あの頃の少女と王子は今
夫の帰宅は、もちろん飛び上がりたいほど嬉しかった。
たった一人で海を渡るなど、無謀も無謀。自殺行為だと、赤の他人であれば鼻で笑って馬鹿にしたに違いにない。あいにく、海を渡ったのは赤の他人ではなくて、誰よりも大切な愛する夫。その背中を押して送り出したのは、他でもない自分だ。
(もし誰が知ったら、わたしたち夫婦を笑うでしょうね)
それも悪くないだろう。ただでさえ、下町出身のリセール公夫人など世間の嘲笑の的なのだ。今さらなんだというのだ。無事に帰ってきた。それも、帰らずの双子王子を連れて帰ってきた。すごいことだ。
信じ続けるのは、とても難しく辛かった。
夫だけでなく、自分自身も誇らしい。
馬鹿なことをしただけのことはあった。
(大丈夫。ちゃんと胸を張っていられるわ)
肩掛けをしっかり巻いてバルコニーに出た彼女は、リセールの街を眺める。
肌寒い。日が落ちれば、当然のことだ。リセールは南西の端に位置するため、国内でもっとも早く春を迎える地方だとしても。
涼しいと冷たいの間の風が、高揚し火照った体には心地よい。
眼下の街の灯りは時計台のある行政庁舎とその周辺に集中している。デボラが生まれ育った家のあるあたりは真っ暗だ。後に夫ととなるボサボサ頭にダサいメガネ男に出会う前、ロマンス小説が大好きな少女は、一晩中灯りが消えることのない丘の上を家族が寝静まった後も屋根裏部屋の明かり取りの窓からよく眺めていた。お気に入りのヒロインはあんなキラキラしたところにいるのだと想像しながら、月や星、小遣いで手に入れた自分専用の蝋燭の灯りで、大好きなロマンス小説を読みふけった夜は数え切れない。その少女が、今では丘の上のリセール公夫人。それだけを聞けば、ロマンス小説のヒロインそのものだ。けれども、当の本人にはそんな実感は不思議なくらいなかった。本当に、不思議なくらい。
この丘の上と親しみを込めて呼ばれる領主館では、夜でも本が読める。かつての屋根裏部屋の少女が、目を輝かせて喜ぶ夢のおうちに住んでいる。もっとも、あの頃のように寝落ちるまで夢中になって夜に本を読むことはほとんどなくなってしまったけれども、それが大人になるということだろう。
マクシミリアンの愛人ではなく夫婦となれたのは、先の王コーネリアスのはからいのおかげだ。
せめて、リセール公夫人として恥じることのないよう努力するのは、当然のことだろう。王妃のジャスミンでさえ、国民に愛されるように努力しているのだから。
子を宿したことで焦っていたのだと、今ならわかる。
このままではいけない。夫や国王夫妻、後ろ盾のスプリング家に守られてばかりではいけないと。
強引に夫をリセールから送り出したあと、これまで以上に使用人たちと向き合い、リセール公夫人としてどうあるべきかを真剣に悩み考えてきた。明確な指針は得られなかったけれども、充実した時間だった。もちろん、夫が一人でリマンを離れたと知らされたときは、どうかなりそうだったけれども。
(でも、信じてた。絶対帰ってくるって)
これから先、迷い悩むことがあっても、どんな困難にみまわれても夫を信じ続ける。それが、デボラが導き出したリセール公夫人のあり方だ。
あまりの充足感にフフッと笑っていると、背後から抱きしめられた。振り返らなくてもわかる。夫だ。夫のマクシミリアン以外、誰がいるというのだ。
「デビー、体を冷やすぞ」
「フフッ、大丈夫。冷やす前に、あなたがこうして温めてくれるって信じていたもの」
「まったく、かなわないな。さ、中に入ろう」
「そうね。あなたも湯冷めしたら大変ですもの」
ぴったり寄り添いながら部屋に戻るなり、マクシミリアンは再び背後から抱きしめる。彼の長旅の疲れと汚れを落とした石鹸の匂いが鼻をくすぐる。
お風呂で綺麗サッパリした彼は、執拗に妻のうなじに鼻を押し当てて匂いをかいできた。
「デビーの匂いがする」
「どんな臭いよ」
「もちろん、いい匂い。優しくて温かい。俺の大好きなデビーの匂いだ」
「ちょっ……恥ずかしいこと言わ……ンッ」
聞いたほうが恥ずかしくなって抗議しようとしたら、熱烈なキスで封じられた。
