三月二十二日 9

 かんべに戻ったのは二十時を過ぎた頃だった。あとは明日の朝一番の定期船に乗って帰るだけだ。結局、交野に振り回されてシジキチョウのことをよく調べることが出来なかった。


 惣領屋敷でのことは、交野の自作自演だったのだという考えで落ち着いていた。生きていようが死んでいようが、もう二度と関わり合いたくないと思った。次回シジキチョウのために志々岐島を訪れても交野には知らせないつもりだ。


 夕食を終え、寝支度を済ませた夜須は、布団の中でわだつ日記を開いた。クシャッとしわが寄った鍾乳洞の地図を手のひらで伸ばしながら傍らに置いて眺める。鍾乳洞の地図は海側の入り口までを書いた断面図だ。場所の特徴と名前が筆で書かれている。穴は徐々に低くなり、内部は狭まっていき、海側の入り口で突然広くなり天井が高くなる。地図には推測通り、確かに碧の洞窟と書かれている。確かに碧の洞窟と書かれている。こうして見てみると、満潮の時、海抜の低い碧の洞窟と狭い部分は完全に水没してしまう。満潮時に潮流で死体が流されれば、自然と引き潮の時に碧の洞窟内に引き込まれてしまうだろう。だから、ひるこさんが碧の洞窟内に上がるのだ。


 最初に祟り殺された惣領親子は、この仕組みを知っていて、女神——綿津見毘女命わだつみひめのみことの祠をわざわざ碧の洞窟内に作ったのだろうか。


 てふを殺したのと同じやり方で、洞窟内に贄を放置して、女神に捧げていたのではないか。しかし、てふを殺したあと、惣領親子は贄を差し出すのをやめたわけではなさそうだ。日記にはてふが死んだあと、不漁になったとある。それは偶然ではないはずだ。女神は惣領親子の欲望ではなく、てふの願いを選んだのかも知れない。てふ自身の何かが女神の目的にかなったのかも知れない。では女神とは何者なのだろう。分からないが、何らかの意思を持った存在なのかも知れない。


 三月二十二日はてふが殺された日なのか。インターネットで検索すると、三月二十二日は源平合戦が決着した日に近い。偶然、てふはその日を『贄の日』に選んだ。


 けれど、そうなるとひるこさんが上がったから豊漁だ、と喜んでいた漁師たちの言動はおかしい。ひるこさんが上がると豊漁になるというロジックは、実は消極的贄を指す言い方なのかも知れない。事故で亡くなった場合でも、女神は贄判定すると言うことだ。ただの水死体と贄の区別はどこで判断するのだ。もしかすると、その判別はシジキチョウが現れることに関係していると考えられないか。漁師たちの言葉はそこに起因すると思われた。


 シジキチョウが現れなければただの水死体で、現れたら豊漁のしるしなのだろう。だから、あのとき漁師たちはシジキチョウの話をし、その本当の意味を知られたくなくて夜須を追い払ったのだ。


 なかなか眠たくならず、夜須はわだつ日記を手にしたまま寝返りを打った。枕元に置いた腕時計を見て、一時間二時間と無為に時間が過ぎていくのを確認してしまう。


 それにしても、島民を祟る目的で海に牽いている御先様は、結局、この島に富を齎していることになる。皮肉なことだ、と夜須はせせら笑った。なぜなら、もはや和田津集落に住む人たちは自分たちが贄にならないために、策を講じているのだから。


 わだつ日記ではそこまでは言及はしていない。おそらく海で死んだ交野家の先祖たちが連綿と語り継いできた話を書き記しただけなのだ。交野家は確実にてふの願い通り根絶やしにされた。いや、まだ交野がいるかもしれないから根絶やしにはなっていないか、と夜須は独りごちた。


 ただし、揚羽がてふの化身ならば、一緒にいた交野の存在は酷くあやふやになる。考えないようにしていたが、夜須は惣領屋敷の荒れ具合を思い出してしまう。交野は一年前にいなくなったという島民の言葉を信じるならば、院をやめてすぐに姿を消したことになる。いったんは島に帰ってきてから、消えたのだ。それを積極的に探さない島民になんとなく悪意を感じた。自分たちだけ助かればいいという考え方だ。夜須は島民たちを醜い人間だと断じた。


 眠くなってきて思考が散漫になり、まとまりがなくなってくる。


 女神とシジキチョウは結局どこから来たのだろう。鯨と一緒にやってきたと言い伝えられている。空ろ舟に乗ってやってきたとガイドが言っていた。鯨が空ろ舟だったのだろうか。その腹の中に、得体の知れないものがシジキチョウと一緒にいた。それが海の女神——綿津見毘女命と呼ばれる存在として祀られた。


 夜須はとりとめなく考えながら、次第に重たくなる瞼を閉じる。


 人々の信心が必要な神なのか、それとも贄を見境なく求めてむさぼり食っているだけなのか……。


 夜須も、誰にもその真意が分からない————。





「おーい」


 遠い場所から夜須を呼ぶ声がする。鼻先で潮の香りがする。冷たい海風が夜須の体を撫で、吹き付けてくる。呼ぶ声はくぐもっていて、深い海の底から聞こえてくるようだ。


 夜須は呼ばれている場所へ行かねばならないと思っている。


 気付くと、大浦へ行く道に立っていた。酒に酔っているようなふわふわした心持ちだ。外灯もない道路だが、案外明るい。空にはこぼれ落ちてきそうな程の星々がぎらぎらと瞬いている。その光が地上を照らしている。


「おーい」


 夜須はこれは明晰夢だ、と思う。道路や海沿いの風景、目前に見える、碧の洞窟の断崖が、昼間見たとおりにそこにある。


 さっきまでわだつ日記を眺めながら、布団の中にいた。寝間着代わりに持って来たジャージを着ている。手にわだつ日記はなかった。足裏が冷たい。体感が自棄に生々しい。


 けれど夢だと思うのは、自分を呼ぶ声がするからだ。とても遠いところから聞こえてくるのに、風や波の音にもかき消されないほど鮮明だ。


 空を見上げながら歩く。北極星が真上にあった。空に針で穴を開けて見る、子供が作った簡易なプラネタリウムのようだ。星以外に灯火はなく、下弦の月はずいぶん低い位置にある。


 暗闇に慣れた目に、黒くそびえる断崖の影が映る。白地の案内板が見える。足下は暗くておぼつかないが、階段があるのは分かる。手すりを握る手に、芯まで冷える感覚が伝わってくる。ステンレスの手すりの、つるつるとした感触も自棄にリアルだ。


「おーい」


 夜須はゆっくりと階段を上っていく。階段を取り囲むように木が枝を伸ばしている。空の星を映す海が見え隠れする。ねっとりとした海がチラチラと光を弾かせて輝く。ゆらゆらと波に光が揺れている。


 断崖に叩きつけられる波濤のさざめきが耳に聞こえてくる。五感を刺激する夢は初めてだった。


「おーい、夜須」


 声はだんだんと近づいてきた。いや、夜須が声に呼び寄せられて近づいているからなのか。名前を呼ぶ声に聞き覚えがある。澄んだ心地いい声音。自分に向けられていた声だ。自分が退けた声だ。


「おーい、夜須」


 その声は交野だった。

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