過去と未来の間で彼女は
デボラと二人一緒に寝るのは、何ヶ月ぶりだろうか。
あらためて、身重の妻にした仕打ちの酷さに情けなくなる。
(これ以上謝罪の言葉を重ねたところで、デビーを追い詰めるだけだ)
この罪悪感は、マクシミリアンの罰だ。
(だが、贖ってはいない)
ふぅと息を吐きながら、こめかみを揉む。
「結局、あれから大したことわからなかったわね」
「ああ、そうだな。やはり、叔父上が絞り込んだ四人が怪しいな」
あれから昼食を挟んで夕食が用意できたと呼ばれるまで、三人がかりで残りの資料にとりかかった。ほとんどが、封鎖時に月虹城にいた全ての者と輝耀城にいた一部の者の証言記録で、事件につながる情報はなかった。
「消えた犯人、謎の足跡……ねぇ、マックスは、やっぱり会う約束をしていた人物が犯人だと思う?」
「断定はできないだろう。犯人でなくとも、名乗り出るのはリスクが高い」
「それもそうね」
犯人でなくとも、一度名乗り出れば名誉は地に落ちるだろう。無関係であっても、アスターにいられなくなるのは、想像に難くない。
「そう言えば、どうしてコーネリアス様はダニエルを容疑者に加えなかったのかしら?」
「どういう意味だ?」
「だって、彼が第一発見者でしょう。真っ先に容疑がかかってもおかしくないわ」
「そう言われてみれば、そうだな」
妻の指摘はもっともだと、マクシミリアンは資料にあった彼の情報を思い返す。
あの日の事件前、彼がどこにいたのか。当時月虹城周辺の衛兵だった彼は、夜半からの見張りを早朝交代したあとの行動ははっきりとしていないのだ。
けれども、それはダニエルに限ったことではない。月虹城自体、人の出入りが激しく、事件当日の行動を第三者から証言を得られるほうが少なかったのだ。それに加えて、彩陽庭園は四方を囲む館から自由に出入りできる。
(あの四人は彩陽庭園に確実にいたとはっきりわかっている。それだけなんだよな)
当時月虹城にいた者すべてが疑わしくなりそうだ。
「叔父上がダニエルを疑わなかったはずはないと思う」
「やっぱりそうよね」
「だとするなら、叔父上が容疑者候補から外すだけの根拠があったと、俺は思う。でなかったら、俺の護衛なんかにしないだろう」
ただ、その根拠がわからない。わからないことが、多すぎる。
「俺は、事件の真相ももちろんだが、叔父上が俺に何をさせたいのかも、知りたい」
「あなたに事件の真相を解き明かしてほしいだけじゃないってこと?」
「ああ。なんとなくだが、そんな気がするんだよ」
「ウィリアム様とパトリシア様の関係、とか?」
「どうだろうな。…………まぁ、おそらく事件の真相を探るうちに叔父上の意図も見えてくるんだろうがな」
手詰まりだと苦笑したマクシミリアンは、妻の顔が曇ったことに気がつかなかった。
「ねぇ、早くこっち来なさいよ」
「あ、ああ」
先にベッドに横になっていたデボラが、ポンポンと枕を叩く。しかたなく、意を決してそろそろとベッドに潜り込む。
「緊張してるの?」
「……しかたないだろ」
夕食の席で、その場の流れで今夜から一緒に寝ると言ったのは、マクシミリアンだ。
(アンナにうまく乗せられたよな)
せめて、もっと埋め合わせをしてからのほうがよかったと、後悔してももう遅い。
以前はどうしていたのかと思い返すと、絡み合ってベッドになだれ込む姿が脳裏によみがえり、片手で顔を覆った。
「……わたしも」
「ん?」
「わたしもちょっと緊張してる」
妻の意外なひと言に、マクシミリアンは仰向けのまま首だけ彼女の方に向ける。手を伸ばさなくては触れられない距離。手をのばす勇気はまだない。
お腹を抱える彼女は、恥ずかしそうにはにかんでいる。