離れていた時間と距離を埋め合わせるつもりなのか、熱烈に求めてくる。それが、嬉しくてたまらない。正直、妊娠してから女として見られていないのではと不安があったから、なおさら嬉しい。
と、熱烈な求めは突然終わってしまった。ひどく驚いた顔をした夫は、さっきまでとは打って変わって壊れ物を扱うように優しく抱きしめなおす。特に、大きなお腹を。
「……動いた?」
「そっか。あなたは初めてだったわね。あなたが帰ってきてから大人しいから拗ねちゃったのかと思ってたけど、杞憂だったみたい」
「……蹴った?」
「そう、蹴った。パパがあんまり激しいから怒っちゃったのよ」
「…………」
「なんて冗談よ。無事にパパが帰ってきてくれて、この子も嬉しいんでしょう」
「そっか。そうか、そうか……」
初めて自分の子をその手で感じた彼は、感極まって妻の肩に顔を埋める。
「生きているんだな」
感慨深げに当たり前なことを言った自分がなんだかおかしい。
「生きているこの子とデビーに向き合おうとして、顔も覚えていない両が誰になぜ殺されたのかを調べている。なんだか、おかしいよな」
「そういわれてみれば、たしかにおかしいわね」
クスクスとつられるように笑ってから、デボラは彼の腕をほどいて振り返る。
「でも、それもいいんじゃないかしら。貴重な休暇よ、やりたいことをやらなきゃ。それにたぶん、今のあなたに必要なことよ。だから、みんな協力してくれるのよ」
「愛されてるな、俺は」
嫌味に聞こえてもよさそうなものだけれども、マクシミリアンが言うとまったく嫌味にならない。
自分が愛されるように努力しているように、夫も努力しているのだとデボラはよく知っている。彼女だけではない。リセールの民なら誰もが知っているから、愛すべき大公と慕われているのだ。
夫にソファーにいざなわれ先に腰を下ろしてから、デボラは「あっ」と思い出した。
「いけない。忘れてたわ。アンナから手紙を預かっていたの」
「俺に?」
「そう、その机の一番上の引き出しにしまってあるわ」
ピュオルに発つマクシミリアンと入れ違いに訪れたアンナが、彼が帰ってきてなお事件の真相解明を諦めていないならと預かったのだと聞きながら手紙を取り出した。
「アンナはフレイズ国に行ったらしいな」
「ええ。初めての国外旅行ですごく浮かれていたわ。どうして知っているの?」
「ん、あーそれは……」
どう説明しようかと思案しながら、マクシミリアンは封を切り手紙を取り出した。
(フィリップが、死んだウィリアム王子だったとかいきなり言うわけにもいかないしな)
旅立つ前から妻には包み隠さずに話そうと決めている。背中を強く押してくれたのは彼女なのだから、当然のことだ。もちろんフィリップのことも教えるつもりだ。とはいえ、やはり順序というものがある。長くなるけれども、やはり初めから話すべきだろうか。
などと考えながら手紙に目を走らせたマクシミリアンは、額に手をやり天を仰いだ。
「……あんの女狐」
「どうしたの?」
夫の口から女狐呼ばわりするのを初めて耳にしたデボラはギョッとして見上げた。マクシミリアンは彼女の問いに答えずに、隣にドスンと腰をおろして手紙を押しつけた。
「わたしが読んでいいの?」
無言で首を縦に深く振り下ろしたままうなだれる夫に嫌な予感を覚えながら、デボラもこわごわ手紙を読んだ。
「えっ!! ちょっとどういうこと?! は? あのフィリップが死んだウィリアム王子? ありえぇせん。ありえぇせんわ、こんなん信じられん」
手紙には、あの日どうしても言えなかったことがあると謝罪の言葉から始まり、フィリップ・グッドマンの正体について書かれていた。
信じられないと何度も読み返す妻を横目に、マクシミリアンは深々と息を吐いた。
(わかる。信じられないよな)
まさかマクシミリアンがピュオルに行くなんて考えもしなかったアンナは、フレイズ国に一時的に逃げる算段をつけてから、フィリップの正体を教えるつもりだったのだ。フィリップの彼女に対する態度を目の当たりにしたあとでは、彼女の行動も理解できないものではないから困る。
書いてあることは信じられないけれども、読み間違えようがないことを確認したデボラは、うなだれて額をおさえる夫の腕を掴んでゆする。
「ねぇ、なんであんたはそんな平然としとるん? あんたも知らんかったでしょが。なんでビックリしとらの?」
