亡き母の日記

 翌朝、目を覚ましたマクシミリアンは、あらためて我が家に帰って来たのだと実感する。これで一体何度目だと苦笑する。


(何度でも悪くないな)


 リセールが好きだ。この我が家が好きだ。まだぐっすり眠っている妻が大好きだ。帰る場所には、まだまだたくさんの好きで溢れている。

 これ以上の幸せがあるだろうか。

 夢も見ずによく眠れたせいか、ふと海を渡った大冒険が夢ではないかという疑念が頭をよぎる。そのくらい幸せないつもの朝だった。

 急に落ち着かなくなった彼は、それでもデボラを起こさないよう静かにベッドを抜け出した。

 まだ薄暗い寝室のテーブルの上にある『良妻賢母の手引き書』を手にとって確かめると、彼はほっと胸をなでおろした。


(夢じゃなかった)


 秘密の日記を装う本に『良妻賢母の手引き書』を選んだわけはわかる。女性の本棚にあっても違和感がないタイトルを選ぶなら、まず思い浮かべるのがこれだからだ。中身の良し悪しは置いておくにしても。


(デビーは、ものすごく嫌な顔するだろうが)


 妻の顔が目に浮かぶ。隠すにはちょうどいいタイトルだと説明すれば納得はしてくれるだろう。けれども、それはそれとして悪趣味だと罵るだろう。自分はそれを甘んじて受け入れる。

 そこまで想像して、ふっと失笑し首を横に振る。

 秘密の日記など、夫が贈るものではないと悟ったのだ。

 おそらく、どれだけ妻を愛していても読んでしまうに違いない。なにより、デボラは秘密の日記など欲しがりはしないと信じている。お互い、言えないことも知られたくないことも、見られたくない姿も当然ある。だからといって、わざわざ装丁を偽装してまで秘密を綴りたいとは思わない。少なくともマクシミリアンはそうだし、妻の性格を考えればそうだと信じられるのだ。


(ということは、母には人に言えないような秘密があったということだろうか)


 そして、フィリップは兄嫁が秘密を抱えていると知っていたのだろうか。

 彼が知るフィリップは、善人らしく贈り物選びに間違いはない。喜ばれ、必要とされる物を驚くほど正確に選び抜くのだ。かつても誰もが口を揃えて「面倒見が良い」と評していたことを考えても、母が秘めた胸の内を吐き出す手段を必要としていたから、こんな物を贈ったのではないか。

 そこまで考えたマクシミリアンは、少しだけ顔をこわばらせて『良妻賢母の手引き書』をテーブルに戻した。


 続き部屋で身支度を寝室に戻ると、妻は起きていた。


「おはよ、マックス。やけに早いけど、ちゃんとよく眠れたの?」

「おはよう、デビー。君のおかげでぐっすりよく眠れたよ」

「それならよかったわ」


 フフッと笑って、彼女は気持ちよさそうにあくびをする。


「大事なお客様方も、おやすみいただけたかしら」

「そんな心配する必要はないと思うがな」

「あんな可愛い女の子がいるのに?」

「……」


 あざとく笑って小首をかしげた妻に、マクシミリアンはなんとも言えない顔をする。

 ずっと少年だと疑わなかったチェチェはたしかに可愛い。けれども、まだ『可愛い女の子』には違和感しかない。


(いや、そんなことより……)


 帰りの船で狭い船室の中、身を寄せ合って横になっていたのは、もしかしなくとも知られたらまずい。背中に嫌な汗がつたう。


「どうしたの?」

「いや、なんでもない」

「……そう?」


 やはり一度双子の叔父たちをぶん殴っておかねばなるまいと拳を強く握りしめていると、女の使用人たちがやってきた。妻の朝の支度の時間だ。


「大公、奥様、朝食は迎賓館でお客様がただけで召し上がりたいとおっしゃるのですが、いかがいたしましょう?」

「そうか。そのように。……ああ、ではわたしたちも食堂ではなくここで食べることにしよう」


 鷹揚に答えると、マクシミリアンは使用人たちに妻をまかせ部屋を出ていった。

 結婚当初から、妻が身支度するときは席を外すようにしてきた。別にいても問題ないだろう。けれども、彼は書斎で執筆や読書をしたり、一足先に食堂で目覚めの濃いお茶を一杯飲んだりしてきた。女だけの時間が必要だと考えるのは、彼が百合小説家だからだらだと、従弟の国王は揶揄するに違いないだろう。

