腹をくくるとき

 マクシミリアンの執務室に、デボラはいた。


「おはよう、マックス。昨夜はぐっすり眠れてよかったわね」


 夫の執務机で上機嫌に笑う彼女は、確かにお腹の子ともどもすこぶる健康そのものだろう。

 執務室にいた他の男たちは、マクシミリアンの姿を見て膝から崩れ落ちそうなほど安堵していた。彼女をなんとかしてくれと、声にせずとも彼女をなんとかしてくれと、彼らは訴えてくる。皆、頻繁に執務室に出入りしている優秀な側近たちだ。


「そうそう、アンナはグッドマンのところに行ったわ。馬車の具合を見てもらって、今後の旅行計画の相談があるんですって。本当に忙しい人よね」

「デビー」

「ん?」

「何をしている?」


 彼女は夫によほどの用がなければ執務室に来ない。ましてや、夫がいなければ近づくこともないはずなのだ。

 ひとまず、疲弊し所在なさげな執事と側近たちを手振りで下がらせた。


「その様子だと、まだ起きたばかりなのね」


 食べたらと、机の上にあった焼き菓子が入った籠を指差す。執務机に食べ物を置かないマクシミリアンは、不快そうに眉を寄せた。


「デボラ、何をしているかと訊いているんだ」

「…………ねぇ、ピュオルって地図で見ると意外と遠くないのね」


 執務机の上に広げられていたのは、大陸西部の地図だ。黄金山脈を東の果てとして、島々が散らばる西海まで書かれた地図。


「デボラ……」

「あなた、言ったわよね。手詰まりだって」


 問いに答えようとしない妻に苛立ちを募らせる夫をよそに、平然と続ける彼女には有無言わせない圧があった。


「事件の鍵を握っていたウィリアム王子は、もういないわ。でも、まだ双子王子がいるでしょう」

「だが、彼らは……」

「会いに行けばいいじゃない」

「は?」

「さっき、ベンに教えてもらったの。今の季節なら、リマンから五日くらいで行けるんですって。リセールからリマンまで大河を下るのに三日でしょう。最短で八日。びっくりよね、アスターに行くよりも日数がかからないなんて」


 大きく息を吐いて、マクシミリアンは首を横に振った。


「机上の空論だ。行けるわけがない。海は危険だと、誰もが知っている」

「わたしたちヴァルトの民が海を恐れるのは、海を知らないからよ」

「叔父上でも、呼び戻せなかったんだぞ」

「コーネリアス様は、会いに行けなかっただけでしょう。帝国のように壁で閉ざしているわけじゃないわ」

「だとしても、俺が行くわけにはいかない」

「リセール公だから?」

「それもあるが、俺には君がいる。お腹の子も……」

「わたしを言い訳にしないで!」


 彼女が張り上げた声は震えていた。


「行ってきなさい、マクシミリアン・ヴァルトン。正直、行ってほしくなんてないわよ、もちろん。でもね、今行かなかったら、あなたは絶対に後悔するでしょう。必ず帰ってくるって信じているから、行ってきなさい!」

「行けるわけがないだろう!」


 つい大きな声で言い返したマクシミリアンは、自分が嫌いになりそうになった。


「どうしてなんだ、デボラ。どうして、俺をピュオルに行かせたがる? 俺は君に寂しくつらい思いをさせたことを、悔いている。だから、これから君のために……」

「駄目なのよ。それでは駄目なのよ。わたし、気がついたの。わたしは、あなたに甘えすぎていたのよ」


 マクシミリアンはこめかみをもみながら先を促した。


「結婚してからあなたとあんなに離れ離れになることなんて、初めてだったでしょう。距離的にも、時間的にも。ちゃんと理解していたのよ。あなたはリセール公で、この国で重要な責務をになっているんですもの、妻が妊娠したからってアスターに行かないわけにいかない。……そう頭で理解したつもりでも、心はそうじゃなかったのよ」


 もちろん、寂しかった。

 けれども、寂しさよりも心細かった。

 もし、マクシミリアンが帰ってこなかったらと、不安でたまらなかった。

 リセールを離れる前にマクシミリアンは、妻のために女医や侍女、領主館の衛兵などを新たに雇い入れて留守を預ける体制を整えていた。実際に、彼女は何も不自由しなかった。

 だからこそ心細く不安だったと、デボラは言う。


「みんなの雇い主は、あなたよ。あなたに何かあったら、わたしは一体どうなるのかしら。まず、この屋敷を追い出されるでしょうね」

「そんなこと……」

「ないって、どうして言い切れるの? 前の領主を追い出したように、あなたが今の地位を誰かに奪われる日が絶対に来ないなんて、どうして言い切れるの」


 そもそも、マクシミリアンがリセール地方の領主になったのは、彼が前の領主を排斥したからだ。表向きには、穏当に領主の地位を譲り受けたことになっているけれども。

 前の領主は、無能というほどではなかった。保守的ではあったけれども、大した問題なくこの地方を祖父の代から治めていたのだ。それでも排斥したのは、彼自身も気がつかなかった野心を煽り立てるように、仮面の善人フィリップを筆頭とした顔役たちにそそのかされたからだった。叔父に一目置いてもらうには、百年ぶりにリセール公の称号を手に入れるべきだと、あの頃は本気で考えていた。

