三月二十二日 8

「それじゃ、いってきます」


 バイトが懐中電灯を持ってスタスタと中に入っていく後ろ姿を、夜須は見送った。あの腐敗臭は蓋を開け放したままなので、すぐに気がつくだろう。井戸の縁まで首が溢れていたから、見えないとか沈んだとかもないはずだ。


 腐って頭蓋骨から剥けた皮膚と髪が、隣の肉と混ざり合って、もはや顔の肉だったことすら分からない。黒ずんだ灰色と茶色い腐肉がドロドロに水の中で溶けきっている。


 目をつぶれば、それをはっきりと思い出せる。今に絶叫が庭から聞こえてくるだろう。夜須はバイトが叫ぶのを今か今かと待ち続けた。しかし、いつまで経っても悲鳴は聞こえてこなかった。


 まさか中で気絶なんかしてないだろうな、と夜須はやきもきする。明かりもない、月の光だけが頼りの暗闇に、いつまでも放置されているのは正直辛かった。しかし、様子を見に屋敷に入ってしまって、おかしな幻覚を見ないとは限らない。


 この門扉前にいるだけで、気味が悪い音が聞こえてくるかも知れない。想像を逞しくする必要などないはずなのに、どうしても考えてしまう。今自分が何かに怯えているのだと認めたくなかった。


 あまりに静かなので、夜須もとうとう落ち着いておられず、バイトの青年を呼んだ。


「おーい、君!」


 だが、返事はない。気が焦って、門扉から中を覗く。


 暗くて何も見えない中、月明かりが照葉樹の葉に照り返り、チラチラと光っている。山の空気の清廉な香り。夜闇のしっとりとした感触。冷たい風。時折聞こえる野鳥のけたたましい声。


 その中に人がいること自体、場違いな気がしてしまうくらいに、山と海の厳粛な夜。それと同時に、人でないものの存在を許してしまう夜の深い幽玄。ぽっかりと開いたありもしない穴に落ちていくような錯覚を覚えて、ますます不安になっていく。


 こんな夜に、何に遭遇してしまってもおかしくはない。恐ろしいくらいの闇に包まれて、自分を失ってしまいそうだ。


「おーい! どうしたんだ!!」


 せき立てられるように夜須は叫んだ。バイトが中で倒れているかも知れないという考えが頭をよぎる。けれど、助けに行く気はさらさらない。かんべに戻って、何度でも親父に助けてやれと言うつもりだ。それでも一歩でも家から出たくないと言い張るようなら、和田津の恐ろしい一面を確信するだけだ。


「おーい! 大丈夫かー!?」


 何度も読んで、ようやく微かに返事をする声を聞いた。


 よかった……、俺は中に入らずに済んだ。それだけが、暗闇に怯えていた夜須を安堵させた。


 やがて、懐中電灯の明かりとざしゅざしゅと砂利を踏む音が近づいてきて、バイトの姿が見えてきた。


「すみません。いろいろ見てたもんで」

「首、首があっただろう? 井戸の中に」


 すると、バイトの青年がきょとんと目を丸くする。


「何言ってんすか。井戸は確かにありましたけど、中には何もなかったですよ?」

「は?」


 これには、夜須は咎めるような返事をするしかなかった。


「あっただろう! 腐った首の山が! 反吐が出る臭いだってしてたはずだ!」


 バイトが困惑した顔で答える。


「なかったですよ……、一体何を見たんですか。確かに井戸はありましたけど、首なんてなかったし、水だって涸れてましたよ。石を落としてみたら、音がしましたもん」

「何言ってんだ。俺が嘘をついたとでも言いたいのか? ああ!?」


 バイトが慌てたように笑顔を作りなだめてくる。


「そんなことは言ってないですよ。落ち着いて下さいよ。本当に何もなかったんです。そんなに疑うのなら、一緒に中に入って確かめましょうよ」


 中に入るくらいなら死んだ方がましだ。入らなければ入らなかったで、やはり夜須は自分があの幻覚を信じていることにもなる。夜須は頭に血が上って、顔が赤らむのが分かった。夜須の目がつり上がり、一見すると怒りで我を忘れたのではないか、と疑われてしまいそうだ。バイトが、そう考えて身を引いているのが分かる。


 夜須はどうしようもない恐怖と戦っているだけだ。先ほどまでの怯えが、自分のプライドと折衝する。首がないのなら、それは交野が片づけたのだ。しかし、それだと首を吊ったかも知れない交野を否定することになる。でも、もしもそれすら見せかけなら、交野はこの屋敷のどこか、もしくは島のどこかにいるだろう。大浦にいることも考えられる。しかし、それすらも憶測でしかない。


「あの……、大丈夫ですか」


 ずっと黙っている夜須を心配して、バイトが声をかけた。


 夜須はゆっくりと息をする。


「大丈夫だ。悪かった、驚いて取り乱しただけだよ」


 ほっと息をつく声がした。夜須が暴れると思っていたようだが、さすがに夜須でも簡単に暴力は振るわない。


 今から相当な勇気を出して、挑まねばならない。女子供のように怯えていられない。首がないのなら確認して、心の底から安心するしかない。超常現象を徹底的に否定できるのは今だけだろう。それにあのときは一人だった。バイトがいれば、あの変な声も聞こえないと思われた。


 何度も深呼吸する。おかしいくらいに手が震える。大丈夫だ、今は一人じゃない。と、言い聞かせる。本音は走ってかんべに戻りたい。一人ならそうしただろう。明かりがなくても、倒れ込んでも、石段を駆け下りて、他の人間の気配のする場所に逃げ込みたい。


 ふぅと息を吐いて、夜須はバイトに言った。


「俺も行くから二人で確認しよう」


 最初からそうすればいいじゃないか、という目つきでバイトがチラリと夜須を見てきたが、今は我慢しておいた。


「じゃあ、行こうか」


 入ろうとしても足が止まってしまう。ガクガクと膝が震えてきたが、ゴミを払うふりをして太腿を両手で強く叩いた。痛みで震えが鈍った隙に、夜須は門扉をくぐるのに成功した。


 先行後行でも同じなので、バイトから懐中電灯を受け取り、先を進んだ。迷いなく井戸のある場所に向かう。


 井戸は夜須が逃げた時のままの状態であった。竹の覆いが地面に無造作に落ちている。


 締め殺しの木には何もぶら下がっていない。蝶の群れもいない。井戸はと言えば、バイトの言ったとおり何もなかった。井戸を覗くのは気が引けたが、思い切って小石を放り込むと、微かにカツンと言う軽い音がした。首どころか、水すら井戸には入っていなかった。


 夜須はただ呆然として、これが現実だった、と受け入れた。最初から何も起こっていなかったのだ。もしくは、やはり交野は生きているのではないかという憶測が頭をよぎった。


 あれは全て、きっと交野の渾身の演技だったのだ。そう思うことにした。


「ふふ」


 夜須は自分がこれほどまでに交野に怯えてしまったことがおかしくて笑った。


「俺の勘違いだったみたいだな」


 上手に引き下がっておかないと、自分がみっともない。しつこく自己主張しても仕方ない。夜須は、バイトを引き連れてかんべに戻った。

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