帰郷

 三月二六日、マクシミリアンはリセールに帰ってきた。

 そう、

 川霧が晴れて間もなく接岸した朝一の船の積み荷に混ざって、船を降りた彼は心の底から安堵した。

 毎年晩秋から春先にかけて王都で過ごしている社交シーズンに比べたら、ずっと短い旅路だった。にもかかわらず、改めて帰るべき場所だと、自分でもびっくりするほど感極まって目頭が熱くなった。もちろん、チャールズにからかわれるのが目に見えていたので、意地で涙はこらえたけれども。


 双子の叔父と、彼らが息子同然に可愛がっている少年。出発時には想定もしていなかった増えた同行者たちも、優秀な部下二人のおかげで問題なく入国することができた。そう、マクシミリアンが海洋国家リマンに置き去りにした二人だ。

 敬愛する主人とさほど変わらない歳の彼らは、置き去りにされたことに気づいたあと、生きた心地がしなかったどころではなかった。リセール公の身にもしものことがあれば、死んで灰になっても詫きれない。追いかける術もなく、一日千秋の思いでピュオルから商船が戻ってくるのを待ち続けた。祈る神を持たない彼らは、ひたすら信じるしかなかった。

 実のところ、マクシミリアンは彼らのことをすっかり失念していた。リマンで船を降りるなり泣きながら駆け寄ってきた彼らの姿に、ようやく自分がいかに軽率なことをしたのか痛感したほどだ。


「大こ……、旦那様、早く奥様を安心させましょう」

「そうだな、ケイン。まずは丘の上に帰らないとだな」


 心底安堵したせいか、無性に妻に会いたくなった。

 早速馬車を手配しに動こうとしたケインに、リチャードが待ったをかける。


「悪いが、お前たち二人だけ先に行ってくれ」

「しかし……」

「先ぶれを出していない。しばらく滞在させてもらうというのに、いきなり押しかけるのは礼を失するからな」


 デボラの手紙が先に届いていたとはいえ、一人でピュオルに押しかけたマクシミリアンには嫌味に聞こえた。おそらく、リチャードにそんな意図はないのだろう。


(そもそも先ぶれを出せなかったのは、そっちのせいだろうが)


 リマンで置き去りにした二人と涙の再会を果たしている間に、チャールズはヴァルト王国の商船に乗船できるよう話をつけてしまった。よりにもよって、その商船はグッドマン商会のものだった。その日のうちにリセールに向けて出港する船に乗らなくてはならなくなったため、急いで部下二人に宿を引き払わせる羽目になった。とてもとても、リセールに文を出す暇などなかったのだ。

 仮面の会長に素直じゃない気持ちを抱いている彼にとって、グッドマン商会の船は居心地が悪かった。リセール公だとバレる危険性もあったのだから、なおのこと。幸いにして、野暮ったい伊達メガネのマクシミリアンの正体がバレることはなかった。

 さて、先ぶれを出すタイミングを失う原因となったチャールズは、少し離れたところで商船を降りたあと商会の男となにやら交渉中だった。


「もちろん、晩餐に間に合わせる。それにチェチェも腹が減っていることだろうし、何か食べさせてやりたい」

「ン?」


 突然名前が出てきたチェチェは、大きな琥珀色の目をパチパチとさせて傍らのリチャードを見上げる。けれども、藍染のターバンをした異国の少年は、すぐに関心を失ったようで珍しそうに通りを行き交う人々を眺めるのに忙しかった。

 ケインたちは、どうしますかと目で訴えてくる。

 リチャードの言うことは、もっともだった。

 一刻も早く妻を安心させてやりたいけれども、三人もの客人を連れているのだ。食事はもちろん部屋も用意しなくてはならない。マクシミリアンも先に行くという選択肢は、この場合なしだ。チャールズたちを信用していないわけではないけれども、一緒にいなくては逃げられる気がするのだ。

 目深に被ったマントのフードの中の髪をガシガシかき回して、マクシミリアンはため息をついた。


「悪いな。二人で先に行ってくれ」

「かしこまりました」


 一刻も早くリセール公の無事を伝えるため、二人は足早に去っていった。彼らの顔には、ピュオルからの客人たちと離れられることに対する隠しようのない安堵の表情が浮かんでいた。大陸語が拙いチェチェはもちろん、元王族のチャールズとリチャードとの距離感を測りかねていた彼らにとっても、帰りの船旅は居心地の悪いものだったのだ。