 この日は、書斎で執事たちから話を聞くことにした。留守中のことや、彼が連れてきた客のことなどなど、話すことは山ほどあった。


「そうか、すでに口止めしてくれたか」

「はい。非情の双子王子の帰還となれば大事ですので、ひとまず大公の許可があるまで口外しないよう言いつけておきました」


 本当にもったいないくらい優秀な人材ばかりで頼もしいことこの上ない。

 マクシミリアンがすっかり失念していたことも、しっかりやってくれている。

 非情の双子王子の帰還――彼らのペースに振り回されっぱなしで失念していたけれども、執事の言う通り国中を騒がせる大事だ。国王を差し置いて、歓待していいはずがない。


(あいつら、ジャックにまったく関心ないからな)


 アスターまで国王に会い行く気など毛頭ないだろう。

 そもそも、彼らはマクシミリアンを次兄に会わせるのが目的だったはず。その目的は早々に達成されてしまった。


(他に目的があるのか? というか……)


 ぐっと眉間にシワを寄せた彼に、執事は尋ねる。


「ところで、お客様がたはいつまでこちらに滞在されるのですか?」

「…………」


 ちょうど同じことを考えていたマクシミリアンは、大きなため息をついた。


「あとで聞いておく」

「……かしこまりました」

「皆にはしばらく苦労をかけるが、よろしく頼む」


 そう言って、彼はこめかみを揉みながら書斎を後にし、妻のもとに戻った。




 予想しておくべきだった。山盛りのベイクドビーンズくらい。


「チェチェといったかしら、あの子、ベイクドビーンズがとても気に入ってくれたんですって。毎日食べたいって言ってたらしいの」

「……そうか。それはよかったな」


 嬉しそうに笑う妻には悪いが、あとでそうならないように厨房に言いつけておかねば――そう夫が心に決めたことくらい、もちろんデボラはお見通しだ。彼女は、強面の料理長が実は子ども好きだと知っている。


(せっかくリセールに来てくれたのに、ベイクドビーンズを堪能してもらわないなんてありえないわ)


 このとき、彼女はピュオルからの客人はせいぜい数日しか滞在しないと考えていた。なので、なおさら毎朝ベイクドビーンズを食卓に並べなくてはと、使命感を燃やしているのだ。せいぜい数日くらい、夫も我慢できるだろうと。

 まさか二ヶ月近くも居座るなどとは、マクシミリアンとデボラどころか、とうのチャールズたちもまったく予想していなかった。


 朝食の後は、いよいよ例の日記だ。


「これが、パトリシア様の秘密の日記なの?」

「ああ。だから、そんな親の仇を見るような目で見ないでくれないか」


 案の定、妻は『良妻賢母の手引き書』にいい顔しなかった。


「わかっているわよ。装丁だけだってことは。でも、良く出来すぎていてなんかムカつく」

「ハハハ……」


 乾いた声で笑う夫をジトリ睨みつけて、デボラはため息をついた。彼女もわかってはいるのだ。既婚女性の本棚に違和感なく紛れ込ませるなら、『良妻賢母の手引き書』ほどぴったりな本はないことくらい。ついでに言えば、その女を馬鹿にしたような内容からほとんど人の手に触れられないという点でも、秘密の日記にはうってつけだ。


(…………まさか、パトリシア様の愛読書なんてことはない、よね)


 上の世代には、この悪書を称賛する女性も少なくないのだ。後ろ盾のスプリング家の大奥様もその一人。洗脳された女たちと、デボラは心のなかで呼んでいる。考えてみれば、パトリシアもその一人でもおかしくないのだ。

 現に明晰王と讃えられるコーネリアスですら、最期まで結婚こそが女の幸せだと信じて疑わなかった。女旅行家アンナ・カレイドが自立した新しい女性像と注目されるようになったのは、ここ数年のこと。夫の機嫌をとる方法に、家計を助ける手段としてバレないように体を売る方法などなど、間違っているとはっきりと口に出せるのは、ただ単に周囲の人たちの理解があってのことだったのかもしれない。マクシミリアンに出会うことなく、ごくごく普通の女の人生を送っていたら、悪書の教えをしかたないと受け入れていたかもしれないのだと気がつきぞっとした。


(わたしは本当に幸せ者ね)


 黙り込み難しい顔をする彼女に身を寄せて、マクシミリアンは日記を手に取る。


「じゃあ、読もうか」

「うん」


 聞いていたとおり、パトリシアという女性は文章を書くことが好きな人だとすぐにわかった。たおやかな美しい文字で、誰の目に触れさせるつもりがなかったせいか、とても率直な気持ちが綴られている。

 どうやら、義弟から贈られたその日から書き始めているようで、最初の日付はマクシミリアンが生まれる五ヶ月前だった。


”リアムが言うには、こういう『秘密の日記』が流行っているらしい。そもそも日記なんて、他人に読ませるものじゃないのに、わざわざ『秘密の日記』だなんておかしな話。

 それにしても、『良妻賢母の手引き書』だなんて。リアムにそんなつもりはないことくらいわかっている。嫌がらせだと考えてしまうわたしが、馬鹿なだけ。きっとリアムは、こんなわたしでも良き妻、良き母になれると応援してくれているんでしょう。こんなわたしでもそうなれたとしたら、それは全部クリスのおかげだというのに”


