善人の憂鬱な朝
兄のクリストファーは、どうしようもないほど間が悪いと言うか運が悪い男だった。クジでハズレを必ず引き当てるほどだったので、
人好きのする
あの日を堺に嫌味でもそう呼べなくなった。少しも笑えない。――なにより、兄を傷つけたくなかった。パトリシアを苦しませたくなかった。
内心諦めていた二人の子どもが生まれたときも、兄よりも先に駆けつけたのは自分だった。そして、兄と見間違えた産婆に押し付けられるように甥を抱き上げたまさにそのときに、まさにそのときに駆けつけてくるのだから、間が悪いにもほどがある。
せめて大切な人が必要としているときくらいは、遅れることなく駆けつけられたらよかったのに。
滑稽なまでに悔しがる兄にマクシミリアンと名付けられる子を返しながら、この子は父のぶんまで恵まれてほしいと心の底から願わずにいられなかった。
もう大丈夫だ。きっとよくなる。兄たちは、これで幸せになれる。パトリシアが心から笑える日も遠くないだろうと、甥が生まれた日、明るい未来を予感していた。
けれども、
『リアムもいてくれなかったじゃない』
背後から聞こえてきた凍てついた声に、目の前の穏やかなひとときは真っ黒に塗りつぶされた。
恐る恐る振り返った先にあったのは、血まみれの――――
最悪の目覚めだった。
おかげで、朝食をほとんど手がつけられない。腹をさすりながら、フィリップはため息をつく。所詮は夢だし、以前ほど血に弱くない。それでも、吐き気と頭痛にはうんざりする。生まれつき体が弱かったコーネリアスと、事故で失った右腕の幻肢痛と悪夢に苛まれ続けたギルバート。二人の弟たちに比べたらたいしたことではない。いつもなら、そう言い聞かせて無理にでも腹を満たすのだけれども、今朝はどうにも食が進まない。あんな夢を見たせいで。
「……最悪だ」
何が最悪か。
それは、本物のパトリシアなら決して言わないことを口にしたからだ。
彼女が責めるようなことを死んでも言わないことは、腹が立つほどよく知っていた。それなのに、自分の願望が言わたのだ。
たかが夢だ。わかっている。さっさと頭を切り替えてしまえば、所詮は夢だからすぐに忘れるだろう。
わかってはいるのだ。けれども、いまだに引きずっている。
「悪い、食欲がない」
「おや珍しい。どこか具合が悪いのかい?」
ベッドリネンを交換していたエミリーがクスッと笑って振り返る。
「フン。少し夢見が悪かっただけだ」
「そう。……昔の夢でも見たんだね」
図星過ぎて、フィリップは鼻を鳴らすこともできなかった。
エミリー・エアは、白髪混じりの赤毛をひっつめた大柄な中年女性で、彼の素性を知る数少ない一人かつ、彼が唯一気を許せる人だった。
彼女はまったく手をつけられなかった朝食を手早くワゴンに乗せて廊下に出してしまった。よく動く人だった。
フィリップは常々考えるのだ。世間は自立した女性像として、アンナ・カレイドを称賛するけれども、彼女こそが本当に自立した女性だと。
(だいたい、女狐はリトルコニーの遺産で遊び回っているだけじゃないか)
それもグッドマン商会の手厚い支援があってのこと。
自立した未婚女性という点では、旅行家になる前のほうがまだ当てはまる。もっとも、コーネリアスとは事実婚も同然だったので、それも怪しいものだ。
たいして、エミリーは一三歳で家を出てから、ずっと実家に頼ることなく働いている。聞けば、身一つで逃げ出すように働き始めたらしい。彼女は一人で生計を立ててきた。
「そうそう、昨日のアレ、もっと気をつけなさいよ」
「昨日のアレ?」
食欲がなくてもせめてこのくらいはと差し出されたハチミツたっぷりのスパイスティーをすする手を止めて、フィリップは尋ねた。
まっ先に返ってきたのはエミリーの盛大なため息だった。
「走る会長に、珍妙なお客様四人組……昨夜からその話題で持ちきりだよ」
今度はフィリップが盛大なため息をつく番だった。もっとも、彼女とは違って頭の痛いため息だったけれども。
やれやれと笑って、彼女は続ける。
「なんか手を打っておいたほうがいいんじゃないのかい」
「フン。おおかた、わたしに金を無心しに来た昔の知り合いだと勝手に騒いでいるのだろう。放っておけばいい。どうせすぐに飽きる」
「そういうもんかね」
「そういうものだ」
商会の従業員の誰もが会長のフィリップを慕っている。けれども、仮面のせいで近寄りがたいのも確か。気安く声をかけられる存在ではない。
(そりゃあ、誰も面と向かって詮索はしないだろうけどさ)
仮面をつけたまま――それも憤怒の形相の仮面で駆け抜ける姿は、簡単に忘れられないだろう。それほど強烈で異様な珍事であったことを、フィリップは微塵も理解していない。
彼はもともと自分に無頓着なところがあった。そうでなくては、どうして仮面をつけたまま毎日すごせるのだろうか。額の傷は前髪を下ろすだけで目立たないし、そうと知らなければ死んだはずの王子だと気づく者はまずいない。甥のマクシミリアンと並んだところで、せいぜい「似ている」と言われてお終いだろう。ウィリアム第二王子は、そのくらい人前に姿を見せる機会が少なかった。
