第18話 トビ

 

 クリフは自室のある屋根裏部屋から、ぼんやりと外を眺めていた。

 クリフの部屋は、玄関側に窓が付いている。

 先程から窓下そうかを多くの人が行き来するのを、何も映さない暗い瞳で眺めていた。


 既に2日、一歩も部屋から出ていない。


 この屋敷での仕事はクリフにとって誇りだった。

 ついに執事としての仕事を勉強し始め、鼻が高かった。

 いつか自分がオウルの跡を継ぐのだろうと、その日を心から夢見ていた。


 けれど、それまで嬉々としてやっていた仕事すら、今は手に付かない。

 何もかも、どうでも良かった。






 貧民街で暮らしていた頃から、クリフには一つの野望があった。

 必ず這い上がってやる。

 これまで自分を虐げてきた奴らを見下してやる。

 そんな怨恨に近い激しい思いが、クリフを動かしていた。




 クリフにとって、フィスに拾われるまでの10年は、地獄だった。

 毎日殴られ蹴られて、いつも傷だらけだった。

 自分の顔を使うことを覚えてから傷は減ったけれど、自尊心は限りなくすり減っていく。

 体を売ったことさえないが、それ以外の女性たちへの奉仕を何だってやっていたのだ。

 時には男からも求められ、危機一髪逃げ出したことも一度や二度ではない。


 まだ幼かったクリフにとって、あまりにも残酷な現実が、そこにはあった。


 それでもまだ、クリフは要領良くやれていた方だ。

 嘘の吐けない不器用な奴は、みんなあの路地裏で死んでいった。

 大きく色々なことが変わり続ける時代。

 まるであの路地裏は、時代の流れに押し流されあぶれた塵溜ごみためのような場所だった。



 絶対にここで終わってはならないと、

 絶対に自分は這い上がってやるのだと、

 クリフは強く強く思い続けていた。






 ジェニーレン男爵家で働くようになり、身形をきちんと整えて一定の財産を持てるようになると、クリフの立場は大きく変わった。

 それまで請われるがままに屈服していた幼い少年は、人の上に立つことを覚えた。

 屋敷の中では未だに身分の低い下男でも、一度屋敷の外に出れば、平民たちの憧れるジェニーレン家の使用人なのだ。

 使用人の制服で外に出れば、羨望の眼差しがクリフに向けられる。

 クリフはそれが腹を抱えて笑えるほど、愉快で仕方がなかった。

 