「……こんなわたし」

「……」


 顔を曇らせた妻の口からぽつりとこぼれたそれに、マクシミリアンも胸が詰まった。

 パトリシアは、詩才あふれる聡明な才女だったはずではないか。人を惹きつけるヴァルトの愛すべき花で、誰からも王妃になる日を待ち望まれていたはずだ。

 そんな素敵な人が、なぜ自分を卑下するような言葉を使うのか。それも一度だけならまだしも、何度も繰り返し繰り返し。


 なにか恐ろしい予感に急き立てられるように、マクシミリアンはページをめくっていく。

 たった数行のときもあったりと、たくさん書かれている日とそうでない日もあるけれど、パトリシアは贈られたその日から毎日欠かさず書いていた。

 日に日に心を病んでいく狂王に苦悩する夫のこと。些細なことで心配してくるウィリアム王子のこと。キャサリン妃からのありがたい小言。それから、生まれてくる我が子に対する不安――など、当時狂王が奸臣佞臣ばかり取り立てて国中に王家に不満を募らせていたことを考えれば、平和的な内容の日記だ。じっくり読むのは後回しにして、急いで目的の日付を探している間にも、たびたび自分を卑下する言葉が目につく。


(いったい、なんなんだ。どうして母は……)


 どちらかといえば自己肯定感が低いほうだという自覚があるマクシミリアンでも、これまで耳にしてきた母親像との激しい乖離に理解が追いつかない。

 ページをめくる手を止めた目的の日付けは、三〇年前の十一月四日。マクシミリアンが生まれた日だ。そのページには、綺麗に折りたたまれた紙が挟んであった。

 栞代わりに使われていたのだろうか。彼はひとまず妻にそれを預けて、先に日記を読むことにした。


”男の子!! 男の子だった!!

 よかった。本当に男の子でよかった。

 ありがとう。クリスを父親にしてくれて。本当にありがとう……”


 それまでの丁寧な字ではなく、少し乱れた字が亡き母の昂ぶった想いを伝えてくれた。

 産婆に兄と勘違いされたウィリアム王子が、先に待望のわが子を抱きあげていたのを見たクリストファーの滑稽なまでに悔しがったなんて、初めて知った。


 ”……クリスは、わたしが必要としているときにいつも遅れてくる。あの日だってそう。わかっている。どうしようもないことだったことくらい。あの日も、今日も。きっとそういうめぐり合わせが悪いなのね。せめて、この坊やが必要としたときは遅れないでほしい”


 その日の日記はそう締めくくられていた。

 まるで、自分たちの最期を予感していたようではないか。二人が暗殺された日だって、クリストファーが遅れなければ結末は違っていたかもしれない。

 マクシミリアンは日記を閉じて、両手で顔を覆いうなだれた。


 母の卑屈な一面があったことのは意外すぎて驚いた。それでも、自分がどれほど望まれていたのか、愛されていたのか、よくわかった。なのに、それなのに──、


(どうしてこんなに苦しいんだ)


 喜びよりも、悔しさばかりで胸が苦しい。

 生きていて欲しかった。あんなふうに殺されていい人たちではなかった。顔も覚えていないせいで、書かれていたことの半分も思い浮かべられない。


「マックス、ねぇ見て」


 デボラがそっと見せてくれたのは、挟んであった紙を広げた物だった。

 そこにあったのは、藍色のインクの小さな手と足。


「……こんなに小さかったんだな、俺は」


”かけがえのない宝物M”と書かれているのも目にしてしまっては、もう駄目だった。

 むせび泣く夫の背を、デボラは優しくさする。

 しばらくして夫がだいぶ落ち着いた頃、彼女は日記を手に取った。


(やっぱり気になるのよね)


 度々自分を卑下する言葉以外にも、彼女には気になるところがあった。


(あの日って、何かあったのかしら)


 クリストファー王太子が必要になるようなことが。


 夫に悪いと思いながら、彼女はページをめくっていく。

 そして、あるページで手を止めた彼女は、驚きのあまり息を呑んだ。


「これって……ねぇ、マックス、これ!」


 動揺する妻が突きつけてきたページ。それは、亡き母パトリシアが書いた最後のページ。つまり、殺される前日だと気がついた彼は、乱暴に涙を拭い、妻から日記をもぎ取って目を走らせる。すぐに、妻が驚きの声を上げた理由がわかった。


「…………入れ墨の男」


 事件当日、クリストファーが赤煉瓦の小屋に呼び出した人物に関することが書かれていた。

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