エミリーは、彼が仮面するようになったきっかけを知っている。その上で、仮面をし続けることがいまだに理解できなかった。おそらく一生無理だと考えていた。
「それで、昨日の謎の御一行様のうちの二人、あれはチャールズ様とリチャード様だったんろう。女の子は初めて見る顔だったけど、あとの一人はマクシミリアン様ってことはあれかい、とうとうあんたが叔父上様だってバレたわけかい」
「フン」
珍妙なお客様四人組のうち三人を言い当てたことと、少年にしか見えない子どもを少女だと言い当てられても、フィリップは少しも驚かなかった。
エミリーは、一度覚えた顔を決して忘れない。
なにしろ、二八年前の沈没事故の後、雑踏の中から死んだはずのウィリアム王子を見つけたのは、他ならぬ彼女だ。彼女が月虹城で働いていたとはいえ、ほとんど関わることがなかったはずなのに。それがきっかけで、一度だけ王位を押しつけた末弟に会いに行く羽目になったのだ。
それから、フィリップは彼女を使用人として雇い続けている。ちなみに、割と早い段階で彼女は雇い主に対する遠慮を捨てた。前述の通り、自分に無頓着なところがある彼は、放っておくと寝食をすぐにおろそかにするし、とても面倒くさがるため、遠慮するのが馬鹿らしくなったらしい。
双子の弟たちがお忍び姿の甥を連れてきたのだから、素性がバレたと考えるのは当然だ。とはいえ、面白くないのも事実で拗ねた子どものように口をとがらせる。
「アレには、そのうち打ち明けるつもりだった」
「はいはい、知ってるよ。マクシミリアン様がリセールに来ると決まってから、耳にタコができるくらい聞かされましたからね」
実のところ、フィリップは自分の素性を隠し通すつもりは毛頭なかった。
いつかは、素性を明かそうと決めていた。末弟以上に、甥に両親のことを知ってほしかった。
救国の六王子の中心人物とされているけれども、本当に救いたかったのは国ではなかったことを教えてやりたかった。
いつかは、いつかはと、先延ばしにしてきたせいで、灰になっても隠し通すつもりだった秘密まで明かさなければならない羽目になっている。
先延ばしにしてきたツケが回ってきたのかと、こめかみを揉む彼をそれ見たことエミリーは苦笑した。
「にしても、マクシミリアン様はいったいどんな手を使ってチャールズ様とリチャード様を呼び戻したんですかね」
「……」
昨日どんな話があったのかは詮索しないけれども、そのくらいは教えてくれるなら教えてほしいと彼女は訴えてくる。
「フン。わざわざ海を渡って押しかけたらしい」
「マクシミリアン様が?!」
「そうだ。それも一人で。……まったく、よくも身重の妻を置いて行けたものだ」
苛立たしく吐き捨てた彼に、エミリーは驚きのあまり丸くした目を伏せた。
「さすが…………やはり、お二人の子だね」
「まったくだ。油断も隙もあったものではない」
少し目を離した間にとんでもないことをしでかす。いつだって、クリストファーがしでかしたあとで知るのだ。そうした尻拭いをするのは彼の役目だった。
行動に移す前に後のことを考えろと、何度口酸っぱく言ったことか。考える時間が惜しいのだと申し訳無さそうに言うその口を、何度殴りつけたいと思ったことか。似た者夫婦とはよく言ったもので、パトリシアまでそういうところがあった。そんな二人の欠点は、死ぬまで治らなかった。
息子のマクシミリアンは二人に比べればマシだったはずだ。下手な変装をして下町の娘に熱を上げたりするのは、まだ可愛いものだった。結婚してからはずいぶん落ち着いたとすっかり油断していたのがいけなかったのだろうか。
「まぁ、無事に帰ってきたようでなによりじゃないか」
「フン」
フィリップはとてもなによりとは思えなかった。
(わたしがもっと早く素性を明かしていれば、こんなことにならなかった)
秘密を守り通せたのだ。
甥が諦めてくれるとは、初めから期待していない。ただ、何十年経っても心の準備が必要なだけで、ある程度は事情を察して欲しくてパトリシアの日記を渡した。
気が重いとため息をついて、彼はためらいがちに尋ねる。
「ところで、ルーシーは息さ……どうしている?」
息災かと尋ねようとして適切ではなかったかと言い直した彼に、エミリーは顔をしかめる。もう何年も触れなかったのに、いきなり何をと。
「ええ、息災ですよ。まだ会長に直接お礼を言えなくて申し訳ないって、この間も手紙に書いてあったけどね」
「礼などいい。そうか、息災か。それはなによりだ」
エミリーの答えに心から安堵した彼は、ようやく重い腰を上げる。
おそらく、今日にでもまた困った甥は押しかけてくるだろう。そうなる前に、こちらから出向くしかないのだ。
彼はエミリーに今日一日フィリップ・グッドマンは休みにすると告げると――、
「大公がご病気で丘の上に引きこもっているくらいだから、
その遠慮のない言葉に、フィリップは鼻を鳴らしてこの日初めて笑った。
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