入れ墨

 領主館の敷地内にある迎賓館は、マクシミリアンが前の領主の別荘を移築し改装したものだ。

 商業都市リセールの行政長官とリセールの領主を兼任するリセール公にもなれば、リセールの顔役たち、領内の名士たちだけでなく、国内外の要人たちを招くのに必要だからと助言したのは、フィリップだ。前の領主は、無能ではないけれども有能とも言いがたい男だったけれども、移築した別荘を含む実物資産の趣味はかなりよかった。国が誇る花の都の彩陽庭園に並び立てなくとも、ゆくゆくは水の都リセールが誇れる丘の上の領主館になればと、マクシミリアンは考えている。


 妻とともに迎賓館に訪れたマクシミリアンは、まっ先に遊戯室に向かった。

 案の定、双子の叔父たちは朝からビリヤードを興じていた。


「よう、どうした。朝からそんな怖い顔してよ」


 慌てた様子でやってきた夫婦に、チャールズはカラカラと笑う。彼もリチャードも、王国の服を着ると真っ当な紳士然としている。そして、ここでも黒と白でコーディネートしていた。


(ああ、この人たちはどこでもこうなんだな)


 すでに我が家のようにくつろいでいる彼らを、マクシミリアンは妙に感心してしまう。彼らのように、自分たちのペースを保つために周囲のペースを乱すような生き方に、少しだけ憧れのようなものを抱いてしまう。けれども、同時に自分には到底無理だとはっきり自覚もするのだった。

 マクシミリアンは例の日記の最後のページにいても立ってもいられず、そのままの勢いで妻を連れてここまで来た。若干取り乱していた彼は、あいかわらずな双子の叔父たちのおかげで冷静さを取り戻した。

 そんな彼の隣りにいるデボラのもとに駆け寄ってきたのは、惜しみなくリボンをあしらったスカートをはいたチェチェだ。羽飾りが重そうなボンネットで剃り上げた頭を隠した彼女は、もうどこからどう見ても可愛い少女でしかない。

 昨日まで少年だと疑いすらしなかったマクシミリアンには、直視できないほどのまばゆい笑顔でチェチェは妻を見上げて、スカートの裾を握りしめる。そして、


「ごきげんヨー、おネーさま」

「ん゛っ」


 変な声が飛び出した口を右手で覆い、大きく脈打った心臓を左手で抑えながらも、マクシミリアンはチェチェと妻から目が離せない。


「ごきげんよう、チェチェちゃん。フフッ、やっぱり可愛いわね」

「かわい? チェチェ、かわいい!!」


 可愛いという褒め言葉は知っていたようで、チェチェは目を輝かせて飛び上がる。


(なにこれ、反則だろ!! あのチェチェが、ここまで可愛くなるとか、拙いカーテシーとか、なにこれ、尊すぎて無理!! なんだよおネーさまってのはっ、サイッコーかよ)


 両手を振り上げた拍子にずれたボンネットをにこやかに直しながらも、デボラは隣で悶絶する夫に内心呆れていた。


 チェチェの可愛い服を用意したのは、間違いなくリチャードだ。デボラに向かって挨拶するように仕込んだのも彼だろう。

 いくらか心臓が落ち着いたところで見やったリチャードは、憎たらしいほど得意げだった。


――どうだ?

――……いいです。めっちゃよきです!! ありがとうございます!!


 これは何が何でも、妻に頼んでリチャードがまだ手に入れていない小冊子を進呈せねばならない。

 目だけで同志と会話していたマクシミリアンに、デボラはわざとらしく咳払いをする自分をネタに百合な妄想するのはかまわないけれども、本題を忘れてもらっては本末転倒だ。ギクリと慌てて取り繕う彼の裾を引いたのは、チェチェだ。


「マクマク、ダイジョブ?」

「あ、ああ、大丈夫だ。もちろん、もちろん……」


 全然大丈夫ではなかったのだけれども、チェチェの無垢な瞳に他にどう答えることができただろうか。


 ――などというアクシデントに見舞われたあとで、彼らは応接室で腰を落ち着けた。

 訊きたいことがあると神妙に切り出したマクシミリアンがローテーブルの上に置いた物に、チャールズは眉を潜めた。


「そいつは、ウィル兄が持ってたパトリシアの日記だな。俺たちが見ていいもんじゃないだろ」


 それを言うなら、本来なら息子である自分も見ていいものではなかったはずだと、マクシミリアンは臍を噛む。


「……そうも言っていられないことが書いてあったんです」


 そう言って、彼は最後のページを開いて向かいに座る叔父たちに差し出した。


”入れ墨の男が誰だかわかったかもしれないって、帰ってきたクリスに言われた。

 まだ諦めていなかったなんて。すっかり諦めたと思っていたから、本当に驚いた。でも、肝心の奴の名前は教えてくれなかった。

 明日、赤煉瓦の小屋で奴と話をしてからわたしに教えたいって、とてもひどい顔で言うから、うなずくしかなかった。

 リアムもまだ知らないって。

 うん、わかっている。これ以上、こんなわたしのためにリアムの人生を犠牲にするべきじゃないって、話し合ったばかりじゃない。リアムには、リアムの人生があるって、納得したじゃない。