 彼らと入れ違いになるようにして、チャールズが駆け寄ってきた。


「悪い、待たせたな」

「話はついたのか?」

「もちろん。ウィル兄の手土産もちゃんと届けてくれるってさ」


 双子の短いやり取りで、あの大きな手土産の運送について交渉していたのかと、マクシミリアンは納得した。グッドマン商会が手広く事業を展開できたのは、独自の流通網にある。当然、運送業にも手を出しているから、手土産を運んでもらうのは何もおかしいことではない。むしろあの大荷物と一緒に行動せずにすんだと、密かに胸をなでおろした彼は、誤解をしていた。確かにチャールズは、手土産を届けるよう依頼したけれども、それはむしろついでだ。そのことをマクシミリアンが知るのは、そう先のことではない。


「で、これからどうするんですか?」

「もちろん、まずは飯に決まってるだろ、マックス」

「それは構いませんけど……」


 だったら、多少の辛抱は必要だけれども丘の上の領主館でもよかったのではと、マクシミリアンは怪訝そうに眉間にシワを寄せる。


「メシだメシぃ! チェチェ、お腹空いたヨ」

「安心しろ、チェチェ。マックスがとびきり美味い飯が食える店に連れてってくれるってよ」

「チャールズ、勝手に話を進めないでください」


 今なら二人を追いかければ領主館でと続けようとしたけれども、リチャードに遮られた。


「実は、リセールで行ってみたい店がある」

「俺が知っている店なら案内します。いえ、案内させてください」


 リセールを愛する男は、ついうっかり話しに乗ってしまったのだった。


「カフェ・ブレンディ。お前の筆名の由来になったというカフェだ」

「なんで知ってるんだよぉおおおおおお!」


 リセールに帰ってきても彼らにペースを乱され続けるのだと、マクシミリアンは思い知った瞬間だった。

 ちなみに公にしていない人気百合小説家の筆名の由来をリチャードに教えたのは、もちろん叔父馬鹿のコーネリアスだった。




 その日、カフェ・ブレンディのテラスでなんとも奇妙な四人組がテーブルを囲んでいた。

 黒いターバンの髭面の中年男は、誰が見ても双子に違いない。けれども、双子にしても黒と白でまとめた服装に、交易拠点のリセールでもめったにお目にかかることのない湾刀の拵までそっくりそのまま同じで、一種の狂気じみた異様さがあった。

 藍染のターバンの少年は、細く薄い体のどこにおさまるのかというくらい食べている。今も口に運んでいるベイクドビーンズは、何度おかわりしたことか。明らかによそ者の少年が、リセールの魂でもあるベイクドビーンズを夢中で食べているのは喜ばしいことではあるけれども、食べ過ぎではないかと心配になるほどだ。

 それから、薄汚れたマントのフードを目深に被った男。分厚いレンズのメガネをかけ、陰気に前髪をおろしている上に、ずっとうつむいていた。どんよりとした根暗な憂鬱をばらまく病原菌のようなオーラを隠そうともしていない。


