。

 思わず口に手をやりクスクスと笑いが止まらなくなった。

 すると、2人とも一瞬呆けたような顔になって、顔を見合わせていた。


『あんた、笑うと可愛いねえ! いやそうでなくても美人さんだけどさ、あんたの笑顔は人を元気にするよ!』


 そう言ってジルさんは優しげに笑った。


 ジルさんの後ろで、クロウさんが手で口を隠しながら横を向いている。

 何か気に障ったことでもしただろうか。

 どことなく耳が赤い……?

 いや、気のせいかもしれない。


『うちには子供が居ないからね。あんたみたいな娘が居たら、うちの人なんて目に入れても痛くないだろうねえ』


 ジルさんは本当に、娘に向けるような優しい眼差しを私に向けていた。

 何だか心がぽかぽかする。

 特に何も考えずにここに来たけれど、その選択は間違っていなかったと思った。


『ジルさん、ありがとうございます。とても嬉しいです。でもだからこそ、私も何かしたいんです。ほんの少しでも良いので、何かさせてください』


 ジルさんはうーんと考えた後、よしっと手を叩いた。


『じゃあ、あんたには調理場の整理を頼もうかな。食堂は刑事たちが当番制で掃除しているから良いんだが、調理場は私の管轄だからね。だけど、絶対に無理するんじゃないよ。少しでも具合が悪いと思ったらすぐ言いな』


 ジルさんは私の瞳を覗き込むように、言い聞かせるような調子でそう言った。

 私のことをすごく心配してくれているのが分かった。


『リネット、もし君に何かあったら連れてきた私の責任になるんだからな。絶対に無理はしないでくれよ』


 まるで自分が責任を取りたくないから、というようにクロウさんは言うけれど、それが私を思ってのことだとよく分かる。

 私が遠慮しないようにしてくれているのだろう。


 本当に優しい人たちだ。


 記憶がなくなる前の私には、こんな優しい人たちが周りに居たのだろうか。

 そう思うと、私の本来の境遇が、少し気になった。





 言われた通り、私は少しずつジルさんのお手伝いをした。

 何も覚えていないけれど、いろいろな道具の使い方は覚えていたから、きっと良いお家のお嬢様などではないのだろう。

 ジルさんは本当に気を遣ってくれて、凄く優しかった。


 その日の夜には、寮の人たち皆で私の歓迎会をしてくれた。


 署長のオックスさんは物凄く大きくて驚いた。

 クロウさんも凄く背が高いし、刑事さんはみんな大きいのかなと思ったけれど、ラークさんは割と小柄だからそんなこともないのだろう。

 刑事さんたちは皆とても良い人たちだった。

 どうやら皆さん忙しいようで、参加する時間はまちまちだったけれど、お酒が入った彼らはとても愉快で、私も一緒になって笑った。



 ずっとここにいられたら良いのに。

 心からそう思った。

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