 そう、クリスの言うとおり。これは、わたしたちが、わたしたちだけで解決すべき問題で、リアムには明日の晩餐に招いて解決したことを、一緒に祝えばいい。リアムには、本当に感謝してもしきれない。だから、彼には幸せになってほしい。


 これで上手くいくはずなのに、どうしようもなく不安で怖くてたまらない。

 あの日のこと、忘れたことはない。これからも、あの入れ墨は一生忘れられない。クリスがこのままにしておけないのはわかるし、わたしも同じ気持ち。それでも、やっぱり怖くてたまらない。納得したし、そうするべきだとわかっているけど、やっぱりリアムに相談したほうが……いいえ、駄目。リアムのためにならない。


 早く、早く、明日が終わればいいのに。そうすれば、こんなわたしも少しは救われる。”


 最後のページでも、パトリシアは『こんなわたし』と自分を卑下していた。

 そして、残りの余白だった続きには、ひどく乱れ、滲んだ文字でこう書き殴られていた。


”言ってくれればよかったのに

 教えてくれればよかったのに”


 明らかにパトリシアとは違う筆跡。悲痛な叫びが聞こえてきそうなそれを書いたのが誰かは、誰の目にも明らかだ。


「どうやら、ウィル兄は俺たちが考えていたよりもずっと事件に関わっていたわけだ」


 自然と重苦しくなった沈黙を破ったチャールズの声から、いつもの軽薄さはなかった。

 こくりと頷いたマクシミリアンは、双子の叔父たちはパトリシアが書いた『入れ墨の男』も『あの日』に関することにも心当たりがないのだと察する。そもそも、両親が殺された日にはすでに彼らは国を出ている。

 事件そのものを解決する答えを知っていると期待したわけではないけれども、フィリップのもとを訪ねる前に一応彼らに確認しておきたいことがあった。


「お二人は、この入れ墨の男に心当たりはありませんか? お二人がすでに国を離れていたことはわかっています。ですが、ここに書かれている内容から推察するに、事件よりも以前から入れ墨を入れていた男、それも月虹城に出入りできる男となんらかの因縁があったはずなのです」

「ま、そうだろうな。しっかし、入れ墨ねぇ」

「ええ、入れ墨です」


 マクシミリアンは難しい顔して頷いた。

 この国では、入れ墨にいい印象はあまりない。入れ墨を入れた人を見かけたら、真っ当な者ではないと関わらないようにするのが普通だ。だから、王城に出入りするような者が入れ墨を入れるのは、どうにも考えにくい。それは事件当時も変わらないはずだと、マクシミリアンは考えていた。チャールズがおもむろに腰を上げて服を脱ぎだすまでは。


「なにしてるんで……えっ」


 隣りにいる妻が目に入らないのかと、マクシミリアンが荒らげかけた声は、チャールズが見せた背中に驚きに変わった。

 日に焼け引き締まった体躯をカンバスに大きく描かれていたのは、茨の冠を被った髑髏だった。髑髏の左半分が影に覆われた入れ墨の上には、無数の鞭の跡があった。入れ墨を消そうとしたのだろうが、かえって入れ墨に凄みを与えている。

 息を呑む夫婦にシャツをおざなりに羽織って、チャールズはこともなげに言った。


「俺らがこいつを入れたのは、一六のときだ」


 俺らということは、リチャードの背にもあるのだと、マクシミリアンとデボラは確信した。おそらく、右半分が影に覆われた対となる茨の冠を被った髑髏が描かれているのだと。

 彼らは、ならず者の証を王子だった頃に入れたというのだ。

 マクシミリアンには、とてもとても信じられないし理解できない。

 言葉を失い呆然とする彼に追い打ちをかけるように、チャールズは当時の月虹城の一部の若者の間で入れ墨が流行っていたのだと教えてくれた。


「俺らがいた頃の月虹城は、人目のあるところで首から上と手首より先の他の肌を露出することを、狂王が徹底的に禁じてたわけよ。夏場のクソ暑い時期でも、厚手のジャケットを着なけりゃならんかったし、ちょっと袖をまくっただけで、尻が割れるんじゃねぇかってくらい家庭教師にぶっ叩かれたんだぜ。マジで狂ってるだろ」