「なんか、こういうの懐かしくて、緊張してるの。ほら、初めてあなたの屋敷に行ったときのこととか」
「あの頃は、俺はまだ領主じゃなかった」
「ええ、でもリセールの官邸もわたしにとっては立派なお屋敷だったわ」
「懐かしいな」
いきなり右も左もわからないリセールの行政長官に任ぜられた彼は、なかなか顔役たちに受け入れられなかった。特に仮面の善人からは、容赦ない指摘をこれでもかとくらった。本気で心が折れるかと思った。叔父に失望されてもいいから、リセールから逃げ出したくなった。
そんなときだった。コーネリアスに強制的に読まされた小説がきっかけとなって、気分転換、ストレス発散――束の間の現実逃避に彼が小説を書き始めたのは。
勢いで書き上げた処女作は、趣味に走り書きたいものを優先したため、とんでもなく低俗な中編小説となった。王位継承権第二位の自分がと、おかしくてたまらなくなって笑いが止まらなくなったほどだ。
今思えば、あの頃の自分は精神的にどうかしていた。
あくまで、趣味として密かに誰の目に触れないように気分転換にすればよかったものを、彼はしっかり製本して叔父に読んでもらおうと思ったのだ。なにしろ、きっかけの小説が自分と従弟をモデルにしたBL小説で、嫌がらせ以外の何物でもなかった。だから、このくらい許されるべきだ。
問題はどうやって製本するかだ。
件の従弟の総受け小説と同じくらい低俗な小説を、リセールの行政長官で王位継承権第二位の自分が書いたと世間に知られたら、恥ずかしすぎて死んでしまう。マクシミリアン自ら、原稿を持って製本を依頼しなければならない。
そこで彼は、いつかの新年節で披露した芝居を思い出しつつ、小汚い庶民に変装して、リセールの街にくりだした。
マクシミリアン一七歳。初めてのお忍びである。
向かった先は、ウォン商会。ペン、インクや紙などといった筆記用具を取り扱う店で、私家本制作の相談も請け負っている。一代で成り上がり成功した商人で、自伝を作りたがる者らしく、そこそこ需要があったらしい。
そこで出会ったのが、デボラ・ウォンだ。
「君に出会ったとき、まさか書店に並ぶとは、夢にも思わなかったよ」
「でしょうね。わたしもまさかリセール公夫人になるなんて、夢にも思わなかったわ。……今でも夢じゃないかって、時々怖くなるくらいよ」
「俺もだよ。最愛の君を世間に妻と認めてもらえたのが夢じゃないかと、時々怖くなる」
宰相が彼女を養女として花嫁修業してくれなければ、デボラはアンナのように日陰の女のままだっただろう。
コーネリアスが宰相に働きかけてくれたおかげだ。もし、叔父の働きかけがなかったら、マクシミリアンは彼女を世間に認めさせられなかっただろう。
どんなに彼がデボラが唯一の女だと言い張ったところで、体裁が悪いから妻をという声がひっきりなしにあったはずだ。
(一時の恋なんぞにうつつを抜かすめでたくも愚かな奴だと、いい笑い者になっていたかもな)
それでもいいと、思っていた。
それでも、彼女への愛を貫きたいと。叔父のように。
けれども、おそらくデボラは日陰の生活には耐えられなかっただろうと、後になって気がついた。
「売り出そうと言われたときは、正気を疑ったよ」
「わたしは間違ってなかったわ」
「ああ、そのとおりだよ。正しかったのは、君だ」
まったくその気がなかった彼に、最初の読者となったデボラは私家本ではなく出版するべきだと勧めた。
およそひと月にわたる攻防の末、彼はとうとう彼女の熱意に負けた。さすがに本名で本を出すような馬鹿な真似はしない。適当なものだ。どうせ売れるわけがないと決めつけていたので、そのとき彼女といたカフェのテーブルの花瓶の花の名前と店名を組み合わせて、適当に筆名を決めた。
