善人の本棚

 気がついたら、そこはグッドマン商会本部だった。

 冗談抜きで、カフェブレンディからグッドマン商会までの記憶が綺麗に抜け落ちていた。

 それほどの衝撃だった。

 死んだはずのウィリアム・ヴァルトンが生きていたと聞かされたとき、これが人生最大の衝撃の事実だと思った。これ以上はないと。

 ところが、ところがだ。軽く上回る衝撃に、これほど早く襲われることになるとは。

 有り体に言えば、マクシミリアンは完全に現実逃避していた。

 ひそかに尊敬の念を抱いていた相手が、叔父の一人であると理解できても、そう簡単に受け入れられるわけがない。心の準備以前の問題だった。

 放心状態になったマクシミリアンを、チャールズはこれを幸いにと荷物のように担いでグッドマン商会本部まで連れてきた。ああだこうだとゴネられたりするのに比べたら、大の大人を担ぐなど軽いものだった。


「…………帰りたい」


 いつの間にかフカフカのソファーに腰を落ち着けていたマクシミリアンは、ようやく絞り出すようにぼやいた。


「マクマク、ダイジョブなった」

「ああ、大丈夫になったな」


 藍色の瞳に弱々しくも生気を取り戻したマクシミリアンは、隣に座っていたチェチェからお茶請けの焼き菓子を受け取る。

 向かいのソファーで足を組みお茶をすすっているチャールズは、まるで我が家のようにくつろいでいるのが、なんだかイラッとする。

 ナッツがゴロゴロしている焼き菓子を噛み砕いているうちに、マクシミリアンは冷静さを取り戻した。


(なるようになれだ)


 リセールを離れたことに対する厳しい説教は避けられないだろう。けれども、マクシミリアンはフィリップ――いやウィリアムから嫌というほど説教をくららってきている。今さら心が折れるほど打たれ弱くない。


(いや、違うな。最初から俺の心が折れないように、鍛えてくれたんだな)


 おそらくチャールズとリチャードは、マクシミリアンとウィリアムの関係を知っていたのだろうと、ふと悟った。直前まで教えてくれなかったのは、そのほうが面白いからとかそんないたずらごころに決まっている。間違いなくチャールズは、そういう男だ。そして、チャールズたちに教えたのは、コーネリアスに違いない。

 コーネリアスが、なぜ突然リセールの行政長官に任命したのか、ずっとわからなかった。けれども、それだって名前を偽り身分を変えた実兄がいるとなれば、疑問でもなんでもなくなるのだ。

 仮面の善人は、本当に面倒見がよすぎる。


 グッドマン商会本部を訪れるのは初めてではない。けれども、会長の私的な部屋に入ったのは、これが初めてだった。

 黒い頭巾に仮面、それからキツい女物の香水。常に趣味の悪い出で立ちをしているものだから、自然と私室も趣味が悪いのだろうと決めつけていた。


(嫌味なほど趣味がよすぎるだろ)


 目に優しい壁紙。

 流行り廃れのないどっしりとした造りの調度品。

 ちっとも邪魔にならない壁の淡い風景画。

 座り心地のよいソファーなどなど。

 部屋の主ではないのに、我が家のような居心地がいい。

 こんな居心地のよい部屋は、花の都アスターの豪勢な邸宅でもなかなかお目にかかれない。

 お忍び用のダサい伊達眼鏡を外してしまう程度には、すっかりくつろいでいる。


「ちょといいか、マックス」


 背後からそう呼びかけたのは、リチャードだ。彼はソファーに腰を落ち着けることなく、次兄の部屋を見て回っていた。

 呼ばれたマクシミリアンは、特に何も考えずに本棚の前にやってきた。そして、すぐに後悔した。


「……なんでだよ」


 見間違いであってくれと、声にならない叫びをあげた。

 本棚の鍵のかかったガラス扉の向こうには、自分が書いた百合小説の背表紙が几帳面に並んでいた。それもすべて。そう、きっちり


「これもお前が書いたやつか?」

「ええ、そうですよっ」


 リチャードが指さし、暗に持っていないとなじったのは、隙間に差し込まれた小冊子だった。

 妻の女性向けの出版社が雑誌を創刊したときの付録で、五〇部しかこの世に存在しない小冊子。百合ではなく少女たちの友情を描いた掌編を筆名すら伏せて匿名で寄稿したものだ。評判はそこそこで、熱心なファンでもリリー・ブレンディの著書だとわからなかったはずだ。


「それがどうして……」

「だから言ったろ。ウィル兄には収集癖があるって」


 ニヤニヤ笑いながら、チャールズが後ろから本棚を覗き込む。

 リリー・ブレンディの新作を心待ちにしているリチャードにとっては、これっぽっちも面白いことだった。


「マックス……」

「妻に言えば、一冊くらいは融通できると思います」

「感謝する」


 満足そうに唇の端を持ち上げたリチャードに、マクシミリアンはがっくりと肩を落とした。


 収集癖。

 なるほどと、マクシミリアンはげんなりした。

 まことしやかに囁かれている『フィリップ・グッドマンの仮面のコレクションは、倉庫一つでも収まらない』という噂が、いよいよ現実味を帯びる。


(仕事が趣味と言わんばかりの男だったのにな)


 鍵付きの本棚には、『英雄のロバ』『導きの魔女アンナの格言集』などといった古典名作の初版本に限定版といった稀覯本が収められている。いったいどれほどの財産をこれらにつぎ込んだのだろうか。まったく見当もつかない。

