三月二十二日 7

「あ、すみません、食堂はもう終わってるんです」


 見たことのない顔の青年が、かんべの引き戸を開けた夜須に声をかけてきた。おそらく、夜須がかんべを出たあと、バイトとして島外からやってきたのだろう。


「あら、この人は宿泊の人ちや。おかえりなさい。夕食の準備出来ちゅーぜ」


 おかみさんがバイトにそう言って、夜須を見やった。


 夜須は部屋に戻ることよりも早く言わねばならないことがあった。惣領屋敷のことを伝えて、見に行ってもらうのだ。


「あの、惣領屋敷のことなんですが」


 おかみさんが元気な声で答える。


「あそこは空き家やきね。行ってきたがか。雅洋はおったか?」


 夜須はできるだけ大変だという演技をしてみせる。


「い、いや。あそこに井戸があったでしょう。あの中に首が浮いてたんですよ! 誰か見に行ってくれませんか」

「首?」


 おかみさんがあっけにとられたような顔つきになる。


「首ですよ、首! ほら、締め殺しの木の側にある井戸! 塩害で飲めなくなったって」


 すると、調理場にいる親父がカウンターから身を乗り出した。


「ああ、あの井戸ね。あの井戸がどうしたんや?」

「首が浮いてたんですよ! 誰か確かめてもらえないですか」


 すると、親父もおかみさんも顔を見合わせて困ったような表情を浮かべた。


「明日じゃいけないか?」


 首があったと知らせても親父は少しも慌てた様子がないどころか、惣領屋敷に行くこと自体、躊躇っているようだった。


 こいつらなんなんだ、と夜須は内心苦い思いで二人を見た。


 しばらくの沈黙のあと、バイトの青年が口を開いた。


「あの、俺が行きましょうか」

「あら、ええが!?」


 即座におかみさんがほっとしたように言った。


「いいですよ。でも惣領屋敷がわかんないんで案内してもらえれば」


 そう言いながら、バイトがエプロンを脱いで、椅子の背もたれにかけた。


「石段を登っていった先にあるからすぐに分かるよ」


 夜須は案内したくなくて、そう説明した。青年はそれでも一人で行くのは心細いのかもじもじと引き戸の前にいる。


「おまさん、案内しちゃってくれんか」


 親父が苦笑いを浮かべて、夜須に頼んできた。夜須はおかみさんのほうを見ると、なんとも言えない表情を浮かべて困ったように笑っている。


 夜須はこの島の因業を思い出して、心の中で舌打ちした。


 この島の連中はあの井戸のことを、首塚があそこに移動したことを知っているのだろうか。


「あの井戸って、何か謂れでもあるんですか」

「惣領屋敷の井戸のことか?」


 親父の返事に、夜須は少し苛ついた。知っている上で言っているならとんだ狸である。


「謂れねぇ。こじゃんと昔に海水が混じるようになったき塞いだ、というがは曾祖父さんから聞いたな。塞いだのは曾祖父さんよりずっと前の話やったらしいな」

「鍾乳洞前にある泉に首塚があったと思うんですけど、その井戸の横に移動してあったんですよ。誰がやったんですかね」


 どうにかして井戸に関心を持たせて見に行こうかと思わせられるか、夜須は何度も試した。


「首塚を? 事故で死んだ先代が持っていったんかな。それとももっと前の代でかなぁ」


 交野の親は事故死したのか、と夜須は不思議に思い、訊ねる。


「交野の両親、事故死したんですか」

「雅洋の親は海で死んだぜよ。先々代も海やったかな。せっかく漁師やめたのになぁ。あそこの男はみんな早死にやき」


 初耳だった。交野がいなくなったのはやっぱり自殺するためだったのだ。なおのこと井戸に行って調べてほしい。この因縁を、元々背負っているはずの島民に代わってもらいたい。


「昨日、交野の話をしたじゃないですか。もしかすると井戸に交野が落ちたかも知れないし、バイトだけじゃ無理でしょう。だれかいませんか」


 親父が頬を掻く。


「そがなん言うてもなぁ。駐在さんは大浦にしかおらんし……」


 怒鳴ってやりたい思いを押し殺して、精一杯困った顔つきで、夜須は食い下がった。


「なんですか。ここの習わしが怖くて外に出ないつもりですか。だれかが死んだかも知れないのに、無視ですか」

「そがなつもりやないぜよ。確認して何事もないことだってあるやないか。なぁ?」


 親父は同意を求めるようにおかみさんを見た。


「その子、結構しっかりしちゅー子やし、この島に慣れちゅーき。心配やろうけんど、確認をしに行ってくれるかしら」


 押し問答になってきて、埒があかない。


「俺一人じゃ無理なんで、付いてきて下さいよ。案内してくれたらすぐ帰っていいですから」


 気を遣って、バイトが言った。


 夜須は怒鳴りそうになるのを呑み込み、


「じゃあ、途中まで案内するよ」


 と、悔しい思いで結局折れた。





 かんべを出ると辺りはずいぶんと暗くなっており、ちらつく外灯の光が届かない場所で闇がわだかまっている。心地いい波の音だけが港に満ち満ちている。太平洋側だからか、それとも季節的なものなのか、それほど潮の匂いはきつくない。山裾まで石段を登っていくと、さすがに波の音は聞こえなくなった。


 夜須は惣領屋敷へ向かう石段へと案内した。四つに石段が分かれた所から、さらに上がった場所に惣領屋敷があると伝えた。


 一応懐中電灯を持って来たバイトが、懐中電灯の光すら呑み込んでしまう暗闇に怖じ気づいたのか、夜須に付いてきてほしいと言い出した。


「井戸の場所が分からないんで、教えて下さいよ」


 そんなの勝手に調べて、一人で行けよ、と夜須は悪態をつきそうになったが、ぐっと堪える。


「仕方ないなぁ。すぐわかるんだけどなぁ」

「そこを頼みますよ、お客さん」


 バイトも、雇い主の言うことを聞いていないとクビになるかもと言う心配をしているようだ。


 しかし、あそこに戻るのは、本気で難しい。あんな薄気味の悪い思いを再び味わいたくない。


 夜須は門扉の前までは来たが、ここまでが限界だった。


 何の因縁もない島外から来たバイトなら、幻覚を見ることもないだろう。どうすれば、渋るバイトを中に入らせるか、それが問題だった。脅してもいいが、あとがややこしくなるので、夜須は苦し紛れに言い放った。


「金をやるから一人で観に行ってくれ!」

「でも……」

「いくらでもやるよ。ほら」


 尻ポケットから財布を取り出して、中に入っている万札を何枚か、バイトの手に押しつけた。


 最初はあっけにとられていたバイトだったが、万札の枚数に満足したのか、引き受けてくれた。

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