「…………」

「おいおい、今のは尻は元から割れてるってツッコむところだろ」


 甥夫婦のジト目を気にせずに、彼は続ける。


「ようは、それだけ厳しかったってことだ。指輪一つも罰の対象だったし、女は化粧も規制されてた。そんなクソ規則の抜け穴をついたのが、入れ墨だったってわけだ」

「抜け穴が入れ墨?」

「そ、入れ墨。服を着たら見えないところでオシャレをする。これが若者心をくすぐるんだよ。ちょいと悪ぶりたい年ごろならなおさらな」

「……なるほど」


 マクシミリアンにはわかるようなわからないような話だった。


(まぁ、規則を破りたいってところはわからないでもないか)


 リセールの下町でのお忍びデートがやめられなかったようなものかと、どこかズレたことを考えていた。


 入れ墨は、背中や胸、内ももなどに彫られていたのだという。


「俺らみたいにデカいやつ入れる奴は少なかっただろうが、ワンポイントでちょっとした入れ墨を入れる奴は珍しいわけじゃなかった。ああそうそう、男ほどじゃないが女もいるにはいたんだぜ。ちなみに女には恋人の名前とかが人気あったらしい」


 デボラはドン引きしたのか、顔が強張る。


「そういうわけで、入れ墨の男ってだけじゃあ、特定するのは無理だ」

「少なくとも、体のどこにどういう入れ墨かわからなければ話しにならない」


 チャールズにうなずきながら、リチャードは補足して日記をマクシミリアンに返した。


(やはり、フィリップから聞き出すしかないのか)


 どうしたものかと、マクシミリアン内心ため息をついた。

 双子の叔父から決定的な何かが聞けるとは期待していなかったけれども、今では考えられない当時の入れ墨事情を知れただけでもよしとすべきだ。問題は、肝心のフィリップをどうするかだ。

 思案にふける夫の隣で顔を強張らせたままデボラは、チャールズたちに尋ねた。


「服を脱がなければわからないところにあったというのは間違いないのでしょうか?」

「そりゃあ、見えるところに入れてたら即クビだからな。パトリシアが言う奴もそうだったのは間違いない」

「そう……それはつまり……」

「デビー、大丈夫か? 顔色が悪い」


 別の部屋で休ませるよう人を呼ぼうかと腰を浮かせた夫を引き止めるように、デボラは彼の手を強く握りしめた。


「大丈夫よ。ただ信じられないだけ」

「信じられない?」


 首を傾げた夫を、ありったけの批難を込めてデボラは睨みつける。


「あなたが気がつかないことが、まず信じられないわ!!」

「す、すまない」


 わけがわからないけれども、マクシミリアンはとっさに謝る。

 痴話喧嘩でも始めるのかとひとまず傍観を決め込んでいた向かいの男二人にも、彼女の怒りの矛先が向かう。


「あんたらもたわけか!! まぁかん。まぁかんわ。こんだで男は……」

「…………」


 訛り全開の剣幕に、さすがのチャールズたちも言葉がない。どうにかしろと訴えてくる視線に、どうしようもないとマクシミリアンは目を伏せる。


(入れ墨について、デビーはなにか気がついたのか)


 彼なりに考えてみたけれども、まるで見当もつかない。

 気がすむまでまくし立てたデボラの血色は良くなっていたものの、まだ顔の強張りは残っている。


「服を脱がなきゃ見えないってことは、つまり、つまり……」

「失礼いたします」


 ほとんど確信しているのにデボラがためらっているところに、使用人がやってきた。

 わけがわからないなりにも、彼女の剣幕にあてられ居心地悪い思いをしていた男たちにとって、その使用人はまさに救いの主だった。なぜかデボラも肩の力を抜いて、突然の使用人に安堵しているようだった。


 使用人は妙な男を追い返すべきか門番が判断に困っているという。


「その男は、大公のほうが自分に用があると言うのです」

「俺のほうがそいつに用があると?」


 それはたしかに妙な男だ。マクシミリアンに用があるという輩は珍しくないけれども、マクシミリアンのほうが用があると言ってのける輩は初めてだ。怪訝そうに眉間にシワを寄せた彼だったけれども、使用人の次の報告にはっと顔を上げる。


「それから、フィリップ・ウィリアムズと言えばわかるとも……」

「今すぐ連れてこい!!」

「はい! ただ今お連れします」


 完全に追い返せと命じられるだろうとたかをくくっていた使用人がアタフタと出ていくのを見送ったマクシミリアンが振り返ると、チャールズは得意げに笑った。


「な、リチャードの言っただろ、ウィル兄のほうから来るって」

「…………」


 それにしたって、昨日の今日というのは早すぎやしないかと、マクシミリアンは複雑な気分で肩を落とした。

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