御先様 6

「そろそろ引き潮やな」


 火丸が崖から下を覗き込んでいる。その背を押して突き落としたい。


 乱暴に背中を突かれて、わたしは斜面を下りていく。村の中を通り抜け、丸太を渡した小舟に乗せられた。


 碧の洞窟の岩礁の手前に小舟を寄せて、そこで下りろと言われた。引き潮のせいでくるぶしまで海面が下がっていた。表面が鋭く尖った岩礁を歩かされ、洞窟をくぐる。猫の額ほどの砂浜があり、その奥に石で作られた小さな祠があった。


 宗順が昔教えてくれた。大きな勇魚くじらが碧の洞窟に流れ着いて、それで飢えをしのいだと。女神を、その鯨が齎したのだ。赤い蝶はきっと捧げられた屍を喰って女神の下へ帰り、女神はそうやって捧げられたものを蝶を通して食らうのだろう。その見返りが富なのかも知れぬ。


 鯨が流れ着いて以来、こやつらは富を欲して捧げ物をし、女神が捧げ物を欲して富を齎す、それを繰り返しているのだ。


 ドサリと音がして振り返ると、宗順の遺骸が岸辺に横たわっていた。わたしは後ろ手に綱で括られ、洞窟に放置された。


 火丸が洞窟から出ながらゲラゲラ笑っている。


「これで今日も豊漁やなぁ」


 笑い声はやがて小さくなり聞こえなくなった。


 わたしは膝立ちになり、宗順の元へ這うようにして近寄った。冷たくなった骸に、いつの間にか小さな赤い蝶がとまっていた。まるで空中から湧くようにどこからともなく蝶がやってきて、宗順に群がった。口吻を突き立てて肉をすすっている。


 女神は碧の洞窟の中におり、粗末な祠の中に収まっているのだろうか。女神は火丸どもの願いしか聞かぬのか。それとも捧げ物をするものの願いなら聞くのか。ならばわたしの願いも聞くのではないか。


 わたしは小さな祠に覆い被さり、こう願った。


「我が願いは和田津の地を踏む者、皆滅ぼすことじゃ。その血肉は全てあなた様に捧げよう。一年ひととせに一度でも良い。我が恨みを晴らさせてほしい。彦左、三郎の首を取った夜須の首もあなた様に捧げよう。我が恨みを聞き届け給え。我が願いを叶え給え」


 何度も何度も繰り返しているうちに、ひたひたと波がわたしの体に打ち寄せてきた。満ち潮だ。ここはいずれ沈む。そのときにわたしの命も捧げよう。宗順、彦左、三郎、名もなきわたしの赤子。わたしに恨みを晴らすだけの力をおくれ。最後の願いじゃ。聞き届け給え。


 潮がわたしの胸を打つ。宗順の体はとうの昔に屍喰い蝶に喰われて中身をうしのうてしまったのか、沈んで消えてしまった。けれど、彼の魂はわたしとともにある。そばに寄り添ってくれているのを感じる。彦左と三郎もずっとわたしとともにあった。崖から放り投げられた可哀想なわたしの赤子も、今は腕の中にいる。よかった……、魂までは喰われてなかった。皆、わたしと同じ思いを抱いている。わたしはわたしの願いを叶えるために女神に自分自身を捧げる。


 まもなく、わたしの頭がとぷんと、波間に消えた。





 時化の日を何故か見誤って、恒世と火丸は海に出た。最近、海で死ぬ者が少ないせいで、魚がさっぱり獲れなくなった。それどころか、和田津の者が海に落ちて碧の洞窟に上がる。洞窟の前には激しい潮流があり、巻き込まれると岩礁で体を削られ、首がもげてしまう。その首がどうしても見つからない。住職は知っているようだが、口が重たい。


 いまや、和田津は女神の恩恵にあずかれなくなったようだ。そのせいで、恒世と火丸は焦っていたのだろう。海が凪いでいると勘違いして小舟を出した。何故、そのような誤ちを犯してしまったのか、二人には全く分からなかった。小舟は頼りない木っ端のように激しく波にもまれる。


 これはもう助からないのだと、どちらともなく観念した。波飛沫を受けながら、二人は小舟の縁にしがみつく。いつ海へと放り投げられるか分からない。


 ふと、火丸が気付いた。波の向こうに何かが立っている。


「父ちゃん、あれ、なにか見えるぞ」


 白い人影がするすると滑るように近づいてくる。今まで感じたことのない怖気が、火丸の背中を走る。


「ありゃ、鵜来島の連中が言いよったミサキじゃないか?」

「鵜来島までこじゃんとずいぶん遠いぞ。たかが亡霊がここまで来るものか」

「来るも来んも、今目の前におる」


 目の前にあるものを認めようとしない恒世に、火丸は震えながら指差した。


 市女笠を目深にかぶった、赤い打衣姿の赤子を抱いた女と、水干を着た若い男、ざんばら髪に鎧を身につけた男が二人。


 見覚えのある姿に、火丸は総毛立つ。


 列を成した怨霊が海面に浮いている。


 波が激しく小舟を揺らす。ギシギシと軋む舟はまもなくばらけて壊れそうだ。


 先頭の女が、片手を差し出して、くいっと何かを牽いた。


 途端に、ガクンと恒世の体が舟から落ちた。火丸が驚いて叫ぶ。


「父ちゃん!」


 女がまた、くいっと何かを引っ張った。


 火丸は袖を掴まれて、海へと引きずり込まれた。恒世が波に呑まれて消えていくのが見える。懸命に手足で海水を掻いて磯場にたどり着こうと必死になった。しかし、女が手を動かす度に火丸の服の裾が引っ張られて、どんどん体が海に沈んでいく。小舟の縁を掴もうと片腕を上へ伸ばしたが、海に引きずり込まれるほうが早かった。

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