第23話 ムネアカヒワ、そしてスズメ

 

 歓迎会の翌朝、クロウさんは気怠そうに食堂へとやってきた。

 昨日のお酒が残っているみたいだ。

 すごく強そうに見えるのに、案外弱いのかもしれない。


『おはようございます、クロウさん』

『おはよう、リネット。体調は大丈夫?』


 どちらかと言えば、クロウさんの方が体調が悪そうだけれど。

 それでも気遣ってくれるのは素直に嬉しい。


『ええ、全く問題ありません。明後日フェン先生の診察もありますし。それより……クロウさんは大丈夫ですか?』

『ああ、俺は大丈夫。ジルさん、スープとコーヒーお願いします』

『はいはい』


 クロウさんの一人称が変わった。

 まるで親しい人と認められた気がして、嬉しい。

 緩みそうになる口をトレーで隠していると、ジルさんに声をかけられた。


『リネット、このピッチャーにホットコーヒーが入ってるから、モーガンに注いできてやってくれるかい』

『は、はい!』


 クロウさんのことを考えていたから、思わず肩が跳ねてしまった。

 私は平常心を装って、クロウさんのマグに注ぎに行く。


『どうぞ、コーヒーです』

『ああ、ありがとう』


 クロウさんはコーヒーを一口飲むと、眉間に寄っていた皺が幾分か緩んだ。


『好きなんですね、コーヒー』

『ああそうだな。ほとんど俺の燃料みたいなもんだ。コーヒーと煙草があれば、他はどうでもいい』


 いつもクロウさんからはコーヒーと煙草の匂いがしている。

 その匂いを嗅ぐと、何だかホッとするから不思議だ。

 私は元々、煙草とコーヒーの香りが好きだったのかしら。


『君は、何が好きなんだろうね。何か思い出したことは?』

『いえ……何も。あ、でもオムレツは好きです。さっきジルさんに作っていただいたんですが、凄くふわふわで美味しくて!』

『それは良かった。近所に立派な鶏舎があってね。爺さん婆さんがやってるんだが、好意で毎日卵をくれるんだ。代わりに、休みの奴らで手伝いに行ったりしてる。外出出来る目処が立ったら、君も行ってくるといい』


 クロウさんはコーヒーに口を付けながら、柔らかな表情で言った。

 そして一転、厳しい目付きでコーヒーを睨みつけた。


『何も覚えていないなんて、さぞ不安だろう。君のマリー・ロビンという人生は、殺されたも同然だ。俺は絶対に許さない。君に何も話さないでいる中言えた義理ではないが、記憶が取り戻せるよう精一杯力になるから』


 コーヒーから視線を外し、真っ直ぐに私の目を見る。

 私の為に、真剣に怒ってくれているようだ。

 とても嬉しくて、うっかり涙が出て来そうだった。


『ありがとうございます……。記憶が無くなって、来てくれたのがモーガンさんで良かった』


 涙が瞳に溜まるのを我慢しながら、笑顔で返した。

 嘘は一つもない。本当に、心からそう思った。


 クロウさんは照れ臭そうに目を彷徨わせて、コーヒーを啜った。

 今度はしっかりと耳が赤いのが分かる。

 クロウさんが余りにも照れるから、私まで一緒に照れてしまった。


『ちょっとお二人さん。いい雰囲気な所悪いけどね、モーガンはそろそろ署に行かないとまずいだろ。ただでさえ寝坊してんだ。遅刻するよ』

『おっと! 確かにこんな時間だ。じゃあ俺はこれで。コーヒーご馳走様』


 気恥ずかしさを打ち消すように、異様に早い動きでクロウさんはトレイを調理場のカウンターに戻しに行った。

 少し残念な気持ちになる。

 もう少しだけ引き止めたくて、あっ、と思い付き、慌ててクロウさんを呼び止めた。


『あの、この寮の玄関の掃き掃除をしたいのですが、いいですか?』


 咄嗟に気になっていたことを尋ねる。

 玄関の掃き掃除をするとなると、建物の外に出なければいけないから、一度確認しようと思っていたのだ。

 今思い出して良かった。

 おかげで、クロウさんをもう一度振り向かせることに成功したのだった。


『そうだな……。少し不安ではあるが、しっかりとバンダナを巻いて、髪を隠していれば平気だろう。瞳は前髪で隠しておくように。まあ、誰も君がここに居るとは思わないだろうから、あくまでも念の為だ』