 領主失格というほどではないけれども、マクシミリアンとしても、娘をぜびにと執拗に縁談を迫られるのにうんざりしていた。

 まだ二十歳になる前、ようやく顔役たちともいい関係になれたと自信を持ち始めた頃で、自分のほうが領主にふさわしいと熱弁を振るわれたら、その気になるのも仕方ないことだった。

 民がよりふさわしいと認めた者を、自分たちの統治者におしあげることは、ここ神なき国ではよくあることだった。他国のように、神に認められたという犯し難い名目がないせいだ。唯一例外と言われている王族とて、建国より築き上げた絶大な権力がなければ、どうなることか。

 成り上がりをよしとしてきたこの国では、マクシミリアンがどれほど良き領主であっても、その地位が絶対である保証はどこにもないのだ。

 そのことを、マクシミリアンが理解していないわけがない。


「だとしてもだ、デビー。そんな心配ばかりしていては、身が持たない。そう簡単に落ちぶれるほど、俺は弱くない」


 たとえ明晰王の息子ほどの才覚がなくとも、彼にはリセール公としての自負がある。


「きっと、あなたのご両親だってある日突然暗殺されるなんて考えていなかったでしょう」

「……」

「今、ここにいるわたしは、あなたがいなければ生きていけないのよ。比喩でもなんでもなく」


 今ではたまに経営に口出しする程度だけれども、彼女の出版社だって彼の支援なしでは叶えられなかった夢だ。

 リセール公夫人として社交の場に出るときも、いつもマクシミリアンが隣りにいて守ってくれた。平民だったからと、無理して付き合うことはないという言葉にすっかり甘えてしまった。


「領主の妻らしいこと、わたしは何もしていない。この屋敷の使用人の采配も、客人の接待も、ほとんどできていない」

「そんなことはない」


 アンナをもてなすのに、家庭料理をと決めたのは彼女だ。

 使用人たちにとっても、かつて同じ身分だったこともあり、なにか困り事があったときまず相談するのは彼女だ。


「俺だって、君にずいぶん甘えている」

「そうかしら。そうだとしても、結局はあなたありきなのよ、今のわたしは」

「それが不満なのか? 自立していないことが」

「ええ、そう。不満というより、不安だけど…………そういうことよ」


 マクシミリアンは、目を伏せ嘆息した。


 世の人が聞けば、口を揃えて贅沢な悩みだと言うだろう。

 商家の娘が、王族の男から愛を乞われた時点で、すでに世間が羨むような話だった。市井はおろか、貴族社会でも、妬みを買うほどの。

 実際、彼女に対する世間の風当たりが強い。

 一人で社交の場に出さないのは、彼女を守るためだ。


「デビー、君はかけがえのない存在で、俺が守るのは当然のことだ」


 そのためにも、リセール公としての責務を果たさなくてはならない。リセール公の責務とはリセールの民に尽くすことだと、彼は考えていた。それが、自分に期待を寄せてくれたリセールの民に対しての義務だと。


「それでも、君は自分を守る力が欲しいと言うのか」

「あなたを軽視しているわけじゃないのよ」

「わかっているよ、デビー。君は初めて会ったときからそうだったな。自分の考えをまっすぐぶつけてくる君に惹かれたんだよ、俺は」


 ストレスを溜め込んだあの頃だったから余計に眩しく見えたのかも知れないと、気恥ずかしく思うこともある。けれども、恋の自覚はなくとも、ひと目で惹かれていたのは間違いない。


「わかっているのよ、贅沢なことを言っていることくらい。でも、わたしにとっては切実なことなの。あなたには、まだ言っていないことがあるわ。新年節よりも前に、あなたの不在に耐えられなくなって、わたし、ジャスミンに手紙を出したの」