「でも、あなたが王子様だって知ってたら、絶対に勧めなかったわ」
「だろうな。俺も、始めから正体を明かさなければならなかったら、私家本にすらしようと思わなかったよ」
「本当に驚いたわ。あなたが王子様だって知ったときは。ねぇ、どうして明かしてくれたの? だって、今考えてみたら、ウチじゃなくても、本を作ることはできたはずよね」
「君に世に出すように勧められたときに、なぜ逃げなかったのか?」
「そう、それ。ねぇ、なぜだったの?」
「なぜと言われても……」
よく考えなくとも、彼女の熱意に付き合う必要はなかったのだ。
「わたしに一目惚れしていたとかはなしよ。前に言ってたわよね、わたしの第一印象は最悪だったって。人の話を聞かない生意気な女だって」
「……最悪だったが、新鮮で強烈だった。君みたいな女は、初めてだった。一目惚れとまではいかなくても、惹かれていたんだ。だから、逃げられなかった」
「……調子のいいことを」
デボラは、顔が赤くなるのを阻止できなかった。
いつも猫背でうつむいているボサボサ頭の貧乏人の正体に、まったく気がつかなかったわけではない。もしかしてと、何度もリセールにやってきた王子の名前がよぎった。その度に、何を夢見ているのかと、勢いよく首を横に振って、その可能性を潰していた。
デボラは、本が好きだった。特に好きなのが、ロマンス小説。成金の虚栄心を満たすためだけの自伝など、少しも関心がなかった。それでも少しでも本に関われたから、家業のおまけのような仕事を引き受けていた。いつか、ちゃんとした版元で働けたらと夢を抱きつつも、いまだに男社会の業界に自分の居場所はないだろうと諦めていた。身持ちのいい男と結婚できればそれで充分だった。身分を超えた恋愛なんて、ロマンス小説の中にしかないと思っていた。
(まさかわたしが、王子様の心を射止めるなんて……)
彼の愛を受け入れて、彼を愛するようになっても、すぐに終りが来ると思っていた。若さゆえの、儚くも甘いひと時だと。それでも構わなかった。ひと時でも彼の最愛になれただけで、幸せだった。
それなのに、マクシミリアンの意思と、コーネリアスのはからいで、リセール公の妻にまでなった。
これを幸せと言わずに、何を幸せというのだろうか。
そして今、お腹の中にはマクシミリアンとの子がいる。
「ねぇ、この子の名前、ちゃんと考えてあるの?」
「…………いや」
気まずそうに身動ぎして、マクシミリアンは目を泳がせた。
「やっぱり。でも、よかったかも。生まれてもいないのに、うだうだ悩んだまま考えた名前なんて、可哀想だもの」
「そう、だよな」
「ん?」
「いや、その、実はジャックに名付け親になってもらうつもりで……」
「はぁ?」
デボラは耳を疑った。
「どうして? どうして、他人に名付けさせようなんて……」
「国王に名付けてもらうのが、子のためになると思って」
彼の言う通り、国王に名を授かるのは大変名誉なことだし、それだけで犯し難い権威となる。
「あなた、ジャックが引き受けると思っているの?」
「それは……まぁ、無理だっただろうな。安心してくれ、今はちゃんと俺が名付けるから」
「もちろん、そうしてちょうだい。……ああでも、泣きんぼうはなしよ」
「当たり前だろ、デビー。なんて酷いこと言うんだ君は」
クスクスと、楽しげな笑い声が寝室に響く。
気まずさは、もうかけらも残っていない。
しばらくベッドの上で笑いあったあとで、デボラは「ねぇ」と語りかける。その声は、とても穏やかだ。
「ねぇ、それにしてもびっくりしたわね。『女が存在するのは、子をもうけさせるためだけであってはならない』って」