『はい! 分かりました!』


 クロウさんはよし、と子供を褒めるような表情で頷いて、今度こそ出ていった。

 どうにも子供扱いされている気がしてならない。

 何となく解さない気持ちで調理場に戻ると、ジルさんがニヤニヤとしていた。


『あんたら、何だかいい感じじゃないかい?』

『もう! どこがですか!?』


 恥ずかしくなって、思わず必死に皿洗いに没頭する。



 ――本当にそうだったら良いのに。



 一瞬そう思って、頭をぶんぶんと振りその考えを追い払う。

 クロウさんは私に同情してくれてるだけで、可哀想な子供としか思っていないだろう。

 それに私だって、頼れる人が誰もいない中でクロウさんが最初に力になってくれた人、という、ただそれだけだ。

 うん、そうに違いない。






 その日の夕方。

 クロウさんは酷く疲れて帰ってきた。

 湖の事件の捜査だと言っていたけれど、そんなに厄介な事件なのだろうか。

 もしかして私に関係のある事件だろうか、と思うけれど、全く覚えがないから何とも言えない。

 何か力になれればいいのに、と考えた結果、クロウさんの少し縒れたシャツが気になった。

 クロウさんだけじゃない。

 刑事さんは皆、正直に言ってあんまり小綺麗な服ではない。

 それは、洗濯やアイロンを自分達でやっているからだ。

 お金を払って外でやってもらっている人もいるけれど、それは少数派。

 みんな時間がないから適当なのだ。

 私はこれだと思い、寮のみんなの洗濯とアイロンがけを買って出た。

 ジルさんには病み上がりに大変すぎると反対されたけれど、刑事さんたちの持っている服はそう多くない。

 実際やってみたら、みんな洗濯に出すのはシャツ1枚とハンカチくらいのものだ。

 ……どうやら下着は、私に出すのは気が引けるようで、自分たちで洗っている。


 パリッとしたシャツを着ている刑事さんは、皆とてもかっこいい。

 やり始めて良かったと心から思った。







『なるほど。楽しくやっているようだね』


 2日後、フェン先生の診察にクロウさんと一緒に行った。

 診察の結果、体は特に異常はなく、私は警察寮での楽しいことを色々と語った。

 先生はにこにことしながら聞いてくれて、孫の話を聞くおじいちゃんみたいだ。



『それで、記憶の方はどうだい?』


 気遣わしげにフェン先生は問うけれど、私は首を横に振るしかなかった。

 一向に記憶は元に戻らず、過去の片鱗すら見えない。


『そうか……。実はね、君のその症状は、単に溺れたことが原因ではないかもしれないよ。そうでないと説明がつかないんだ。体に異常はないからね。何か、精神的なきっかけがあったのではないかな。こう、忘れたくなるような出来事だったり。それと溺れた衝撃が重なった結果ではないかと、私は睨んでるんだ。確証はないがな』


