行く者と待つ者、

 三月七日。

 マクシミリアンは、護衛兼案内役兼その他雑用に選んだ男二人を連れて、リセールを――いや、ヴァルト王国を出た。

 まだ街が朝霧に包まれる中、大河を下る船に乗った。

 船で大河を下り外国に向かうのは、これが初めてではない。けれども、いつも足が大地を離れたと思うと、落ち着かない気分になる。


(幼い頃なら、火がついたように泣きわめいていただろうな)


 苦々しく笑うけれども、以前ほどの自嘲はなかった。


「泣きんぼう、ね」


 自分の子が泣き虫だったら、困ったやつだと『泣きんぼう』と呼ぶかもしれない。

 ふと、そんなことを思った。そして、もしかしたら、叔父はからかうためだけに『泣きんぼう』と呼んだわけではないのかもしれないとも。

 幼い頃、おそらく使用人か誰かから叔父が父親代わりだとかそんなことを聞いたのだろう。彼はしつこく叔父に父上と呼ばせて欲しいと、息子と認めて欲しいとお願いした。叔父は、困ったように笑って首を横に振るだけだった。悔しくて、悲しくて、腹立たしくて、泣きわめいても、叔父は頑として首を縦に振ってくれなかった。だから、一時期は嫌われないよう、認められるように、頑張らねばと思い込んでいた。ジャックとともに暮らすようになってからは、ますます顕著になっていった。

 親という存在は我が子を無償で愛するもので、自分は叔父の無償の愛を得られない。叔父の庇護を失わないように、価値のある人間だと示さなければならない。皮肉なことにコーネリアスやダニエルたちが聞かせた父母の話から、彼はそう学んでしまったのだった。

 素直な子どもではなかった。

 世間がもてはやすほど、リセールの伊達男はかっこよくないのだと彼自身が一番良く理解していた。


 朝霧が晴れれば、出航の時間だ。

 甲板には、いつの間にか人がたくさんいた。

 おそらく朝霧のせいだと、マクシミリアンは笑う。

 勝手に孤独に浸っていた自分が、なんと滑稽なことか。

 これから、未知なる海を目指して旅立つというのに、これでは先が思いやられる。。


「フン」


 どこぞの善人の真似を真似て鼻を鳴らせば、憂鬱が霧散する。


「美しい眺めだな」


 朝霧から現れたリセールの街は、丘の上から見下ろすのとは違った顔を見せる。朝が早い河港の活気は、もうしばらく船まで届きそうだ。

 時計塔に行政庁舎の青い屋根を囲む、顔役たちの商館。

 街並みの向こうに見えるのは、丘の上の領主館。妻が帰りを待っている我が家だ。


「必ず帰ってくる」


 そう約束したし、このリセールこそが帰る場所。己の場所だ。

 マクシミリアンは、リセールが完全に見えなくなるまで甲板から動かなかった。




「奥様、旦那様を乗せた船は、無事に出航されました」

「そう、報告ありがとう。下がっていいわ」


 丘の上の領主館で、デボラは朝一番で岸を離れる船たちが全て見えなくなるまで、バルコニーから見送りたかった。

 春の陽気に眠気を誘われる日が多くなってきたとはいえ、まだ三月の早朝は肌寒い。体を冷やすわけにいかず温かい部屋で、執事の報告を聞いただけだった。

 朝一番に出航する船に乗るために、夫は昨日の夕方に領主館を出発し、リセールの宿屋で一泊している。

 なので、見送りは昨日すませたのだ。丘の下のリセールの街に行くくらいの、普段どおりの見送り。あえてそうでもしないと、夫を引き止めてしまいそうだった。


「本当に行かせてよかったの?」

「ええ、もちろん。よかったもなにも、わたしが行かせたんですもの」


 アンナが差し出したホットミルクのカップを両手で包み込む。


(本当に、よくできた使用人だったんでしょうね)


 つくづく隙がない人だと、顔をしかめて飲むホットミルクは少しばかり苦かった。

 王太子夫妻暗殺事件の資料を紐解いているときに、マクシミリアンが感じたように、デボラも違和感を感じた。

 まだ、何か知っている。それも、とても重要なことを。おそらく、あえて違和感のある言動をしたのだと、デボラは考えていた。

 昨夜、アンナは夫と入れ違いで領主館に戻ってきた。あまりにもタイミングが良すぎて、つい感心してしまった。


「……よかったに決まってるじゃない」


 少し震えた声で自分に言い聞かせた彼女は、ほんの一瞬、アンナが申し訳なさげにかすかに目を伏せたのに気がつかなかった。

 よかったに決まっているけれど、後悔はしないつもりだけど、心細いし不安で不安でしかたない。いたずらに不安を募らせる沈黙を払いたくて、デボラは独り言のようにぽつりぽつりと話をする。