「実は、今日会ってきたんだ」
苦笑いとともに帰ってきた答えに、数回瞬きをして彼女は思いっきり息を吸い込んだ。
「誰に? まさかウィリアム王子としてのフィリップに会ってきたんじゃないでしょ。さすがに……」
「そのまさかだよ、デビー」
「ねぇ、ちゃんとわかるように説明して」
「長くなるがいいか?」
「かまわないわ。とてもじゃいけど、このまま眠れないもの」
「はぁ……わかった。じゃあ……」
マクシミリアンは、ピュオルに上陸したあの日まで遡ってゆっくりと話し始めた。
ピュオルでいきなり倒れた自分をチャールズたちが拾って助けてくれたこと。あの不味いが効き目はすごい薬湯。ビリヤード。双子からウィリアム王子が生きていると教えられたこと。チェチェ。アウルンコーガー。髪の毛が大好物な人を喰うナニか。それからそれから……。
「あなた、わたしが想像していたよりずっとすごい冒険をしてきたのね」
聞き終えたデボラは、それしか感想が浮かばなかった。
「呆れるくらい、自分でもそう思うよ。なのに、アンナが最初に教えてくれたらほとんどしなくていい冒険だったと思うと、なんだかこう……」
「……そうね、なんだかこう、ね」
今度会ったら文句言わなくては。
声に出さなくても、二人の気持ちは一つだった。
(フィリップから逃げたのだとばかり思っていたが、これは俺からも逃げた可能性もあるんじゃないか)
二人はそろって「あーあ」と天井を見上げる。それがなんだかおかしくて、そろってクスクス笑いあう。
「でも、しなくていい冒険だったとしても、無駄とはかぎらないはずよ」
「そうだな。俺も無駄にするつもりはない」
「というか、あなた一人じゃフィリップがウィリアム王子だってわかっても、知らなかったことにするでしょう」
「……否定できないな」
一方的に気まずくなるだけだったかもしれない。
双子にだまし討ちのように連れて行かれなければ、素顔を見る勇気はなかった。間違いなく。
それだけでも、ピュオルに行った意味があるという証左になるだろう。
「フィリップがあなたの叔父の一人だったとはねぇ。でも、意外じゃないわね。むしろ、腑に落ちたわ」
「腑に落ちた?」
「あなたは知らないかもしれないけど、あなたがリセールに来たばかりの頃、あの仮面男がやたら気にかけているってちょっとした噂になってたのよ。王子様だからって忖度するような人じゃないのに、全然態度が違うって」
「態度が違う?」
「ええ。中央から来た行政長官の少しの間違いも許さない人だったのよ、彼」
「まさか、長続きしない原因はあいつ一人のせいだったのか?」
「ええ。商人は、所詮商人。なのに、彼だけは政に詳しい。だから、仮面をかぶる本当の理由は、王都でも顔が利く貴族様だったんじゃないかって説もあったわ。あれ、あながち間違ってなかったのね」
「……間違ってなかったな」
水都の行政長官がころころ変わっても、たいした混乱も問題もなく街が維持できてきたのは、庁舎に勤める役人がみな優秀だからだとばかり思っていた。事実、彼らはみな優秀でリセールの街のためによくやってくれている。そこに、かつてクリストファー王太子の右腕だったフィリップが口と手をだしていたのだとしたら――
マクシミリアンはこめかみを揉んだ。
(俺が考えていた以上にフィリップに世話になっているんじゃないか、これは)
嫌な気はしないけれども、この先も彼に頭が上がらないだろうと思うと少し複雑だ。
ふぅと息をついて、妻を見つめ直した。
「それで、フィリップから母の日記をもらったんだ」
「パトリシア様の日記ですって?!」
「叔父上の手紙に見つからなかったって書いてあっただろ。フィリップが持っていたんだ」
「どうりで見つけられなかったわけね」
「明日、一緒に読まないか、デビー」
「明日?」
「ああ。今日一日、いろいろありすぎた。今ごろになって、疲れがどっと……」
「そうね。もう寝ましょう。夜も遅いし」
寝室に向かったマクシミリアンとデボラは、夢の中までぴったりとよりそい離れることはなかった。
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