「俺をリセールに帰して欲しいと?」

「直接はお願いしていないわ。でも、彼女ならきっとそうしてくれるとは、期待していた」


 その期待通りになった。

 マクシミリアンを悩ませたのは、自分のせいもあるのだと、彼女はうなだれた。


「そんなことはないって、あんたは言うでしょう。わたしもそう思っていたわ。帰ってきてからのあなたは、酷いって。でも、昨日、気がついたのよ、すっかり甘えていたわたしもいけなかったって」


 帰ってきたマクシミリアンが今まで通りだったら、甘え続けていたと彼女は力なく笑う。


「デビー、君は君らしくあり続けるために、俺の過保護をやめてほしいのかい」

「あら、過保護って自覚あったのね」

「あるに決まっているだろう。君はただでさえ妬まれやすい立場なんだぞ。庶民出身の君への世間の風当たりが強いなら、俺がその盾になるに決まっているだろう」

「わたしって、愛されているわね」


 クスッと笑った。今日初めて心から笑ったら、不思議と気持ちが軽くなった。


(アンナは、本当にいいきっかけになってくれたわね)


 身分を越えた大恋愛の末に結婚した夫婦でも、言葉を尽くして話し合うのは大事なことだと、改めて思う。


「ねぇマックス、世間の風当たりくらい覚悟していたわ。覚悟なしに、リセール公の妻になれるほど、わたしは能天気じゃないわ」

「いらない苦労することはないんだぞ」

「いらない苦労? それはあなたでしょう。わたしが受けるはずの逆風を、あなたが全部受けているのよ。本来なら、わたしがわたし自身でリセール公夫人だと世間に知らしめなきゃいけないの」

「なにも焦ることはないだろう」

「焦っていないわ。これはただの決意表明。これからも、あなたに甘えるだろうし、守ってもらうこともあるわ。でも、少しずつでいいから、強くなりたいのよ、わたしは」


 そうまっすぐ見つめられては、マクシミリアンは首を縦に振るしかなかった。


「君の気持ちは、よくわかった。尊重すると、約束するよ」

「ありがとう」

「で、それがどうして俺のピュオル行きにつながるんだい?」


 デボラが整理した気持ちを聞けてよかった。けれども、マクシミリアンはどうしてピュオルに行けと言われたのか、さっぱりわからなかった。


「それはね、マックス。あなたを甘やかしたいからよ」

「甘やかす?」

「ええ、そう、まずはあなたを甘やかすの」


 不敵に笑う妻に、マクシミリアンはさらに困惑した。


「あなた、ピュオルに行きたいって言ったじゃない」


 言った。たしかに言った。


「だからといって……」

「行かなかったら、あなたは絶対に後悔するわ」

「今じゃなくてもいいだろう。昨夜も言ったが、俺が隠居してからでも」

「その頃には、もう双子王子はいないでしょう。二人がいなかったら、ピュオルに行く理由がない。会ったことなくても数少ない血縁がいるから関心を持っていた。そうでしょう?」

「それはそうだが……」

「今じゃなくていいって言うけど、今しかないじゃない。本来あなたは、今頃アスターで茶会に舞踏会に引っ張りだこだったはずでしょ。予定では来月の終わりまでリセールを留守にするはずだった」

「ジャックは、君との時間を大切にしろと言われて……」

「へぇ……そうなのね」

「……すまない、今のはなかったことにしてくれ」


 マクシミリアンは、失言に頭を抱える。ひと月も妻を避けてきた彼が口にしていいことではなかった。


「はっきり言って、今のリセールにあなたは必要ないのよ。こんな休暇、もう二度とないかも知れない。だから、今がチャンスじゃない」

「君は、俺が必要ないのか」

「まさか、必要よ。言ったでしょう、あなたがいなかったら生きていけない。でも、それは常に側にいる必要はないの。それに、わたしだけじゃない。今のリセールにあなたはなくてはならない存在だもの」


 矛盾していることを言っている自覚はあると、デボラは肩をすくめて続ける。


「あなたほど、リセールを愛してくれた中央の役人はいないわ。あなたが、どれほどリセールのために尽くしてくれているのか、知らないリセールの民はいないわ。だいたい、わたしを避けるにしても、よりにもよって行政庁舎って。以前のあなたなら、書斎に籠もって小説を書いていたのにね。あなた、結婚してからほとんどあの書斎にこもらなくなった。……いいえ、結婚してからじゃないわね、ジャックが即位して、ヴァルトン家直系から外れてから、あなたずーっとリセールのことばかり」


 王位争いの茶番から解放されたマクシミリアンは、ようやく本当の意味でリセールの主になれたのだろう。


「ねぇ、せっかくの貴重な休暇なのよ。リセール公ではない、ただのマクシミリアンとして、やりたいことをしてほしいの」

「デビー、俺は……」

「リセールの民を代表してなんて言うつもりはないわ。でも、リセールの民の一人として、あなたの妻として、これまでリセールに尽くしてくれたことを労いたいの。甘やかしたいの。これって、そんなにおかしなことじゃないと思うけど」

