第20話 甲虫とカブトムシ、そして

 

 モーガンは思わず目を見開いた。

 なんでここに彼女がいるのだろう。

 メイド服ではなく、自前のドレスを着ている。

 まるで、貴族令嬢のように豪華で美しいドレスだ。

 それだけではない。

 髪も化粧も、全てが美しく整えられている。

 これまで屋敷の他の面々が窶れていただけに、リンジーのその姿が逆に異常に見えた。


「驚いた。何故ここに?」

「ずっと待ってたんですよ? なのに、私の前を素通りしちゃうし、受付の人は中に入れてくれないし。でも許してあげます。少し早いですけど、ディナーを食べに行きません? 行きたいお店があるんです」


 モーガンは今度こそ、驚いて固まった。

 隣のラークが何度もモーガンとリンジーの顔を交互に見て、最後にモーガンへと非難の眼差しを向けた。

 またどこかでモーガンが手を付けた女なのだろうと思っているようだ。


 こうして警察署の前で待ち伏せされたのは、初めてのことではない。

 けれどそれは、モーガンに一目惚れをして恋文を渡したいとやってきた女性だったり、モーガンの姿を見るために隠れて覗いている女性だったりなのだ。

 モーガンは決して下手な付き合い方はしないし、関係は一回一回きちんと精算する。

 これまで、モーガンと深い仲の女が警察署まで来た試しは一度もない。

 だから、そんな親しげな言葉を投げ掛けるリンジーは、かなり特別な存在なのだろう。


 もちろん、本当にモーガンとリンジーが深い仲なのであれば、だが。



 モーガンは呆気に取られていた。

 目の前にいるこの女は、一体何を言っているんだ?