 どこにでもあるようなカフェの見慣れぬよそ者たちに、誰かが声をかけてもよさそうなものだった。なにしろ、ここはリセールでよそ者にとても寛容だ。

 つまり、そんな彼らですら声をかけるのをためらうほど、テラスの四人組は異様だった。

 とはいえ、追い出すほどでもない。ようは、かかわらなければいい。なので、他の客たちはいつものように茶飲み話をしていた。


「おい、大公が病気で寝込んでらっしゃるって聞いたんだが……」

「おいおい、あんな噂信じとるのか。ありゃ、デタラメだって話だで」

「デタラメ?」

「考えてみ。なんで大公がいつもの年より早うリセールに帰ってらっしゃったか。子煩悩な国王陛下が、大公に奥方様が大事なときだで側におったれって言わっされたんだろ」

「ほうだったな。まぁ、大公がよぉやってくださっとるから、実質休暇をお与えくださったんだったな」

「それで、ここしばらく大公のお姿を見かけんもんだで、どっかのたわけが病気だとかほざきおっただけのことよ」

「言われてみれば、そうだ。そうに決まっとるな。えらい心配しとったのに……まあええわ。大公がご無事なら」

「ハハッ。しっかしまぁようやっと奥方様がご懐妊ってめでたいときに、そんなけったいな噂が流れるとか、まったくどこのどいつだ……」


 そんな話を聞くともなしに聞いてしまった大公ことマクシミリアンは、彼らに申し訳ない気持ちで一杯になり、逃げ出したくなった。彼らの話題は、生まれてくる我が子の性別などに移っているのもまた、いたたまれない。

 居心地悪くモゾモゾとしていると、向かいに座っているチャールズが身を乗り出してきた。


「おい」

「はい?」

「聞いていないんだが。お前のできた奥方が妊娠中とか、聞いていないんだが」

「……」


 言っていないからだと軽く言えるような雰囲気ではなかった。普段飄々としているチャールズの目は真剣そのもので、普段口数の少ないリチャードよりもなぜか威圧感がすごい。


「お前、そんな時によくピュオルに来たな」

「それは俺だって……」

「別に怒っているわけじゃないから、そうビビることないだろ。ん?」


 そう言うけれども、目つきが嘘だと言っていた。

 伊達に非情の双子王子と、一部の国民に恐れられたわけではないのだと、マクシミリアンは悟る。


「あの気の利いた手紙からしても、納得の上のことだったんだろ。俺たちのような独り者がとやかく言えることじゃないしな。うん。ただなぁ、知ってたら寄り道せずに帰してお前の無事な姿を見せて安心させてやるくらいの気遣いくらい、俺たちにもできたってことよ」

「では、今からでも行きましょう」


 深々とため息をついたチャールズは身を引いて、隣の双子の弟にどうするとげんなりとした声で尋ねる。


「昼には行くと伝えちまったからなぁ」

「なら、そちらが優先だろう。これで行かなかったら、後々面倒だ」

「だよなぁ。顔だけでも見せとかないと、まずいよな。ただでさえ、歓迎されないだろうに」

「そんなことはないだろう。…………多分」

「あの、今から行く所があるんですか?」


 このまま見えない話を続けられては困ると尋ねたマクシミリアンに、チャールズは片眉を跳ね上げる。


「ウィル兄んとこに決まってるだろ」

「え? ちょ、ちょっと待ってください。今から?」


 しかも昼にはと言ってなかったか。


(まだ心の準備が……)


 軽くパニックをおこしかけている彼に、リチャードは一枚のカードをテーブルを滑らせよこした。ほとんど無意識のうちに手に取ったカードには、簡略化された地図が書かれていた。


「ウィル兄さんが訪ねてくるならと押しつけられたものだ」

「ここって……」


 ひと目でリセールの中心地の地図だとわかった。

 くすんだ青いインクで印がついている場所も、ほとんど同時と言っていいくらいすぐにわかった。

 そこは、グッドマン商会本部。

 マクシミリアンにとって、グッドマン商会と聞けば自動的に否応なしに浮かび上がる人物が一人いる。

 仮面の善人フィリップ・グッドマンだ。

 頭のどこかでこれ以上考えるなと、激しい警鐘が鳴っている。けれども、糸口を手に入れた思考は止まってくれない。


 リセール訛りがなく、立ち振る舞いからしてもアスターの上流階級の出ではないかと以前から疑っていたではないか。

 商人のくせにやたら政に口を出してくるのは、よくよく考えてみれば不自然だったではないか。

 グッドマン商会が急成長した時期は三〇年近く前だったではないか。

 アンナもチャールズもリチャードも口を揃えて「面倒見がいい」と評していたではないか。

 チェチェが臭いと言った趣味の悪い香水をつけているらしいではないか。

 そんな男、フィリップ・グッドマン以外にいるはずがない。


 なぜ今の今まで気がつかなかったのか。

 死んだはずの叔父の正体に気がついて、ようやく思考が止まってくれた。いや――、


「マクマク? マクマク、固まったヨ」

「ああ、見事に固まっているな」

「ま、大丈夫だろ」


 完全放棄した。

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