「前に、ジャスミンに尋ねたことがあるの。神に祈るってどういうことなのかって」


 神なきヴァルト王国の民には、不確かな神がいると言うヤスヴァリード教の信徒たちを理解できない。

 ジャスミンは、王国史上でも珍しい異国から嫁いできた王妃だ。嫁いでくるに当たって、彼女は信仰を捨てなければならなかった。大陸西部の国々で、フラン神聖帝国の皇帝を神として崇めていないのは、ヴァルト王国のみだ。異国の人々が珍しくない商業都市リセールで生まれ育っても、神というものは理解不能だった。


「信じ抜くことだと、彼女は言ってたわ。疑うことなく信じ抜くのは、難しいこと。信じるには、ある種の強さがなくては駄目だって。驚いたわ。わたしはてっきり無条件で信じているものだとばかり。太陽が東から昇って西に沈むのと、同じくらいわかりきった存在だと」


 ジャスミンは、おかしそうに声を出して笑って、そんなわけはないと言ったのだ。


『信徒にとっても、神は不確かな存在よ。欠かさず祈りを捧げても、神は何もしてくれないの。理不尽な不幸は、どんな敬虔な信徒にも襲いかかってくる。そうなると、祈ることをやめて神を恨む人もいるわ。実をいうと、わたしももう祈るのをやめようと思ったことがあるわ。それも何度も。お気に入りのドレスが着られなくなったとか、些細なことでね。こういうの、あなたも身に覚えがあるんじゃないかしら。不確かなものは、神以外にもあるでしょう。愛とか』


 なんとなく、わかったようなわからないような話だった。


「彼女、こうも言ってたわ。祈ること、信じることで、強くなれることもあるのだと」

「あなた、リセール公が帰ってくると信じることで強くなれる。そんなくだらないこと、考えているの?」

「愚かしいでしょう?」

「ええ、とても」


 まさしく愚行だと、アンナは呆れを通り越して憐れみを覚える。


「まぁ、愚かではない人間が、この世に存在するとは思えないわ。だから、どんなに愚かしくても人の道を外れなければ、それは責めることではないでしょう」

「それでも、彼が帰ってこなかったら、国中がわたしを責めるはずよ。言い逃れるつもりはないわ。それだけの覚悟はしているつもり。つもりだけど。でもね、アンナ、彼――マクシミリアン・ヴァルトンは、必ず帰ってくるわ。彼、かなりの強運の持ち主なのよ」


 アンナは、デボラが少し羨ましいと思った。

 同じように、この国でもっとも尊い一族の男から寵愛を受けたというのに、こんなにも立場も考え方もまったく違う。

 コーネリアスだけがすべてで、実の息子に慕われることにさえ抵抗がある彼女にとって、王妃よりも身の回りの世話ができる侍女の立場のほうがよかった。自分の身の丈くらいよくわかっていたし、輝耀城というきらびやかな名称とは裏腹に、常に陰謀が渦巻いているような表舞台に興味はなかった。

 それでも、一度くらいは着飾って彼の隣に立ちたかったと思うのだ。


「それで、アンナはこれからどうするの?」


 そう尋ねながらも、デボラは彼女はすぐに出ていくだろうと予想していた。


「そのことなんだけどね。グッドマンに頼み込んで、今度リウル河を渡る隊商に混ぜてもらうことになったのよ」

「てことは、旅行家アンナ・カレイドの国外進出?」

「そんな大げさなものじゃないわよ。対岸のフレイズ国に滞在するのもたったの三日。それも、隊商に混ぜてもらっただけだから、観光は無理そう。グッドマンにも、迷惑かけるなってくどいくらい言われてるの」

「充分すごいわよ、アンナ」

「そのうち、普通に国外旅行してやるわ。アンナの旅行記、外国編なんてね」


 たかが三日だけとはいえ、国境を越えるのだ。年甲斐もなく、心が躍る。


「けど、出発はまだ先なの。だから、それまでリセール地方をめぐる予定よ。ベイクドビーンズを食べ比べしてみたいしね」

「ぜひぜひ」


 昨夜、領主館に戻ってきたのは、今後の予定をマクシミリアンに伝えるためだった。すぐにでも領主館を出発しなくては、満足にベイクドビーンズを食べ比べられない。

 アンナは、ポケットから取り出した手紙をデボラに手渡した。


「帰ってきたリセール公が、もしもまだ王太子夫妻暗殺事件を諦めていなかったら、これを読むようにわたしてちょうだい」

「わかったわ」


 快く手紙を預かったデボラは、このとき封を切って中身を確認するべきだった。実際、後に彼女は激しく悔しい思いをするのだ。あのとき読んでおけば、夫を危険な海になど行かせやしなかったのにと。