 まるで、さも2人が恋人同士であるかのような態度ではないか。

 リンジーの言葉に従い、付いて行くのが当然だと思っているようだ。

 2人が顔を合わせたのは、屋敷で最初に会ったあの日以来、間違いなく初めてなはずだ。

 それなのに、あの態度はなんだろう。



 リンジーの不自然な態度。

 それは、リンジーが幾度となくモーガンとの甘い日々を想像したが為に、まるで既に恋人同士であるかのように錯覚しているからに他ならない。

 リンジーの記憶は、彼女の都合の良いように挿げ変わっているのだ。


「あの、何か勘違いを? 私はあなたと食事をするような関係ではないと思いますが」


 モーガンはピシャリと、厳しい顔で言い放つ。

 少しでも付け入る隙を与えてはならない。

 モーガンはそう感じ取っていた。


「そんなっ……! なんでそんなに冷たいことを言うの? 何か気に障ることをしたかしら」

「そうですね、今この時が気に障っています。一体なんの真似です? もしかして、付き纏いですか?」


 モーガンは更に言い募る。

 リンジーはまさか、自分がそんな言葉が浴びせられるとは思わなかったのか、途端に表情を暗くして瞳に涙を浮かべた。



 リンジーは、顔立ちだけ見たならば、なかなかに可愛らしい。

 サラサラな赤毛を2つに束ねて、クリーム色のドレスを着こなす姿は若々しく、彼女にとてもよく似合っている。

 事実、リンジーは男性から優しくされた経験しか持たない。

 もちろんジェニーレン男爵家の外では、の話であるが。


 それがまさか、リンジーの中では恋人同然となっているモーガンから、そのような言葉を投げつけられるとは、夢にも思わなかったのだ。


 リンジーの頭の中では、彼女が誘ったなら、モーガンは愛しげな笑みを讃えて、喜んで頷くはずだったのに。


「何故、何故そんなことを言うの……? 私と食事に行くのよ? 嬉しいでしょ?」


 ついには瞳からポロポロと涙をこぼしながら、リンジーは唇を震わせた。

 一見すれば、とても可憐で美しい姿だ。

 しかしモーガンには、その全てが気色悪いと感じられた。

 一体どうして、自分との食事が必ず嬉しいことだと信じ込むことが出来るのだろう。

 女性に人気のあるモーガンですら、誰にとってもそうだとは思えない。


「いいや。正直に言って迷惑だ。何を勘違いしているのか知らないが、俺と君は何の関係もない。今までも、これからもな」


 そう言い捨てると、モーガンはラークを伴ってリンジーの前を通り過ぎる。

 女性には紳士的に接することの多いモーガンには珍しい態度に、ラークはあわあわと狼狽えている。

 何度も2人を交互に見た後、ばっと音がする勢いでリンジーにお辞儀をして、モーガンを追いかけて去っていった。



 取り残されたリンジーは、あまりの出来事に呆然としていた。

 何故自分がこんな仕打ちを受けるのか、全く分からなかった。






 ふと、外から騒がしい声が聞こえてきた。

 誰かが何か叫んでいるようだ。


「離せ! 私は何もおかしなことはしていない!!」


 現れたのは、ダヴだ。

 一足先に屋敷を出た筈であるが、馬車で来たことと、道中あまりに暴れた為に、かなりの時間を要したのだろう。


 リンジーは驚愕し、その場で立ち尽くしてしまった。

 見たことのない男爵の姿は、リンジーにとってかなりの衝撃だった。

 あまりの衝撃に開いた口が塞がらず、両手で口を押さえる。

 リンジーは午前中から警察署に来ていた為に、屋敷での騒動を見ていなかったのだ。



 刑事たちに引き摺られ、ダヴが入り口を潜り、リンジーのすぐ脇を通り過ぎる。

 瞬間、ダヴの狂気に塗れた視線が、リンジーを捕らえた。


「お前!! やっと見つけたぞ!! 今までどこに居た!?」


 ダヴはそうリンジーに向かって唾を飛ばすと、刑事を振り切ってリンジーに掴みかかろうとする。

 あわや、リンジーに手が届くというところで、周りの刑事たちに再度捕まった。


「お前があんなドレスなんぞ渡さなければ! マリーは、マリーは死なずに済んだのに!!」


 そう喚きながら、ダヴは刑事たちに引き摺られ、取り調べ室のある方へと去っていった。



 リンジーは恐怖で震え上がった。

 あんな風に怒鳴られたことなど、一度もなかった。

 あのまま、殺されるかもしれないと思った。


 そんなリンジーの様子を気にして、大丈夫かと声を掛ける警察官もいた。

 しかしあまりのことにリンジーは涙をはらはらと流しながら、何も答えずに警察署を出た。


(もうやだ……家に帰ろう……)


 リンジーはとぼとぼと歩いていく。



 この所、リンジーは本当に嫌なことばかりだった。

 せっかくアデル付きのメイドとして頑張っていたのに、何故か先輩メイドから掃除仕事に変えられてしまったのだ。

 それに何故か、他の使用人たちに嫌味を言われたりする。

 更に、ここ数日アデルの様子がおかしく、「マリーの亡霊が居る」と騒ぎ立てているのだ。


 リンジーはほとほと、嫌気が差していた。

 こんな気分では体調が悪くなってしまうと、昨日から休みを取ってショッピングやスイーツ店巡りをしていたのだ。

 あの屋敷に帰ってはせっかく晴れた気分も台無しだと、宿まで取っていた。

 そして、新しいドレスを買ったからと、モーガンに会いに来たのだった。



 リンジーは全く分かっていなかった。

 マリーは見た目こそ地味だと揶揄されていたけれど、読書家で知識も多く、その聡明さと優秀さで他の使用人に慕われていたことを。

 誰しも感情は複雑だ。

 完全に好きな人、完全に嫌いな人、と云うのは、案外少ないものだ。

 マリーが居なくなったことで、ジェニーレン男爵家の屋敷の面々は、その失った穴の大きさを切実に感じ始めていた。


 そんな中、リンジーの用意したドレスが一つの原因なのだと、屋敷の中で噂になった。

 何故なら、モーガンがリンジーの部屋で話を聞いていた時、偶然にも、廊下でその話を聞いてしまった使用人が居たのだ。



『そうでしたか。それでは、さぞ辛いことだったでしょう。ご自身が貸したというドレスが、マリー・ロビンさんが溺れる1つの原因になったのですから』

『え……? それはどういう……』

『マリー・ロビンさんが着ていたあのドレス。先ほどリンジーさん自ら仰ったように、あの日には不釣り合いなようでしたね。あの日はそこまで暑くはありませんでしたからそれは良いとしても、水辺の散策には不向きだった。毛織の生地では、濡れた状態ではかなり重かったでしょうから』



 たまたまその話を聞いてしまった使用人は、『マリーが死んだのはリンジーの所為らしい』と同僚に話してしまった。

 瞬く間に噂は屋敷に広がり、リンジーに対する怒りが爆発していたのだ。

 これがリンジーでなければ、ここまで悪意のある噂にはならなかったかもしれない。

 それまでのリンジーへの鬱憤も相まって、激しい悪意を持って広がっていった。


 それでも、使用人たちは暴力や嫌がらせの類は行わなかった。

 あくまで言葉による嫌味だけ。

 アデル付きのメイドを外されたのも、嫌がらせなどではなく仕事のミスを何度も繰り返したからに他ならない。

 これまでマリーがリンジーの尻拭いをしていた為どうにかなっていただけで、本来ならリンジーには荷が重い仕事だったのだ。



 リンジーは、完全に自分を被害者だと思っていた。

 とりあえず残りの休暇を全て使ったら、もう家に帰ろうと、そう思っていた。

 けれど、もう今すぐに帰りたくなってしまった。

 リンジーはこの足で家に帰ろうと、待たせていた馬車まで踵を返した。



 警察署の入り口を出て、足早に歩く。

 ふと、視界の端に何か映るものがあった。

 今すぐここを離れたいのに、何故だかそれが気になり、思わず振り向いた。







 するとそこには、マリーが立っていた。




「ヒィッ!!」


 なんということだ。

 本当にマリーの亡霊は居たのだ!


 自分にも見えてしまったと、リンジーは恐れ慄いて走った。

 少しでも亡霊から遠ざかろうと、必死に走った。

 馬車に乗り込み、御者を急かせて馬を走らせてもなお、震えは止まらなかった。















 モーガンは自分のオフィスで考えを纏めた後、一度寮に戻った。

 決して休もうと思った訳ではない。

 仕事に関する用があったからだ。


 すると寮の入り口で、リネットが箒を掃いていた。


「やあリネット」

「こんにちは! 何だか騒がしかったですね〜。大丈夫でしたか?」


 どこか遠くを見ていたようなリネットは、一瞬で笑顔になりモーガンに問いかける。

 その笑顔に、モーガンは胸が苦しくなった。


「クロウさん? どうしました?」


 そんなモーガンの様子が変だと思ったのか、リネットが心配そうに首を傾げる。

 モーガンはそんなリネットの様子に、一瞬苦しげに目を瞑り、そして口を開いた。




 リンジーは、確かにマリーを見た。

 けれど彼女が見たのは、罪悪感が見せる亡霊などではない。



「帰る時が来たよ、リネット。いや、マリー」




 本物のマリー・ロビンが、そこには立っていたのだ。

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