 忘れたくなるような、出来事。


 私は口の中でその言葉を反芻した。

 過去の私のことは何も覚えていないし、何も聞いていないから分からない。

 けれど、余程何か辛いことでもあったのだろうか。


 クロウさんはその言葉を聞いて、拳を口元にやり何かを考えている。

 思い当たる節でもあるのだろうか。


『彼女が記憶を取り戻すことは、あるのでしょうか』


 クロウさんが真剣な様子でフェン先生に尋ねる。

 どこかその言葉に違和感を感じる。

 記憶を取り戻さない方が、良いと思っているかのようだ。


『それは何ともね。何かきっかけがあれば、それこそ以前の知り合いに会うとか、住んでいた場所に行くとか、そういうことで思い出すことはあるようだよ』

『そうですか……』


 そう言ってクロウさんは、またもや思考の海に沈んでいった。

 私は、と考える。

 私はどうだろう。

 記憶をとり戻したいかと言えば、過去の自分が気になるし、そうしたい。

 けれどそれで思い出したくないことまで思い出してしまうのは、やはり怖い。

 だから、そう無理に思い出そうとせずとも、自然に任せよう、という気になっていた。



 フェン先生にお礼を言って、クロウさんと2人で警察寮へと帰る。

 何とクロウさんと馬の2人乗りをして来たのだ。

 行きは緊張してしまって、クロウさんに心臓の音が聞こえるんじゃないかと不安になったけれど、帰りは慣れたのか少し余裕が出来た。

 病院から退院した時は馬車だったし、景色を見る余裕なんてなかったから、初めてゆっくりと景色を眺める。

 まだ夏本番まで少し時間があるのだろう。

 木々は青々として陽が輝いているけれど、風はまだ爽やかだ。

 ナサリーから警察署までは基本的に森を切り開いた街道なので、自然をゆっくりと堪能する。

 この道を、過去の私が通っていたかは分からないけれど、特に思い出すものは何もなかった。



 警察署に着いて、馬を降りる。

 クロウさんがまるで抱き抱えるように馬から下ろしてくれて、凄く恥ずかしかった。

 思いの外顔も近かったし、思わず顔が熱くなってしまった。

 それはクロウさんも同じだったようで、少し顔が赤いみたいだ。


『う、馬を繋いでくる!』


 そう言ってクロウさんは早足で馬を連れて厩舎に行ってしまった。



 一人残された私は、急いで寮に入ろうと歩き出した。

 ナサリーに行くために、帽子を被り眼鏡までかけて変装しているから大丈夫だとは思うけれど、寮の近くでないと少し不安だ。

 トトトっと小走りで寮の入り口まで行くと、ふと、警察署から誰かが出てくる雰囲気がした。

 思わず振り向いて見ると、金髪で口髭を生やした男性が、出てくる所だった。


 ――あまりこの辺りでは見ないくらい、身なりのいい人だな。



 そう思った所で、ガンッと頭に鈍器で殴られたような痛みが走った。

 目眩がして、今にも倒れそうだ。

 何とか寮の中に入って、しゃがみ込む。

 買い出しだろうか。ジルさんが居なくて良かった。心配をさせてしまう。

 そう思いながらも、頭はガンガンと痛みを増し、様々な情景がぐるぐると頭の中を巡っていく。




 血だらけの母、冷たい父、馬鹿にしてくる乳妹、嘘吐きな婚約者、空気の読めない部下。

 薄気味悪い、旦那様。


 そうだ。

 先ほどの男性は、旦那様だ。





 私はハァッと思い切り息を吸った。

 無意識の内に、呼吸するのを忘れていたようだ。




 私は思い出した。

 全てのことを。




 何で、思い出してしまったんだろう。

 いっそ、ずっと忘れていれば良かったのに。




『リネット? どうした!? 具合が悪いのか!?』


 クロウさんが厩舎から戻って、駆け寄ってくる。

 瞳が動揺に揺れ、心から心配してくれていることが分かる。


 ――こんなに私のことを心配してくれる人、これまでいなかったわ。


 そう思った。



『いえ……大丈夫です。ちょっと立ちくらみしちゃって』


 へへへと笑いながら、クロウさんの手を掴んで立ち上がった。



『もしかして、何か思い出したか?』


 クロウさんが尋ねる。

 真剣な表情で、肩に手を置いて私の瞳を覗き込む。




 何も思い出さなければ良かった。

 私のことを愛してくれない人たちなど、忘れてしまえば良かった。



 なら、本当に忘れてしまえばいい。





「いいえ、何も」


 クロウさんの瞳を見つめ返しながら、首を振った。




 以前のクロウさんの言葉を思い出す。



 私は、マリー・ロビンを殺すことにした。


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