 彩陽庭園の棕櫚の木は、王国で唯一だとされている。

 珍しい植物を集めたその庭園を造った第五代国王は樹王と讃えられている。真偽の程はわからないけれども、植物をこよなく愛していたのは王妃のほうであるとも伝えられている。

 庭園でも異彩を放つ樹王が植えた棕櫚の木。けれども、この地では珍しくないことに、驚いたものだ。

 数ある棕櫚の木の中の一本。その根本には、黒いターバンの男が二人。

 一人は、片膝を立てて座りこみ、静かに本を読んでいる。

 もう一人はというと、


「暇だ。暇だー。ひーまーだー」


 寝転んで暇だ退屈だと、一人で騒いでいる。

 子どもが駄々をこねているようだけれども、寝転んだほうも、もう一人も口ひげを整えた中年の男だった。


「めっちゃ退屈すぎて、死にそう。なぁんで、俺たち、暇なんだよ。くそったれ。平和は上等最高、だが退屈だ」


 真横でわめいているのに、もう一人は我関せずとページをめくる手を止めない。

 いつものことだからだ。これが、彼らの日常だ。

 特にこの男は、今は暇だ退屈だとうそぶいているけれども、忙しかったら忙しかったで人使いが荒いだのなんだのと文句を言うのだ。


「なぁその本、何度目だよ。いやわかる。わかるよ。ロクな娯楽もないからな、ここは。新しい本を手に入れるために、わざわざ船を出すのも、どうかと思うよな。うんうん、わかる。けど、けどさぁ、なんでその本なわけ? 俺、ずーっとずーっと気になってんだよ」


 いよいよ話しかけられても、ページをめくる手は止まらない。寝転ぶ男の言うとおり、その本は繰り返し読まれたせいで、手垢がついてヨレヨレだった。


「女と女が乳繰り合ってる小説のどこが面白いのか、ほんとわっかんねぇんだよな」

「…………」


 とうとうパタンと本が閉じられた。


「ん? 怒った?」

「いや」


 肘をついて体を起こして読書をやめた男の視線をたどると、たちまち藍色の目を輝かせてガバリと勢いよく起き上がった。

 口を閉じると、二人の男の顔は瓜二つだとよく分かる。

 二人の視線の先には、駆け寄ってくる子どもの姿があった。髪を剃り落とした丸坊主頭の愛嬌のあるその子は、棕櫚の木の下で立ち止まると、息も整わないうちに興奮した声を上げる。


「お、お告ゲ、アウルの、オ告げ……あたヨ」


 たどたどしい片言の大陸語に、よく舌が回るほうの男はますます目を輝かせた。息子同然のその子が言うアウルのお告げが、退屈を吹き飛ばすような騒動をもたらしてくれると、よく知っているからだ。すべてが愉快なことだったわけではないし、死にかけたことも多い。

 けれども、退屈よりもずっとマシだ。


 大陸語で伝えるのがもどかしくなった少年は、勢いよく母語でまくし立てる。


「なんだって? アウルたちは、なんて言ってた」


 身振り手振りを交えてまくし立て終わると、尋ねてきた男を見上げることなく片膝を立てたまま聞いていた男は眉をひそめた。


「アウルの寵児が大陸からやってくると言っているらしい」

「アウルの寵児? あれか、伝説級の……」

「ああ、それだ」

「へぇ、面白そうじゃん」


 期待に胸を躍らせる声に、小さくうなずいて彼は続けた。


「なんでも、俺たちに縁のある奴らしい」

「俺たちに縁のある奴だぁ?」


 素っ頓狂な声を上げるのも無理はないと、ようやく腰を上げた男は先ほどよりも大きくうなずいた。

 縁のある者で、二人の脳裏に浮かんだ顔は一つだけ。けれども、彼ではないとすぐに消え失せた。では一体誰だろうか。


「いずれわかるだろう」

「それもそうだ。あー腹減った。飯食おうぜ、飯だ」

「メシ! メシぃ!!」


 弾む彼らの声に、棕櫚の葉は音を立てて揺れている。




 行く者と待つ者、待ち構える者たちは、まだ王国を揺るがした暗殺事件に隠された真実を知らない。

 けれども、明晰王コーネリアスが止めた事件解明の時計の針は、すでに解明の時に向かって確実に動き出していた。

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