「ああ、あれか」
「あなた、クリストファー様がそう言っていたこと、知らなかったのよね?」
「…………知ってたら、言わないよ」
マクシミリアンは、どうしようもなく気恥ずかしくなった。
まったく同じ状況――すぐに子をと愛人を迫ってきた者たちに、まさにまったく同じことを言い放ったことがある。
「ちゃんと親子だったじゃない」
「そう、だな」
この気持ちをなんと言えばいいのかわからず、むず痒さだけが募っていく。不快ではなく、むしろ心地よい温もりすらある。そして、心地よい温もりは眠りを誘う。
「ねぇマックス、本当のところはどうなの?」
「ん?」
「本当は、ピュオルに行ってみたいんでしょう?」
「まぁ、な。行けるものなら、行ってみたかったな」
「海を渡ってみたいって言っていたものね」
「ああ、そんなことも言ったな。いつか――そうだな、リセール公をこの子か誰かに譲りわたした後にでも、二人でゆっくり旅行しようか」
「きっと、あなたもわたしもシワクチャのおじいさんおばあさんになっているわね」
「いいじゃないか。君はきっとシワも魅力的に決まっている」
「まぁ、嬉しいこと言ってくれるわね」
「絶対、そうなる」
マクシミリアンはぐっと彼女に身を寄せて、口づける。
「おやすみ、デボラ」
「また明日」
「ああ、また明日」
昨日まで行政庁舎に詰めていた疲れと、妻と和解できた安心感のせいか、彼はすぐに穏やかな寝息を立て始める。
対して、デボラはまだしばらく寝付けそうになかった。
(西海のピュオル、ね)
いったい、誰が愛しい夫から両親を奪ったのか。
彼女はまだ手詰まりにするつもりはなかった。
翌日、マクシミリアンが目を覚ますと隣で寝ていたデボラはいなかった。
「久しぶりによく寝たと思ったら……」
ぐっすり寝すぎた。
朝は苦手だけれども、昼すぎまで寝過ごすのはなかなかない。たいがい朝起きられないときは、体調を崩したときだ。コーネリアスのように病弱ではないけれども、頭痛を起こしたり体がだるくて重いといった体調不良は珍しくなかった。
寝過ごしたことで、これほど頭と体がスッキリしたことはなかった。
「……アンナのおかげかな」
彼女が来てくれて本当によかった。
特にやるべきことがないというのも、久しぶりだった。
あるにはあるけれども、それでは一昨日までの自分と同じだ。
「それでは駄目だ」
とはいえ、王太子夫妻暗殺事件もすでに手詰まりだ。
『では、丘の上でゆっくり休養するといい』
善人が言ったとおりにするのも癪だ。
けれども、王太子夫妻暗殺事件の謎解きは完全に手詰まりだ。
「とりあえず、何か食べるか」
それから、デボラになにかしてほしいことはないかと尋ねよう。彼女はおそらくアンナと一緒にいるはずだ。
使用人を呼ぶために呼び鈴を鳴らした途端、慌ただしい足音が聞こえたと思ったら、荒々しく寝室の扉が開いた。
ゼェゼェと息も絶え絶えで駆け込んでくるほど、年老いた執事が切羽詰まっている姿を見るのは初めてだった。実際、執事もこんなに慌てたことは、生まれてはじめてのことだ。
「何事だ?」
「大公、お、奥様を、奥様を……」
「デビーの身に何があった?!」
目を血走らせて問い詰める彼に、執事は息が整わないまま首を横に振る。
「い、いえ、お体のことでは……奥様は本日もすこぶるご健康そのもので……」
「では一体なんだ!! どこにいる」
とにかく来て欲しいと言われるまでもなく、マクシミリアンはガウン姿のまま寝室を出ていった。置いてかれそうになった執事は、慌てて後を追いかける。
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