 そんな値段もつけられないような本棚の一段の半分以上を占領しているのが自分が書いた大衆向けの百合小説。

 なんともいえない複雑な気分な甥をよそに、チャールズが彼の本と同じ段に並べられた残りの本に興味を示した。


「なぁリチャード、これってもしかして……」

「パトリシアの詩集だろうな、わたしの記憶が正しければ、だがな」

「これが?」


 母の詩集だと言われて、マクシミリアンは思わずガラス扉に手をのばす。

 優しい淡い色の布張りの本。四巻まである詩集がそれぞれ三冊ずつで、計一二冊。コーネリアスの手紙にあったとおりだ。一国の主の要求をはねのけるような好事家など本当にいるのかと疑わしく思っていた。けれども、実の兄となれば納得だ。

 コーネリアスが手紙で初めてその存在を知ったはずなのに。

 つい先日まで、実の親に関心がなかったはずなのに。

 なのに、なのに、どうしてこんなにも目頭が熱くなるのだろうか。

 チャールズとリチャードは、目頭を押さえる彼の肩をポンポンと軽く叩いて離れていった。


「チェチェ、一人で全部食うんじゃない」

「コレ、ウマい。チェチェ、大陸語わからないヨ」

「しっかりわかってんじゃないか」

「アーーーー」


 華奢な見た目に反して、チャールズは大食らいのチェチェの耳を引っ張り上げる。

 チェチェをチャールズとリチャードに託して、両親はおろか部族そのものが島ごと海に沈んだと帰りの船で聞かされた。

 しかも、ちっとも笑わない子どもだったという。そんな少年とたったの三年で、家族のような関係を築き上げた。


(まったく、ちっとも『非情』ではないじゃないか)


 はるばるピュオルまで行って、一番の収穫は双子の叔父が『非情』ではないとはっきりしたことかもしれない。

 息子同然だと押しつけられた子どもを可愛がるような二人は、情が深いに違いないのだ。

 グリグリと眉間を揉んで涙を抑え込んだ彼の目に一冊の本が目に止まった。

『良妻賢母の手引き書』

 母の詩集と自著の間にあったそれは、いくら考えてもこの本棚に収められている理由がわかりそうになかった。

 不釣り合いという点では、自著といい勝負だ。けれども、『良妻賢母の手引き書』の著者は身内ではない。その違いは大きいだろう。

 八〇年前の月虹城の侍従長が、良き妻の心得をわかりやすくまとめた本だ。身分を問わず花嫁への贈り物の定番として、広く知られている。そういう意味では、名作には違いない。違いないのだけれども、他の稀覯本のような価値はない。今後も価値が上がる可能性はほとんど皆無だろうと、マクシミリアンは確信していた。むしろ、十年ほどで紙切れ同然まで下がる可能性すらあると思っている。

 実はデボラも結婚祝いにこの本をもらっている。今でも彼女の本棚にあるけれども、送り主が後ろ盾のスプリング家の大奥様でなかったら即座に厨房のかまどに放り込んでいただろう。

 リセールなまりで悪態をつくほど、その内容はよく言えば時代遅れで、彼女の言葉を借りれば「女性を抑圧したい男たちに都合のいい史上最悪の悪書」だった。男であるマクシミリアンでも反論の余地がなかった。『夫の機嫌のとり方』とか、『夫を不快にさせないための一二か条』とか、『跡取り息子と自覚させる育て方』とか、『娘のために良い嫁ぎ先の探し方』などなど。男からしても、どうかと思う内容ばかりだ。八〇年前はそれが理想だったのだろうけれども、今は違う。間違っても、稼ぎ口を失った夫のために体を売るようなことを推奨したりはしない。

 自立した女性として支持されているアンナ・カレイドの支援者の本棚に、これほどふさわしくない本はないだろうとすら思えるのだった。




 さて、マクシミリアンが帰ってきたこの日。リセールのごく一部の市民は、一生忘れないだろう珍しい光景を目撃することとなった。

 ちょうどマクシミリアンが本棚からソファーに戻りお茶をすすっていたとき、一台の馬車が商会本部の正面で止まるやいなや飛び出してきたのは、なんと仮面の会長だった。

 どんなトラブルも冷静に対処し、常に泰然としている彼がなりふり構わず走る姿など、前代未聞の珍しい光景といっても過言ではない。あの会長が走れたのだなどと、失礼な驚きの声は一つではなかったし、彼もまた人だったのだと妙に感心した者は少なくなかった。けれども、そういった狐につままれた顔で目撃者たちが言い合うのは彼の姿が完全に見えなくなってからだった。なにしろ、彼は憤怒の表情を誇張した赤黒い仮面をつけている。そんな鬼気迫る仮面をつけて走るものだから、商会の者も客も誰もが慌てて道を譲る羽目になったのだ。

 日頃から走りなれていない彼は、二階に駆け上がり客人たちを待たせている部屋の前で足を止めたときには、すっかり息が上がっていた。

 息を整える間も惜しい彼は勢いよく扉を開け、


「チャック、ディック、お前ら、今度は一体何をやらかしたんだ!!」


 開口一番、弟たちを怒鳴りつけた。

 やはりというべきだろうか、『いつでも歓迎する』と言ったくせに、歓迎する気はさらさらなかった。

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