 幼い少年が青年へと変わる頃には、屋敷の中で見せる爽やかな顔とは裏腹に、屋敷の外では一時的な快楽を貪る恋人擬きを何人か作って遊んでいた。


 クリフにとって、恋や愛などただの戯言だった。

 全てはただ、暇潰しの遊戯ゲーム

 女は掌の上で転がして遊ぶ玩具に過ぎなかった。

 クリフも重々自分で分かっていた。

 それが幼い頃の鬱憤を晴らす行為にすぎないと。

 だからこそ、自分にとってそれは覆りようのない真実なんだと、そう思っていたのだ。





 だがどうだ。


 この数日間、思い浮かぶのはマリーのことだけ。

 いや、本当はもっとずっと前からそうだった。

 アデルに愛を囁いている時ですら、頭の中にはマリーが居た。


 好きな本の内容を嬉々として語る屈託のない笑顔。

 頬を赤らめて、クリフへの愛を隠そうともしない視線。

 思えばいつから、あの表情は見られなくなったのだろう。



 クリフはずっと、マリーとの婚約をずるずると引き伸ばしてきた。

 それは、もう一度マリーのあの顔が見たかったのだと、誰よりも側で見たかったのだと、クリフ自身認識すらしていなかった。





 嫌でも今なら分かってしまう。

 クリフは、マリーに恋をしていたのだ。



 愛などと確かなものではない。

 朝を迎えて花咲く睡蓮のような、長い冬が明けて訪れた春の息吹のような、そんな形容し難い気持ちだ。


 それが、クリフの初恋だった。




 クリフは自分の中にあるマリーを恋い慕う気持ちを、何重にも嘘で固めて見ないようにしてきた。

 自分自身にそんな感情があるなど、認めたくなかった。

 そんな馬鹿馬鹿しいものに支配されるなど、耐え難い屈辱だった。

 クリフにとって恋に身を焦がす者たちは、いつだって酷く滑稽な姿をしていたから。


 今の自分の姿こそ、まさにクリフの疎んだ滑稽な姿だと、そう認めざるを得なかった。





 2日前、マリーのドレスが届けられ、本当にマリーは居なくなってしまったのだと、はっきりと認識した。

 不思議なものだ。

 この目で確かに、青白いマリーの顔を見たにも関わらず、どこかでマリーはまだ生きているような気がしていた。

 それが、本当にマリーはもう戻らないのだと思うと、世界の全てが色を失くしてしまった。



 初恋は実らないものだと、誰かが言った。

 誰にとっても初恋の終わりは、大なり小なり胸に傷を作るもの。

 けれど死によって失った初恋は、生涯残る傷跡になるだろう。

 それも、自分が相手を傷付けた末の死ならば、尚更。






 クリフはあの日のことを思い出す。


 湖で、マリーにアデルを探してきて欲しい、と言った時のことだ。



 『分かったわ』と、マリーは言った。

 その時の顔は、今でも忘れられない。



 暗く、どこまでも暗く。

 どこか絶望しているような、それでいてクリフのことを心底嫌悪しているような。

 クリフがもう一度見たいと思っていたマリーの笑顔とは、まるで正反対の表情だった。


 思わず言い訳でもするかのように、クリフは言葉を重ねた。


『きっと君じゃないとアデルお嬢様は納得しない』

『マリーの言葉でなければアデルお嬢様には響かない』


『アデルお嬢様も僕も、誰よりも君のことを信頼しているから』


 クリフは珍しく焦っていた。

 言葉を重ねれば重ねるほど、マリーの顔の陰は濃くなっていくようだった。

 クリフは自分が何に焦っているのか分からないまま、必死に言葉を紡いだ。



『わかったわ』


 マリーは再度そう言った。

 それ以外には、何も言わなかった。



 クリフは急に、マリーを引き留めたくなるような衝動に襲われた。

 このままマリーが、どこかに行ってしまうのではないかと思えた。

 けれどマリーを行かせようとしているのは自分なのに、どうしてそんなことが出来るだろう。



 マリーは去って行った。

 一度も振り返らず。


 そして、本当に帰ってこなかった。









 クリフは窓を見下ろす。


 ちょうど窓の下を、暴れるダヴが刑事たちに引き摺られ通り過ぎていった。

 少しの関心と驚きを覚えるものの、すぐに心は凪いでしまった。

 それまでのクリフならば、慌てて部屋から飛び出して情報収集に勤しんだだろう。

 一体何があったのか、ダヴは何をしたのか。

 それこそ必死に聞き回り、すぐに自分はどうすべきか計算をし始めたはずだ。

 屋敷の主人が居なくなるということは、自分自身の進退に大きく影響するのだから。


 しかし、クリフにはどうでも良かった。

 既に部屋に引き篭もっている時点で、クリフは諦めてしまっている。

 婚約者を失ったのだ。少しは大目に見てもらえるのかもしれない。

 だが仮に馘首かくしゅされたとして、もうどうでも良かった。

 自暴自棄、とは、まさにこのことだ。

 自分を成す大きな何かを失ったような、全てが崩れ去っていくような、大きな喪失感。


 時に失恋は、この世の終わりが来たような絶望を齎す。

 クリフの無気力はそれに近い。

 そこに罪悪感や後悔や過去への切望といった複雑に絡まった感情が、クリフのそれをより深刻なものにしていた。

 明日のことなど、これからのことなど何も考えられなかった。





 しばらくして、今度はオウルとモーガン、ラークが窓下を通り過ぎる。

 このままこの屋敷は空っぽになってしまうのでは、などとちらりと考える。

 どうにも自分とは無縁の世界の出来事のようにクリフは感じていた。



 ふと。

 クリフは妙な既視感に襲われる。

 もう一度、モーガンに視線をやって、じっくり眺める。


 この前は気付かなかったが、あの男。

 どこかで見たことがあるような。


 ちょうどこれくらいの距離感で、そう少し見下ろすように……。


 ああ。

 あの時、マリーを引き上げた警官の1人か。

 クリフは納得した。

 確かにあの男はあの場所に居た。



 クリフは納得すると、すぐに興味を失った。

 クリフが窓から視線を外そうとした、

 瞬間。


 モーガンと目が合った、ような気がした。



 この距離で、向こうからはクリフだと分からないだろう。

 なのに、どういう訳かモーガンは真っ直ぐクリフを見ている様だった。



 ぞくり、と背中が跳ねるのを感じた。

 背筋に冷たいものが走る感覚。

 クリフは嫌な予感がした。


 まるであの男が、全てを奪って行ってしまうような、そんな予感。



 可笑しな話だ。

 あの男が何だというのだろう。

 クリフにはもう、奪われるものなど何もないのに。



 クリフは思わず一歩身を引いた後、モーガンから逃げるように踵を返した。

 そして再度、毛布を被る。


 窓の下のモーガンは、そんなクリフを鼻で笑った様に見えた。

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