「…………」


 デボラの真摯な眼差しに、マクシミリアンの心は揺れた。


「ピュオルに行ったところで、チャールズ叔父上とリチャード叔父上に会えるとは限らないんだぞ」

「ええ、たとえ会えたとしても、暗殺事件の手がかりは得られないかも知れない。でも、息抜きにはなるはずよ。リセールにいたら、どうしてもリセールのことばかり考えてしまうでしょう」

「それはそうだが……」

「小説のアイデアが浮かぶかもしれないわね。あなたの新作待っているファン、たくさんいるのよ」


 フフッと彼女が笑ったそのとき、廊下のほうからガタガタという物音と、人の声がした。


「……バカ、音立ててんじゃねぇよ」

「気づかれたら、どうするのよ」

「お前が押すからだろ」

「シーッ、静かにしろ。聞こえる」

「おい、何をしている」

「あ……」


 扉を開けたマクシミリアンの低い声に、廊下にいた使用人たちは固まる。執事と執務室にいた側近たちはもちろん、料理人から皿洗いまで厨房で働く者や、衣装係に掃除係に雑用係、医務室の者たち、領主館を守るはずの衛兵に門番、領主館で働いている者たちのほとんどが、執務室の前の廊下にひしめき合っていた。

 異様な光景に、マクシミリアンが眉をひそめると、


「大公のお食事がまだだと聞いたもんですから」

「お着替えをお持ちしようか、お伺いに」

「客室はどうされるのかと」

「アンナ様はいつお戻りになられるか」

「奥様のお体のほうは」


 彼らは一斉に言い訳を始める。けれども、動こうとする者はいない。


「みな、大公と奥様が心配で盗み聞きに集まったのです」


 そう執事が言えば、全員気まずそうに口を閉じる。


「心配? お前たちに心配されるような情けない主人ではないぞ」

「マックス、そんな言い方はないでしょう」


 腕を組み眉間にシワを刻む彼の後ろからデボラが顔を出すと、それだけで使用人たちが表情を緩めるのがわかった。


(ほら見ろ、俺よりも懐いているじゃないか)


 面白くない。けれども、このひと月の自分を振り返ると、なんとも言えない気持ちになる。

 どうしたものかと思案していると、おずおずと誰かが声を上げた。


「あの、奥様のお考え、素晴らしいと思いました」

「俺もです」

「わたしも」

「あたしも」


 先ほどまでの気まずさはなんだったのかと言うくらい、彼らは熱の籠もった眼差しを向けてくるではないか。


「ワシらも、大公を甘やかしてぇです」

「ですです。大公にはホント良くしてもらっとりますから」

「僕は、新作が読めるかもしれないなら、大賛成です」

「お前、読者だったのかよ」

「うるせぇ、いいだろ別に」

「ピュオルに行ってきてください」

「留守は、お任せください」

「奥様に心細い思いはさせません」

「お腹の中の子も、お守りします」

「留守中のアリバイくらい、どうとでもなりますよ」

「詳しいことは知りませんが、安心してピュオルに行ってきてください」


 口々にピュオルに行くように勧めてくる彼らの熱意は、デボラに引けを取らない。

 彼らの思いは一つ。リセールに尽くしている彼に、感謝の気持ちを形にして贈りたい。それだけだ。


「大公」

「大公、どうか」

「大公……」


 あまりの熱意に後ずさろうとしたけれども、すぐにデボラに阻まれる。


「みんな、あなたが必ず帰ってくるって信じている。もちろん、わたしもよ」

「うっ」


 逃げ場は、どこにもない。

 彼らの日頃の感謝の気持ちを、リセール公が無碍にできるわけがない。


「わかったわかった。お前たちの気持ちはよくわかった。ピュオルに行けばいいんだろ!! 俺は絶対に帰ってくるからな!!」


 こうして、マクシミリアンのピュオル行きが決まった。

 善は急げとばかりに、使用人たちはピュオル行きの準備をしたり、計画を相談したりと、いつになく慌ただしくなった。

 なかば呆然としてその様子を見守るうちにマクシミリアンも、しだいにその気になっていった。


 こうなったら、自分のことをこれほど思ってくれる彼らの期待に応えるまでだ。必ず帰ってくると。


 腹をくくれば必ずやり遂げてくれるけど、腹をくくるまでに時間がかかる。――かつて明晰王がそう評したマクシミリアンは、ようやく腹をくくったのだった。

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