三月二十一日

三月二十一日 1

 翌朝、朝九時にかんべに行くと約束していたのだが、そのまえにアクアマリンへ行って予約を取り付けようと、交野が勧めてくる朝食を断り、八時前に屋敷を出た。


 交野が集落の事情を話してくれたが、今日は同行しないつもりなのか、玄関で見送ってくれて外に出てこなかった。揚羽は相変わらず物陰から姿を見せて、長い髪を垂らし軽い会釈をした。塩辛いジャリジャリする食事はもうこりごりだったので、朝食は港前に小さな売店があるからそこで買い食いしようと考えていた。


 山から吹き降ろす風が自棄に冷たい。薄めのブルゾンを持って来て正解だった。次第に暖かくなるだろうが、それまでは羽織っていよう。それに昼頃にはツアーも始まっていることだろう。


 石段を下りながら、和田津集落全体を見渡す。港前に家屋が密集し、斜面の家々はまばらで少ない。それで余計に石垣と石段が目立っている。そのほとんどが空き家だ。志々岐島も例外なく、若者が島を出て行き、老人や働き盛りの壮年層が島に残る。Uターンもいるらしいが、そんなものは片手で数えられるくらい少ない。


 交野から聞いたが、今から向かうアクアマリンの店主もその一人らしい。人口が少なくても充分生活していけているのは、ひとえに観光客のおかげだろう。観光客がいなければ、限界集落と化していずれ廃村になる道を歩むしかない。


 それにしても、こんな島にUターンしてくる気が知れない。青い海に囲まれる生活に憧れる、ナチュラル志向の意識高い系の人間が、物好きにも都会から志々岐島にIターンしてくるとも聞いた。シジキチョウのことがなければ、夜須はさっさと島を出ているだろう。


 明日は二十二日で翌日に目当てのシジキチョウが現れるのだ。けれど、二十三日の朝一番の定期便に乗らなければ、研究発表会に間に合わない。だから、意地でも二十二日までにシジキチョウを捕まえてやる、と夜須は決意を固めていた。


 石段から下り立つと、まずは券売所前のアクアマリンへ急いだ。すでに観光客が歩き回っている。夜明け前から夜釣りを楽しむ釣り客の影が、港の堤防にまばらに並んでいる。猫のような鳴き声を発しながら、海猫が釣り客の釣果を狙って飛び交っている。


 アクアマリンはすでに店を開いていた。


 店内を覗くと店長と多機能ベストを着込んだ老人が談笑していた。けれど、すぐに夜須の存在に気付いて挨拶してきた。顔を覚えていたのか、「碧の洞窟ツアーの申込みですね」と立ち上がる。


「何時のツアーが開いてますか」

「昼間に干潮になるときにしかツアーをしないんで、時間は決めてないですよ」

「干潮って何時ですか」

「十四時かな。ツアーの種類があるんですけど、どうします? カヌー巡りとスキューバダイビングとシュノーケリング。カヌーは岩場に上がって洞窟内には入らないけど、洞窟内も見たいんでしたらシュノーケリングがおすすめですよ」

「じゃあ、それで。ところで防水カメラとかある? 洞窟内は暗いんだろ? ライトも欲しいんだが」


 店主がにこやかにどれも貸し出していると言った。ただし、カメラ画像だけは記録媒体を購入してもらうことになっているらしい。


 夜須は事前に記録媒体の代金を支払い、ツアーは一日に一回だけなのかと訊ねる。


「干潮になるのが、昼と夜中に一回ずつなんですよ。満潮になると、急に潮流が激しくなって、深みに引きずり込まれちゃうんですよね。それでよく事故が起こるんですよ。夜中にね、黙って海に入って溺れるお客さんもいるから」

「潮流が激しいのなら、干潮時も危ないんじゃないか?」


 夜須の疑問に店主が答える。


「干潮の時は潮流が穏やかになるんですよ、だからよほどじゃない限り溺れたりしません、安心してください」

「まさか一人で行くんじゃないだろうな?」

「いやいや、ちゃんと免許持ってるプロが同行します。大丈夫ですよ。ただ、天候が急変したら中止です」


 夜須は確かめるようにドアから空を見上げた。重量感のない薄い雲が空に浮かんでいる。


 天候を気にしているのを見て、店長が笑う。


「今日は天気いいですね!」

「もしも、今日、碧の洞窟に行けなかったら翌日も潜れるのか?」


 二十二日に潜ったほうがシジキチョウと遭遇する確率が高いのではないか、と夜須は思った。


 すると店長が首を振る。


「いやぁ、二十二日は勘弁して下さい。この島の風習ご存じですよね」

「御先様か」


 店主が強く頷く。


「そうなんですよ。この店開けてるんだから気にする必要はないんですけどね、やっぱり長年身に染みついた習慣というのはなかなか拭いきれなくて。だから、今日を逃すと、二十三日と二十四日しか碧の洞窟ツアーができないんですよね」

「干潮は日に二回あると言ってたじゃないか」


 夜須がむっとして言い返した。


「すみませーん。二十日から二十四日まではギリギリ昼間に干潮になるんですよ。この日を逃すと暗くなってからということになるんで、危ないからやってないんです。二十四日は本当にギリギリなんで、カヌーしかおこなってません。夜の海は怖いですよー」


 実質、今日と明後日しかチャンスはないのだ。


「そういうことか……。早めに島に来て良かったよ」


 もしも、二十一日に島に来ていたら、二十三日しか行けないところだった。その二十三日も朝一番の定期便に乗って帰る予定だ。それを逃すと、あとは夕方便しかない。


 危ないところだったな、と夜須は冷や汗を掻いた。


「本当に今日ツアーに参加できるお客さんは運がいいですよ!」

「しかし、明日行きたいという観光客がいたらどうするんだ?」

「二十二日は出歩かんほうがええ。ましてや碧の洞窟に近づくなどもってのほかだ」


 ずっと、静かに二人の会話を聞いていた老人が口を挟んだ。夜須は怪訝に思って老人を見た。


「わしは御先様は迷信や思うちゅー。やけんど、大昔から受け継がれてきた風習やき、そのものに意味があるがやろう。やき迷信思うちょっても外に出ん者もおる。ひるこさんにしても、あれは鯨が漂着したことを言いゆーんだ。漂着した死骸を食べに魚が集まる。ひるこさんに群れる魚を捕獲して豊漁になると喜ぶ奴らがおるがよ。不謹慎や。ろくでもない」

「まあまあ、親父。観光客はそんな風習知らないし、知っても迷信だと思うんだから、出歩くのは仕方ない。漁業組合の若い奴らほど御先様のジンクスは信じてないんだし」


 二人の会話を聞きながら、内心、店主の父親が何故ここまで憤るのか夜須には分からなかった。ひるこさんと豊漁を結びつけているのだから、水死体が上がることを喜ぶのは仕方ない。水死体にシジキチョウが群がるのであれば、自分もひるこさんを期待してしまうだろう。現に心の奥底では望んでいる自分がいる。生活がかかっていようが、たとえそれが趣味であろうが、願うこと自体は悪いことではない。別に自分の手で他人を殺めるわけではないのだから。

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