三月二十二日

三月二十二日 1

 夢見が良くなかった。長い長い悪夢のようだったが、内容は覚えていない。ただ、寝る前に交野のことを思い出していた気がする。消えてしまった交野と揚羽と名乗る女。もしかすると大浦に移ったのかも知れない。そうなると自分でも探しにくくなる。ただ、あの屋敷の不気味な様子は思い出してもいやな気分になる。


 気付けばもう昼近かった。


 今日は御先様の奇習の日だ。御先様に道で行き逢うと海に牽かれて溺れ死ぬという。本当に皆、そんなことを恐れて引きこもっているのだろうか。


 夜須は、部屋の窓を開けて外の通りを眺めた。誰もいないんじゃないかと思って見てみたが、心配しなくとも観光客がちらほら出歩いている。そうそう水死体が簡単に上がるはずがない。現に去年、死亡事故はなかった。何も恐れるようなことはない。


 言い伝えなどあまり当てにはならないし、迷信であることに変わりはない。昔何かあって、それが習慣づいてしまっただけなのだろう。


 こんな考え方なので自分の論文に対して教授はいい顔を見せない。


『君には、集落に住む人々の文化や習俗に対して敬意が欠落している。一年前はあれほど良い論文を書いたのに、どうして突然、これほどまでに変わってしまったんだ』


 と言うのが教授の口癖になってしまっていた。その記憶が夜須を苛つかせる。


『交野君なら真摯に丁寧に時間をかけてでも聞き取りをおこなうだろう。だから、信用を得て深く彼らの風習や習俗を聞き取ることが出来るんだよ。君のやり方だと警戒されてしまって、題材を深く掘り下げることが出来ない。相手を尊重し、信仰に対して、もっと理解を深めようとは思わないのかね』


 教授はそう言うが、所詮盲信だったり、勘違いや思い込みによるものなのだから、それに信憑性があり、事実確認できれば信じてやってもいい、と夜須は日頃から思っているし、そういうスタンスで研究をしている。


 その点からすれば民俗学というものを斜から見ている仲間とは気が合う。


 夜須は着替えて階下の食堂に行き、朝飯兼昼飯を頼んで喰う。そうこうしているうちに時計は正午を回ってきた。


 とりあえず、言い伝えの検証をしないといけないだろう、と重い腰を上げる。


 外に出ようとする夜須に、おかみさんが声をかける。


「あら、出掛けるが? 気をつけてね」


 夜須は横目で一瞥すると、引き戸を開けて外に出た。


 外は太陽が照っているにもかかわらず薄ら寒かった。海から吹いてくる風のせいだろうか。


 港には今から遊覧船を楽しもうという観光客と、たむろして話をしている釣り客が見える。彼らは今日が奇習の日、家の外に出ていると御先様に海に牽かれる日だと、全く知らないでいる。島の人間は信じていようがいまいが、習慣だからとか言い習わしだからと外に出ず、屋内で様子を窺っているように感じられる。そんな島民に代わって観光客の相手をするのは、島外から来たバイトの人間なのだった。


 ぶらぶらと港を見て回っていると、券売所が見えてきた。遊覧船を待つ観光客が周囲に集まっている。カウンターの中で発券しているのは、見たこともない女性だった。


 気付けば、釣り客がぞろぞろと大浦へ続く道路に向かって歩いていく。


「なんだ……、和田津の奴ら、結局信じてやがる」


 和田津の人達がなんだかんだと言いつつ、奇習を信じている事実が、夜須には気味悪く思えた。





 当てもなくぶらぶらと石段を下っていると、だんだんと人気がなくなり、辺りにモヤがかかってきた。垣間見える空は快晴なのにおかしなこともあると思って足を止める。見えていた空もかき消されて、すっかり霧に覆われた。異様に寒く、何故か磯の匂いが立ちこめる。魚をさばいたときのような生臭ささに夜須は顔をしかめる。


 見通しが悪く、先にも進めず立ち止まっていると、視線の先に人影が見えた。その人陰は石段をゆっくりと登ってきている。このまま離合できないと思った夜須は足下を探りつつ、上へ二本、下へ二本に分かれた道の、人影とは反対の下る石段へ避けた。登り道の二本のうち一本は、その先に惣領屋敷がある。


 人影が静かに近づいてきた。夜須は思わず家の影に隠れて様子を窺う。


 やがて人影がはっきり見えたとき、夜須は言葉を失った。


 市女笠をかぶった赤い打衣姿の、赤ん坊を抱く女を先頭に、水干姿の男、その後ろを鎧武者二人、端切れのようになった服を着た男が二人。


 磯の臭いの原因はこの行列だった。とはいえ、水に濡れた様子はない。


 夜須は、あまりにはっきりと見えるので、目の前のことを現実だと断定した。


 女をまじまじと見る。顔は市女笠で隠れて見えないが、真っ白な肌に口には紅を差して赤い。腕の中の赤ん坊の姿は見えないが、むずかる声が小さく聞こえてくる。


 二人目の水干姿の男は折れた烏帽子をかぶっており、青黒く変色した首は異様に長い。


 鎧武者が見え始めて夜須は息を飲んだ。


 鎧武者に至っては、肩から上がなく、まるで首を斬られたように見えた。着ている鎧に細やかな鎖帷子まで見え、工芸品にしては高価そうに思える。


 なんとも不思議な仮装行列だと最初は思ったが、最後の二人を見て、本当にこれは島民が催した観光の目玉としての仮装行列なのかと戸惑った。


 頭が潰れ、目玉や二の腕、太腿という体のあらゆる部分を引きちぎられたり、ついばまれたように抉られたりして、腹からは茶色く変色した臓物が漏れている。それがゾンビのように無表情で落武者の後ろをよたよたと付いていく。


 彼らは列を組んでゆっくりと石段を登り、やがて惣領屋敷の方角へ姿を消した。


 霧は行列に付いていくように移動し、人影が見えなくなるとすっかり辺りは晴れた。


 唖然として見送っていると、突然、辺りの静けさを打ち破るようなけたたましい着信音が鳴った。


 ぎょっとしたが、それがスマートフォンだと分かると、夜須は安堵した。着信相手が表示されているのを確認する。電話は淨願寺からだった。


「もしもし」


 夜須自身は寺に用事がなかったので、何故かかってきたのか訝しく思いながら電話に出た。


 電話口から、淨願寺の住職が興奮した様子で話し出す。


「夜須さん。おまさんが帰ってからもしかしたら思うて蔵を漁っちょったら、あったぜよ、あった! 交野家の日記。まっこと古い日記でな、多分江戸時代や。それと鍾乳洞の内部の地図も出てきた。日記のほうは字がなんとも難しゅうて読めんき、おまさん、良かったらうちまで来てくれんか」


 蝶の情報ではないのかと、内心落胆はしたが、鍾乳洞の地図は見てみたいと思う。


「分かりました、今から伺います」

「いやぁ、二十二日に出歩かして悪いな。それじゃあ、待っちゅーき」


 大浦では御先様の存在は知られていても、本当に起こっている災厄ではないと思っているらしく、それは住職も例外ではなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る